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第三十五話
道頓堀が語る秘められた歴史
 
 
文/写真:池永美佐子
大阪一の繁華街に流れる川として、日本中に名を馳せる道頓堀川。この言葉を聞くとグリコのネオンや、かに道楽のド派手な看板がかかる風景が思い浮かんでくるが、その歴史や川にかかる橋の由来については案外知られていない。
「道頓堀川は、大坂夏の陣の後1615年に開削されました。東横堀川とともに現存している数少ない堀川です」。おなじみ大阪案内人、西俣稔さんの解説で知られざる道頓堀川のルーツを追った。
●戎さんや大黒さんの参道だった「戎橋」と「大黒橋」
地下鉄難波駅で待ち合わせた西俣師匠と、地上に出て心斎橋筋にかかる戎(えびす)橋に向かう。
「難波はいまでこそ繁華街ですけど、江戸時代は難波村と呼ばれ、一面ネギ畑やったんです。蕎麦の「鴨なんば」あるでしょ。鴨肉とネギの入った・・・そのなんばは、ネギのことですわ。難波のネギはそれほど有名やったんです。大阪は明治以降、人口が増えて大大阪に発展していく中で、難波もだんだん市街地に変貌しました。天王寺で開かれた内国勧業博覧会をきっかけに道が拡幅され、市電が開通され・・・難波も発展していったんです」。
毎日のように難波を通るのに、知らなかったなぁ・・・。
師匠が手にする1800年の古地図を見ると、当時の道頓堀川は、西横堀川から木津川まで流れ、すでに7本の橋が架かっている。
「まずは、戎橋の名前の由来からいきましょう。この道を南下すれば、今宮戎に通じる、えべっさんの参道として付いた橋名です。この西側にかかる大黒橋は、浪速区敷津西にある大黒主神社(敷津松之宮)の参道です。どっちも由緒ある橋名ですね」。
ところが、このおめでたい名前には苦難の歴史があるという。
「えびす、という言葉は、明治初め、鎖国を解いた政府は外国への配慮で「戎」使用禁止令が出されたんです。戎は西戎(せいじゅ)で、東夷(とうい)北狄(ほくてき)南蛮とともに、中華思想で周辺国を蔑視する意味なんです。この橋も戎に代わって「永成橋」という名称が使われました。その後、再び戎に復活したけど、悲しい歴史です」。

悲しいといえば、いま戎橋は「ひっかけ橋」なんて不名誉な名前で呼ばれていますが・・・。

「ほんま許せないことです。若者だけでなく、年配の人まで使っている。15年ほど前、南警察署で、この橋はひっかけ橋ではありません、正しく戎橋と呼びましょう、と放送していました。この放送、復活してほしいですね」。
憤慨する師匠。本当に悲しんでいるのは、美しい名前をつけた先人たちかもしれない。
2007年にリニューアルした
戎橋
 
●西道頓堀川にかかる橋
現在の道頓堀川は、東横堀川と木津川を結んで全長約2.5kmの長さ。でも、普通私たちが「道頓堀川」と呼んでいるのは、東横堀川とかつて西横堀川のあった阪神高速1号線との間で、それより先は「西道頓堀川」と呼ばれる。
その西道頓堀川には、四ツ橋筋に架かる深里(ふかり)橋のほか、住吉橋、汐見橋、幸(さいわい)橋、日吉(ひよし)橋など昔ながらの橋が架かっている。師匠の解説。
「深里とは難波村の字(あざ)名です。大坂市内から難波村の入口に当たり、難波村の広大な田地の風景から「深里」と付けたんやと思います。住吉橋からは南はるかに住吉大社の高灯篭が見えたと伝えられます。南下すると勝間(こつま)街道につながって住吉大社に着いたのかもしれません。汐見橋では、大阪湾が付近まで入り組んで汐の満干が見えたんでしょう。いまも幸町として町名に残っている幸橋。低湿地帯で何回も洪水にあって町の安全発展を願って付けられたのではないかと。日吉は秀吉の幼名ですけど、江戸時代に架設されているので秀吉とは関係なく、幸橋と同じように縁起をかついで付けられたんでしょう」。
橋名から、かつての風景やここで暮らした人々の思いが読み取れる。
●道ならぬ恋の出会いスポット「相合橋」
戎橋から東側の道頓堀川は、堺筋まで河川敷が整備され遊歩道が続いている。橋のたもとの階段を下りて遊歩道を進むと「相合(あいあい)橋」が現れる。
「南岸には芝居小屋が並んでいたんです。一方、対岸の北岸には花街があった。それで芝居小屋に通っていた旦那衆と花街の娼婦が落ち会い、この名前が付いたと伝わります。なかなか粋な名前やね」。
古地図を見れば、大西座(後の浪花座)、中座、角座、若太夫座、竹田座(弁天座)の五つの芝居小屋が並んでいる。これらは、公許の印である「櫓(やぐら)」を掲げていて、後にできた朝日座とともに「六つ櫓」と呼ばれたという。
一方、相合橋の由来に関して、もう一つ説がある。
「もともと中橋とも呼ばれていたんです。ところが、この北にある長堀にかかる橋も中橋で、同じ名前でややこしい。そこで、中と中を取り持つ、ということで相合橋になったということですわ」。
対岸には「373」と暗号のような看板を掲げたラブホテルらしき建物が見える。
「みなみ、と読むんでしょうね、こんなところにも大阪の歴史が現れています」。苦笑する師匠。
恋物語の舞台
相合橋
●紀州街道の起点「日本橋」
次にあるのは「日本橋」。
「日本橋は幕府が架けた公儀橋です。当時の将軍、徳川吉宗が紀州藩の出身やったことから、東の江戸の日本橋に対し、将軍は日本の例えとして、日本橋は紀州街道の起点いうことでこの名前が付いたんでしょう」。
ちなみに東京の日本橋は「にほんばし」だけど、大阪は「にっぽんばし」と読む。
 
紀州街道に通じる日本橋
●実在しなかった「安井道頓」?!
「道頓堀という地名は何から来たか知っています?」
はいはい、それはもう! 川を開削した人ですよね、安井道頓・・・。
「その答えなら50点(笑)。道頓堀川は水運路の確保のために安井道頓によって開削が起工され、その後、大坂夏の陣で道頓が戦死した後、従兄弟の安井道ト(どうぼく) が事業を引き継いで元和元年(1615)に完成した・・・と、ずっといわれてきました。ところが、なんと安井道頓なる人物はいなかったんです。ちょっと向こう岸に渡りましょう」。
意外な事実にとまどいながら師匠について橋を渡って日本橋北詰の交差点へ。堺筋を横断すると北東角に高さ3メートルほどある石碑が建っている。彼らの功績を称える記念碑らしい。でも、「贈従五位安井道頓 安井道卜紀功碑」と刻まれている。師匠が続ける。
「昭和40年に安井道卜の12代目の子孫、安井朝雄さんが、道頓堀川とその河川敷は自分の祖先が私財を投げ打って完成させたので所有権を確認してほしい、と訴えたんです。いわゆる道頓堀裁判です。その中で、安井道頓なる人物は存在せず、道頓の姓は成安(なるやす)であることが判明したんやね。ミナミの一等地の権利をめぐるこの裁判は、当時大きなニュースになりました。裁判は12年もかかって、その間に歴史学者が調べ続けて真実が分かったんです。結果は道頓、道トの功績は偉大やけど豊臣家から許可を受けた公共事業なんで所有権は幕府にある、ということで原告の主張は却下されました。けど、この裁判で道頓堀の歴史が深まったことは、ものすごく意義深いことです」。
ちなみに石碑は大正4年(1915)に設置されたもの。
 
安井道頓・安井道卜紀功碑
●奈良街道に通じる「下大和橋」
さらに東に行くと「下大和(やまと)橋」が現れる。ここから道頓堀川は北に曲がって東横堀川と合流する。
「大和は、奈良。東横堀川にかかる次の上大和橋とともに、南に行く現国道25線の奈良街道に通じています。江戸時代から脈々と受け継がれている橋名です。では、大和と書いてなんで「やまと」と読むか? もう分かりますよね、何回も言うてるから(笑)」。
えーと、奈良時代に行われた地名の二文字化で、シャレた漢字を当てているんですよね。でも、由来は何だったか・・・。
「山に囲まれた処やから「やまと」、ほんまです (笑)。地名は全て漢字二文字にしなさいという和銅6年(713)の風土記によるお達しで、この「やまと」に大和という字を当てたんです。大らかで和むような地になるように、との願いをこめています。大和の「和」の字は禾(のぎ)が、武器を置き、口が話し合っているさまです」。
古地図を見ると、道頓堀川と東横堀川に加え、西の西横堀川と、北を東西に流れる長堀川で区切られた一角は「島之内」と名付けられている。中央区に地名としていまも残る「島之内」が、まさに4本の川で区切られた土地であったことがうかがえる。
 
奈良街道に通じる
下大和橋
東横堀川にかかる
上大和橋
●高津宮にある小橋の秘密
東横堀川にかかる上大和橋を渡って、すぐ東にある高津宮(こうずのみや)に向かう。
参道にある、幅2メートルほどの小さな石の反り橋で足を止めた師匠。
「この橋は梅乃橋です。上町台地には昔から名水が湧き出すことで知られています。この源流も上町台地の湧水です。いまはすっかり枯れてしまっているけど、昔はこの橋の下に細い川が流れていて、この川が道頓堀川に注いでいたと言われているんです」。
古地図を見れば、確かに糸のように細い川が東の寺町からすり抜けるように描かれている。それにしても全国に名をとどろかす大阪のシンボル拠点、道頓堀川の源流が、こんな細い川にあったとは!
「梅乃橋」という名前からして、この辺りは梅の名所だったのだろう。高津宮の東側は、今も梅の並木道になっている。取材で訪れた1月中旬、一見丸裸のように見える梅の木も、枝に目を近づけるとピンクや白色に色づいた小石のような蕾がぎっしりと付いていた。記事がアップされる2月の中旬から下旬にかけては満開になるだろう。
 
高津宮 にある梅乃橋
最近では、「とんぼり」という略称も使われている道頓堀。成安道頓さんや安井道トさんが聞いたら、さぞやがっかりすることだろう。先人たちのご苦労を忘れないためにも、私たちがきちんとした歴史観をもって、正しい地名やルーツを次世代に伝えなれければ・・・。
 
※最終話は、京都嵐山を歩きます。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ユニークな大阪ガイドを引き受けている。
これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
 
サソ