FUJITSU ファミリ会 関西支部FUJITSUファミリ会関西支部

第三話
「お初と徳兵衛」も渡った恋の川
今はなき蜆(しじみ)川にかかる橋跡をたどる
 
 
文/写真:池永美佐子
「この間、弁天町を歩いていたらORC(オーク)という複合施設がありましてん。けど、何やねんコレ。ここだけやない、OBP、USJ 、OMM、ATC、WTC・・・。昨今の大阪は、先人がつけた地名が忘れ去られて無味乾燥なアルファベットを並べた横文字ばっかり。ああ、嘆かわし」。
大阪案内人の西俣稔さんが、ぼやくのも無理はない。
確かに大阪市内では、戦後の町名改正でかつて由緒ある町が次々と姿を消している。たとえば「老松町」「若松町」「空心町」などは「西天満」「東天満」などになってしまった。
今回、西俣師匠と一緒にご案内する「蜆(しじみ)川」も、忘れ去られた地名の一つかもしれない。しかし、美しい名前をもつこの川は、かつて北新地のど真ん中を流れ、近松文学の「曽根崎心中」や「心中天網島」の舞台にもなった由緒ある川だ。
 
●かつては島だった「堂島」
蜆川は淀川の支流で曽根崎川ともいう。江戸時代の古地図によれば、大江橋の東あたりから分岐して堂島川の北にカーブを描きながら平行して流れ、なにわ筋をまたいで堂島川に合流している。
梅田新道の東側にある交通局電気施設の弓なりの道は、まさしくその川跡だ。師匠によると、蜆川は元禄三年(1698年)、治水の専門家の河村瑞賢が、干上がって水が滞っていた川を工事して流れるようにしたという。
「その両岸に新地ができてずらりとお茶屋が並んだそうや。それが曽根崎新地と堂島新地。なぜお茶屋かといえば当時、中之島には蔵屋敷が並んでいたから。接待場が必要やったんやね。これが北新地のルーツなんや」。
へぇ〜、新地のママでも知っている人は少ないかもしれない。
いま堂島は陸続きだが、古地図ではこの蜆川と堂島川に挟まれ、文字通り島になっている。蜆川という、美しい名前は、治水によりきれいになった川にシジミが取れるようになったことに由来するという。「治水工事の後も土砂がたまり、川幅がチヂんだ、それがなまってシジミになったという説もあるけど(笑)」と師匠。
「難波小橋」の架かっていた西天満の「うおまん」前
 
●「心中天網島」の小春・治兵衛が手に手を取って渡った難波小橋
古地図をもとに今はなき蜆川と、その川にかかっていた橋跡をたどってみた。
まず、大川から分岐した河口近く、現在ある料亭「うおまん」の前に架かっていたのが「難波(なにわ)小橋」だ。小橋というのは手前の淀川にかかる「難波橋」に相対しての名前。
でも、この難波小橋を一躍有名にしたのは、近松門左衛門の「心中天網島」だろう。 「小春さんと治兵衛さんが、心中の場所、網島の大長寺にいく道中に渡った橋なんやね。当時は不倫というのは絶対に許されず、恋を成就させるには死の道を選ぶしかなかったんや」。
師匠から、そんなロマンを聞くと、何の変哲もない道が、いきなり重みを増してくる。
蜆川が確かに存在していたという証しが、梅田新道の東側、曽根崎新地の入口にある。滋賀銀行の横の壁面に目を凝らすと、確かに「蜆川跡」と「しじみがわ」の碑が・・・。
しかも、幕末にここで新撰組が血なまぐさい事件を起こしたという。師匠の解説が続く。
「橋を渡ろうとした沖田総司や芹沢鴨たちと相撲力士が、ささいなことで喧嘩になったんやね。それが発端で新撰組の侍が力士数人を刺殺してしまった。その上に、沖田総司らは、この騒ぎで取調べにあった西町奉行所の与力、内山彦次郎に対しても恨みを抱き、天満橋で彼を打ち首にしてしまったんや」。NHK大河ドラマには出てこないエピソード。殺伐とした幕末の光景だ。
 
ビル街に佇む「しじみがわ」の碑。すぐ横に「史跡・蜆川跡」の碑も
 
 
 
●「桜橋」「緑橋」「梅田橋」・・・美しい名前の橋が連なる蜆川
別名、曽根崎川とも呼ばれた蜆川。当時から蜆川の北岸は曽根崎新地と呼ばれたが、「曽根」という地名はもともと「先の尖った」という意味とか。奈良県の曽爾(そに)高原も同じ意味で、先の尖った海岸線だったことを表わす。「この辺りが海の中だったことは、地名に海に関係する地名がついているのを見てもわかるはず。福島に姫島、歌島。エビが採れるから海老江。サギが飛んでいたから鷺洲」とは、地名研究家でもある師匠のうんちく。
古地図にそって蜆川を西に下ると、四ツ橋筋の東角のカフェ前に「桜橋」の碑がある。現在ある桜橋という地名は、もともとここに架かっていた橋がルーツというわけだ。
「桜橋の名前の由来についてはまた後で・・・」と、意味深な師匠の後について、さらに西に進むと、なにわ筋に出る手前のNTT堂島ビルの前で、師匠が立ち止まった。
「ここが、蜆川の中心的な橋、梅田橋があった場所ですわ」。
「ここを縦断する梅田道は、明治36年(1903年)に天王寺で開催された内国博覧会の関連工事で梅田新道ができる前は、メイン道路やったんやね。その道筋にあって蜆川に架かる梅田橋は大変なにぎわいやったらしい。当時の梅田橋を描いた美しい屏風絵も残っています。近松作品では、曾根崎心中のお初さんと徳兵衛さんも、心中天網島の小春さんと治兵衛さんも、ここを渡り人目につかないよう蜆川の北岸を通って心中場所に向ったんやね・・・」。
それにしても、恋にまつわる川が、ハマグリでもアワビでもなくシジミとは! なんとも可憐で奥ゆかしい。
ところで梅田といえば、今は大阪一の繁華街。しかし、江戸初期までは街外れの湿地帯で、泥地を埋め立てて田にしていたという。
「埋めた田んぼやから埋田(うめだ)。後には墓地になったんやけど、墓に埋田では縁起が悪いから、逆にきれいな『梅』の字を当てはめたんやね。さっきの桜橋は、美しい梅に続く橋として付けられた名前というわけや」。
おぉ〜、と感激するのは早い。桜と梅を引き立てるように、その間には「緑橋」があったというから、まったく先人のセンスのよさには脱帽する。
「梅田橋」の地名は現在残されていないが、かろうじて、川跡に「梅田橋ビル」なる建物を見つけることかできる。
「桜橋」の碑。桜橋交差点より2筋南の四ツ橋筋東角に
 
新地につながる道としてにぎわった梅田道。
梅田橋のあった辺り
 
 
 

●蜆川がなくなったワケは・・・
ここから蜆川は大きな弓を描いて福島区に注ぎ、再び堂島川と合流していく。「浄正(じょうしょう)橋」は、上福島天神の参道に架かる橋だ。
元禄時代に架けられたこの橋は、川や橋なき今も地名として残り、碑が建てられている。
なにわ筋にある浄正橋交差点より一筋南の筋の交差点から少し西にある碑は、大正15年の建国祭で地域の人たちによって建てられたが、戦後歩道を工事した際に碑に刻まれた「浄正橋」の「橋」の部分がコンクリートに埋もれてしまい長年そのままになっていた。
ところが、毎日新聞のコラム「わが町にも歴史あり」に取り上げられたことをきっかけに、つい最近地面から掘り出されたそうだ。
ちなみにこのコラムは、西俣師匠の案内で松井宏員記者が綴る同紙の名物記事。まちの歴史遺産は、みんなで守っていかないと風化してしまう。
 
「浄正橋」の碑。最近、掘り出されて「橋」の字が地表に!
 
さて、ここまで読んでいただいて、だれもが一つの疑問を抱かれるのではないだろうか。
「こんな存在感のある川が、今はどうしてないのか」と。
師匠が解説する。
「明治42年(1909年)7月31日に大きな火事があったんやね。早朝、空心町(現在、東天満)のメリヤス商でランプが倒れたのがもとで火が広がり、東からの強風にあおられて、あみだ池付近まで一面焼け野原となったそうや。 その規模はなんと甲子園球場10面分! それで蜆川は瓦礫に埋まって堂島は陸続きになり、出入橋東側は明治45年に、西側は大正13年に埋め立てられたんや。ぼくがガイドをしているのも、そんなことを伝えたいから。こうした先人の犠牲の上に今があることを、絶対に知ってもらいたいねぇ」。

 
[次回は、京都へ足を伸ばし、祇園祭のルーツをたどります。]
 
 
 
プロフィール
●文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
●案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
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