FUJITSU ファミリ会 関西支部FUJITSUファミリ会関西支部

第五話
■寺と坂のまち「谷町かいわい」を歩く[1]
  緑豊かな上町台地に色濃く残るナニワ文化と戦争遺跡を訪ねて
 
 
文/写真:池永美佐子
「大阪市営地下鉄の谷町線が紫色をしているのは、なんでか知ってる?」
大阪案内人の西俣稔さんが、またまたこんな質問で歴史への興味を掻き立ててくれる。
「さぁ? 紫といえば艶やかな色やから水商売のお店が多いからとか・・・」。
「ちゃいまんがな」。
「紫は坊さんの法衣の色なんやね。つまり谷町筋にはそれだけ寺が多いということや。実は大阪は京都よりも寺が多く、その数約3300。これは愛知県に次いで全国第二位」。
へぇ〜、そうなんや。というわけで今回は西俣師匠と一緒に、谷町から天王寺にかけての谷町筋かいわいへ。スタート地点である地下鉄谷町線「谷町9丁目」駅の地上に出た。
●道を隔てて古い寺町と新しい寺町が対比的に並ぶ谷町筋のナゾ
今回、谷町筋を南下する師匠が手にするのは、天保時代の古地図。
「たとえばここ、妙法寺は古地図にもあるね。天保時代から連綿と続いている寺がいっぱいあることに注目して」と師匠。
もう一つは、寺の建物。「谷町筋に面してこちらの東側の寺は土塀で古い建物なのに、道路を隔てた西側の寺は近代的なコンクリートやね。なぜか。江戸時代の谷町筋の道幅は6メートルやったけど、万博のあった昭和45年に拡幅したんや。その際に西側の寺は立退いて新築移転したんやね」。
こんなところにも谷町筋の歴史が読み取れる。
谷町7丁目の交差点を東に曲がると、突然道のど真ん中に立派なクスノキが立っている。この場所にあった本照寺が通りの拡幅で立ち退いた際に、御神木を切ると縁起が悪いというのでクスノキだけが残ったという。ちなみに東西に伸びるこの「楠通り」は、昭和初期に軍用道路として計画されたもの。「大阪城公園にあった砲兵工場から、今ミナミにあるアメリカ村や、九条商店街、今も残る安治川川底トンネルを通って、桜島まで一本でつながる予定やったんです。アジアの戦地へ兵器を運ぶためにね」。
しかし、完成を間近にして終戦。幸いなことに、この道は一度も軍用トラックが走ることなかったという。一本の道が、あらためて平和というものについて考えさせてくれる。
谷町筋を南に進むと「曾根崎心中」や「心中天網島」で知られる近松門左衛門の墓がある。ただし、墓はガソリンスタンドとマンションの間の路地ともいえないような隙間の奥に。よほど注意しないと見落としてしまう。路地の入口に手書きの案内札が貼られているが、本当にお粗末。「何やねん。日本のシェークスピアともいえる大作家をこんな狭いところに閉じ込めて。尼崎市には近松の功績をたたえる記念館があるというのに。大阪の文化行政の貧しさを感じる」と憤慨する師匠。確かにこれでは同じ大阪人として恥ずかしい気がする。なんとかならないものだろうか。

●谷町界隈寺と坂が多いわけは
谷町筋の西側を渡り「地蔵坂」と呼ばれる急な坂を下ると、その名も「中寺」という寺町が広がる。ところで、谷町界隈には寺が多いのはどうして?
「豊臣秀吉の防衛戦略やったんやね。大坂城を取り囲んで北は大川、西は東横堀川、東は猫間川や大和川があるけど、南は防衛が弱い。それで上町台地の岩盤地形を利用しつつ寺を固めて防衛柵にしようと。とくに南にある下寺町には、26もの寺がぎっしり並んでいてネズミも通れないほど。これぞ秀吉の時代から踏襲された寺町の姿なんや」。
また、この辺りは寺と同時に坂が多い。これについて師匠は、次のように説明する。
「古代の地形そのままやねん。大昔は大阪湾が今の御堂筋あたりまで繰り出し、岩盤だった上町台地から海岸線に下る地形が坂になったというわけや」。
この後に巡る「天王寺七坂」は、そんな坂の中でもとりわけ風情ある坂が人知れず伝えられ、隠れた名所にもなっている。
●「縁切坂」も「相合坂」もある高津宮。恋の道は昔も今も・・・
中寺の南方、一段高い丘の上にある高津宮は、仁徳天皇ゆかりの神社だ。境内には絵馬堂という舞台があり市内が一望できる。かつてここからナニワのまちを眺め、かまどに煙が上がらないことに気付いた仁徳天皇は、貧しい民の暮らしを案じ、税金免除したという話が伝えられている。仁徳天皇については、昨今実在するか否かが議論されるが、 「それは学者にお任せするとして」。
師匠が注目するのは、参道にある小さな石の反り橋だ。この橋は「梅乃橋」と言い、かつてはその下を「梅川」が流れていたという。師匠によれば「上町台地は、昔から水が湧くところとして知られているけど、この川の水源もその湧き水やったんやね。梅川は上町台地を西に流れ、なんと道頓堀の源流とも言われている」というから驚き!  
いっぽう、高津宮には境内に通じる四ヵ所の階段があるが、西の階段は、明治時代中期まで三下りと半分の坂だったため、離縁状を意味する「三行半(みくだりはん)」にからめて「縁切坂」と呼ばれていたとか。そこで、明治中期、神社では一策を講じ、新たに左右、2つの石畳の階段を設け、上で落ち合うようにしたという。こちらは「相合坂(あいあいざか)」と呼ばれている。いかにもダジャレ好きの大阪人のセンスがしのばれる粋なネーミングだ。
 
古い寺町が並ぶ谷町筋東側
 
道の真ん中に残る御神木のクスノキ
 
封印された近松門左衛門の墓
 
 
「梅乃橋」。川跡をたどると道頓堀に
 
 
●元禄文化や維新の舞台となった生国魂神社かいわい
高津宮から千日前通りをまたいでさらに進むと生国魂(いくたま)神社に到着する
「真言坂」はその参道で天王寺七坂めぐりの第一番目の坂だ。七坂のうち、この坂のみが南北。後は東西に伸びている。真言坂の名は、付近に真言宗の寺が多くあったことに由来する。
生国魂神社を取り囲む緑地帯には、さまざまな歴史遺跡がある。井原西鶴の銅像もその一つ。西鶴は江戸時代に「好色一代男」で一世を風靡したが、俳人としても有名。「その西鶴が、1680年に当時流行った矢数俳句という俳句の早詠みライブをここでやったんやね。つまり作品の宣伝活動をしたわけや。しかも、そのスピードたるや一晩で4500の句を詠んだとか。一句を7〜8秒で読んだ計算やね。まさに上沼恵美子状態(笑)」。
神社前にひっそりと佇む「水戸藩士・川崎孫次郎の自刃の所」の石碑にも足を止めたい。 「明治維新で反政府側についた川崎孫次郎は、ここで追い込まれて自害したんや。ちなみに全国47都道府県のうち、香川県高松市や愛知県名古屋市のように県庁所在地名が県名と違う県が19あるけど、これは廃藩置県の際に幕府側についた藩は、藩名が採用されず、郡名が付けられたんや。差別やね。ひどい話」と憤る師匠。
この場所には、かつて笠間藩士・島男也の邸があり、川崎孫次郎など水戸勢をかくまった島男也の碑が横に並んでいる。

●街中にひっそり残る防空壕に、世界平和への祈りをこめて・・
生国魂神社周辺には、もう一つ見ておきたい歴史遺跡がある。南側の小高い丘の中腹に草生してひっそりと残る防空壕だ。入口は塞がれているが、その上にはホームレスのブルーテントが張られている。建設経緯や使用状況の詳細は明らかにはなっていないが、第二次大戦中に大阪市が作り、特別な資材を使った特別防空壕で戦争末期には陸軍が使用していたことが報告されている。横には平成8年(1996年)に遅まきながら、この戦争遺跡を説明する案内板が大阪府と大阪市によって設置された。その文言では、建設に当たって当時植民地支配下にあった朝鮮人を強制労働につかせた旨の証言などにも言及、次のように結んでいる。
「戦後50周年に当たり、国籍、民族、文化の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちをこめてここに銘板を設置します」。
8月15日は終戦記念日。平和というものを考えるきっかけに一度訪れてはどうだろう。
さて、ここからいよいよ七坂めぐりも佳境に・・・と思いきや、余白も残り少なく・・・。七坂の話は次回に続くということでお許しあれ。
[※次回、寺と坂のまち「谷町かいわい」を歩く[2]をお楽しみに!!
「真言坂」。七坂では唯一、南北に伸びる
井原西鶴の銅像。ここで矢数俳句を詠んだといわれる
 
 
生玉公園に残る防空壕。
[幅9m、長さ24m、高さ6.5m]
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
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