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第二十三話
運転士さんはスターのようにモテモテだった?!
−大阪初の市電が走った西区をたどる
 
 
文/写真:池永美佐子
大阪文明開化の中心地となった西区。このまちで第3弾となる今回は、大阪市内で一番初めに市電が走り、映画館や芝居小屋のある娯楽街としても栄えた九条界隈を歩いた。案内はおなじみ、まち歩き師匠の西俣稔さん。
●大衆娯楽のまちとして栄えた九条
今回は安治川トンネル(→前号にリンク)の九条側エレベーター入口の前にある「源兵衛渡」の交差点からスタート。目の前にはこの3月20日に開通する阪神なんば線の高架線路が九条駅に向かって南東方向にそびえている。
その高架の下、交差点の南東角から高架とほぼ平行するように商店街が延びている。
九条新道まで続くこの商店街、かつては「西の心斎橋」と呼ばれたそうだ。いまも、その店舗数は200以上。中央大通を挟んで「キララ九条」、「ナインモール九条」など、複数の商店街が安治川と木津川の間の西区を貫き、土日は大勢の買い物客でにぎわっている。
九条新道手前の商店街の近くに、小さな映画館「シネ・ヌーヴォ」がある。
九条の辺りは、昔は10館ほどの映画館と演劇や芝居小屋が軒を連ねていて映画や演劇のメッカだったという。師匠の話。
「シネ・ヌーヴォは、さまざまな名作やドキュメンタリー映画や、監督や俳優にこだわった質のいい映画を上映することで知られている劇場ですわ」。
平成9年(1997)の設立にあたって、多くの市民が出資したという。民間会社が運営しているが、大阪初の市民映画館になっている。
●大阪市で初めて市電が走った九条新道
商店街と、みなと通(国道172号線)が交わる九条新道の近くに「大阪市電創業の地」と刻まれた石碑がひっそりと立っている。師匠の解説。
「実は西区は大阪市で初めて市電が走った場所なんです」。
大阪に初めて市営電車が走ったのは明治36年(1903)。この年に内国勧業博覧会、いまで言う万博が天王寺で開かれたのをきっかけに関連事業で始まった。路線は九条新道東側の花園橋西詰から築港桟橋(港区)まで、約5キロの距離だった。
「なんと当時の電車は2階建て。釣に行く人も多いので、竿もいっぱい積み込んでいたんです。観光バスみたいな役割をしていたんですね。そして、運転士さんは金モールの制服、制帽姿で若い女性にモテモテ、いまならキムタクかな」。
なんだか聞いているだけでワクワクするような話。
「そんな運転士さんが、夜になると2階からライトを照らすんです。あそこを照らしてとリクエストされたら、パーっと照らすんで、家の中まで光が入り、住民の苦情が殺到した。それで取り止めになったという話も残っているんです」。
そんな市電も昭和44年(1969)、地下鉄の普及にともなって廃止された。それにしても大阪市内から市電が消えて、もう40年とは!  瞼を閉じると、イケメン運転士さんの乗った市電がゴーと音を立てて路面を走る姿が浮かんで来た。
 
 
源兵衛渡の交差点
シネ・ヌーヴォ
 
「大阪市電創業の地」の碑
●悲しい歴史を刻む松島遊郭跡と竹林寺
地図を見ると、東西に細長く広がる九条と境川をはさんで、北側に「本田(ほんでん)」、南側には「市岡」の町名が広がっている。
「本田というのは、その名が示すように、元からあった田んぼということ。1698年に新しく南にできる市岡新田に対してこっちの田が元やと伝えているんですね。さりげない地名にも、歴史の経緯が読み取れます」。
市岡新田を開発したのは市岡与左衛門という人。
「その与左衛門がせっかく作った田んぼも、2代目の伝三郎の代に台風で潰され、市岡家は、いまで言う倒産をするんです。その後、和田家が土地を受け継ぐんですけど、大正時代には市岡家の子孫が和田家を訴えて裁判訴訟を起すんです。それだけ市岡家は苦難の道を歩んだんでしょうね。この辺りには、和田家の屋号である「辰」の旧町名が付くモータープールが残っています」。
 
本田1丁目の交差点の前に「松島公園」と「松島グランド」がある。
「ここは、明治時代から終戦まで約350軒の郭(くるわ)があった遊郭やったんです。最盛期には400〜500人もの娼婦が働いていたそうです。ところが昭和20年の空襲で焼かれて、なんと270人もの娼婦が命を落として・・・。身寄りもなくて無縁仏になっていたその女性たちのお墓が、向かいの竹林寺にあります」。
「もう一つ、明治18年には、この遊郭に1400人の陸軍の兵が出入りしていて、その一人が酔った勢いで警官に小便をかけたことをきっかけに、600人の警官との大喧嘩に発展した。そんな事件も起こったんです」。
子どもたちや親子連れが遊ぶ、いまののどかな光景からは想像もできないような話だ。
向かいの竹林寺には、そんな薄幸の女性たちを祀ったお墓のほか、江戸時代、朝鮮から江戸幕府を訪れるためにやって来て大坂に立ち寄った「朝鮮通信使」の一員で、客死した金漢重(キムハンジュン)と崔天宗(チェチョンジョン)のお墓がある。朝鮮通信使は、将軍の代替わりの祝賀の際に友好親善を図る目的で日本を訪れた親善大使たちだ。渡来は12回に渡り、竹林寺はその中継点として重要な場所だった。
 
松島公園
 
竹林寺
●幕末に消えた「戎島」と「戎橋」
竹林寺の前の道は、江戸時代には尻無川の上流だったという。尻無川は木津川の支流としていまも残っているが、当時は安治川と同じく大川から分かれて大阪湾に注いでいた。
師匠持参の江戸時代の地図を見ると、向かいの松島公園は「寺島」という島になっている。
「寺の前にある島なので寺島ですわ。その寺島が松島に変わったのは、島の先端に松の木があったから。ところで、この島は戎島とも呼ばれていたんですけど「梅本町」に変わりました。「戎」の字は、中華思想で、東夷(とうい)、南蛮、北狄(ほくてき)、そして西戎(せいじゅう)と、周辺の民族を蔑視する表現やったんです。鎖国政策を取る江戸幕府は、周辺諸国に気を使って、国内で使われる戎という名前をすべて禁止しました。それで、ここも戎島という名前が消し去られてしまったんです」。
ちなみに道頓堀にかかる「戎橋」も、当時はその名前が使えなくなり、「永成橋」という名称で呼ばれていたそうだ。地名ひとつにも苦難の歴史が見え隠れする。
ついでにもうひとつ、尻無川という地名に関する師匠の薀蓄。
「尻ていうのは、体の尻のたとえで、先端という意味です。川というのはさまざまな支流が流れて本流と合流するけど、支流の先端が川尻ですね。尻無川は、大阪湾に流れ込むんで先端がないから尻無しなんです。その中で汲み取ってほしいのは、昔の人は尻という言葉や文字を恥ずかしいと思わんかったこと。この尻無川の北岸はかつて「尻無川北通」という町名やったけど、地元の人が尻の付く地名はいややと懇願して昭和13年に「市岡浜通」に変わりました。時代とともに感覚が変わっていくんです」。
確かにそうかも。最近では「沢尻エリカさま」なる超美人タレントの活躍で、とくに若い人たちの間では、そのイメージがすっかり払拭されているみたい。言葉は生きものなんだと実感。
 
 
●リタイアした「心斎橋」が架っていた境川、その橋はいま・・・
再びUターンして九条新道から、みなと通りを通って境川の交差点へと向かう。
九条南からバス通りをはさんで東西に細長く伸びるこの一角は「境川」の地名が付いている。
「境川はもともと細い川やったんです。九条村と川南村の境目に流れていたので、この名があります。明治の末期にこの辺りが急激に工業化されたのに伴って工場地帯に資材を運ぶために川幅を広げて運河になったんですわ。しかし、この境川運河も昭和40年代になると埋め立てられました」。
境川で師匠が注目するのは、町の中を東西に横断する道が極端に少ないこと。
「もともと川なんで、橋のあったところにしか道が付いていないんです」。
それからもう一つ、大切な話が・・・。
「かつての境川運河の一番北側に架っていた鉄橋は、なんと明治6年に長堀川に架けられた心斎橋を再利用したものです。橋脚のないアーチ型のその橋はドイツ製で、明治42年に現在の石造りの橋が架橋されるまで心斎橋として使われた後、境川に架けられ、その後もさらに新千歳川などで使われて、今も鶴見緑地で使われているんです」。
外されては使われ、また外されては使われ・・・。大阪人が誇る「もったいない精神」が脈々と受け継がれているのだ。
そんな健気な橋をひとめ拝んでみたいと、後日に鶴見緑地を訪れると・・・ありました!  「鶴見西橋」と名を変えたその橋は、いまも立派に現役でがんばっている。
「鶴見西橋」(鶴見区)
●アート・スミスのアクロバット飛行と林歌子
境川1丁目を縦断する数少ない道を通って市岡高校へと向かう。途中、何の変哲もない住宅地で足を止めた師匠。
「さあ、今回の街歩きで一番の見どころはここです」。
といっても、辺りには特に何も・・・。
「大正5年、まだ日米が平和で仲のよかった戦前の出来事です。アート・スミスというアクロバット飛行士が日本を訪れました。日本全国で19回デモンストレーション飛行を行ったんですけど、この場所も会場の一つでした。飛行ショーは15万人以上の観客を集めました。ところが朝10時に開演しますが、なかなか飛行機が飛ばす、人力車競争とか子ども騙しで時間を潰すんです。昼になっても飛ばず、怒った観客はフェンスを壊し、投石を始める騒ぎに発展しました。その石がプロペラに当たってスミスは飛べんようになってしまうんです。スミスは怒って帰ってしまいました。スミスの言い分は1時半からの飛行やった、とのことです」。
へ〜、そんな事実が・・・と驚くのはまだ早い。
「ところで十三の北側に博愛社という児童養護施設があるんです」。師匠の話が続く。
「その創設に関わったのが林歌子、石川県出身の女性解放運動家で貧しい人たちのために力を尽くしたクリスチャンでした。その博愛社に、あるとき松島遊郭で働いていた娼婦たちが、郭を脱走して逃げ込むんです。話を聞いた歌子は憤慨して売春防止法の制定に立ち上がります。 そして、明治45年にはミナミの大火で難波新地の遊郭などが焼失するんですけど、その後も政府公認の遊郭が飛田に出現して売春は一向になくならない。激怒した歌子は、遊郭建設廃止の反対運動を起します」。
「で、再び、スミスの話です。スミスのデモ飛行が中止になった記事を新聞で読んだ歌子は、遊郭建設廃止のビラを撒いてほしいとスミスに頼むんです。その結果、歌子の活動に共感したスミスは、歌子の願い通り大阪の空にビラを撒いたんです。まさに大正デモクラシーの中に芽生えた日米の友情物語。この場所は、そんな舞台になったところです」。
まだ飛行機など珍しかった時代。空から舞い落ちてきたビラを手にした人たちは、どんなに驚いたことだろう。
当時も天上には、いまと変わらない夕焼け空が広がっていたのだろうか・・・。貧困や差別のない平和な世の中になることを願って闘った林歌子とスミス。初めて耳にする、心優しくも果敢な二人に思いを馳せて空を見上げると、胸が熱くなった。
 
「世界大飛行家アートスミス日本来遊記念」の絵葉書
(雀神社資料、写真提供=古河歴史博物館)
「知るほどに愛せる大阪」という師匠。そんな師匠の口癖にならって、私もこっそりキャッチフレーズをつけてみる。
「歩くほどに恋する西区」。
西区周辺を歩くと、今まで知らなかった先人たちのご苦労や人間ドラマが見えてきて、ますますこのまちの虜になる。
 
*次回は、特別編として、桜の隠れ名所、伊丹のまちを歩きます。
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
 
サソ