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第十四話
京都ゆかりの元祖・起業家
角倉了以が開いた高瀬川と木屋町を歩く
 
 
文/写真:池永美佐子
桜の季節が終わるやいなや、京都の街路はみずみずしい柳の新緑に覆われる。柳腰という言葉もあるように、フサフサと若葉をつけた枝がしなやかに風に揺れるさまは、なんとも風流で色っぽい。
そんな京都のメインストリートといえば、昭和の初めまでは河原町通りではなく*一筋東にある木屋町通り、それも中心地は四条ではなく三条だった。
*[木屋町通りの場所について掲載当初「一筋西にある木屋町通り」と誤って記載していましたが、正しくは、
「一筋東にある木屋町通り」でした。お詫びして訂正いたします。]
「三条はかつて粟田口と称され、大津、山科へと通じて東海道と中山道、東山道、北陸道の4道に通じる京都きっての出入口だったんです。そして江戸の初め、鴨川の西側に高瀬川が開削されると、この川が水運の要となり川沿いの木屋町通りがメインストリートになりました。明治28年に日本初の市電が走ったのも木屋町です。中心が河原町通りに移ったのは昭和2年。河原町通りが拡幅されたのに伴って市電のルートがそっちに移ったためです」。
京の町に詳しい写真家、田辺聖浩さんが話す。
今月は田辺さんの案内で、かつての京都の中心地である木屋町通三条、柳の新緑が美しい高瀬川の川べりを歩いた。
●三条大橋東詰に平伏す巨大サムライの正体は・・・
待ち合わせは京阪三条。現在は地下駅になっているが、20年ほど前までは地上駅だった。「あの人、誰か知っていますか」と、いきなり田辺先生の歴史入門テスト。
先生が指差す先を見れば、三条大橋の東詰に平伏す巨大なお侍さんが・・・。通称「土下座像」。街のシンボル兼待ち合わせ場所として、京都っ子に親しまれてきた銅像だ。
「も、もちろん。高山彦九郎でしょ」。ラッキーなことに銅像の台座に名前がデカデカと刻印されている。
「そう、勤皇の志を持つ幕末の武士です。群馬県に生まれ、各地を遊歴して勤皇論を説いていたんです。じゃあ、彦九郎は何であんな格好をしていると思いますか」
「・・・」。せっかくクリアした第一問もこの質問であえなくドボン。
「実は土下座ではないんです。当時は荒れていた内裏(御所)に向って拝んでいるんです。彦九郎は武士として京都に出入りするたびにここで遥拝していたんですね。身なりも正式な旅装束で、刀を外して右下に置き、正しい拝礼をしています。台座の文字は、東郷平八郎の手になるものです」。
この銅像、実は2代目。現在の銅像は昭和36年(1961年)に再建されたものだという。初代は昭和3年(1928年)に作られたが、第二次世界大戦下の昭和19年(1944年)、金属類回収令で供出されたとか。無残にも初代彦九郎の像は溶かされて武器になっていたのだ。

三条大橋
(写真提供=田辺聖浩)

 
高山彦九郎像
●安土桃山時代の擬宝珠が今も残る三条大橋
鴨川に架かる三条大橋を渡る。東海道五十三次の終着地点として安藤広重の浮世絵にも描かれている有名な橋だ。
案内板によれば、三条大橋が建設されたのは天正18年(1590年)。室町前期にも簡単な木橋が架かっていたが、豊臣秀吉の命により架け替えられた。現在の橋は昭和25年(1950年)に作られたもの。
「室町以前には、橋らしい橋はなかったようです。内裏の周辺に住まうお公家さんは、牛車で移動したので川に板を敷いて牛を歩かせたのでしょう。もっとも彼らが鴨川から東に出ることはなく、万一出るとすれば都落ちするときでした」。田辺さんの補足解説。
現在の橋は長さ74m、幅15.5m。広重の絵に描かれた橋は長さ約104m、幅約7mというから昔の方が長かった。東側に地下鉄と側道が作られたためだ。
「橋の下の三条河原には血生臭い歴史があります。石川五右衛門が釜ゆでにされたり、豊臣秀次の一族39人が処刑されたり。締(はて)の二十日と言うでしょう、月末にはここで処刑が行われたのです」。
こののどかな河原でそんなに悲惨なことが行われていたとは! にわかには信じられない。
欄干の12本の親柱には、葱坊主のような形の擬宝珠(ぎぼうしゅ)が付いている。
「昭和のものの他に天正年間の擬宝珠が混ざっています」。
「また、この擬宝珠の傷は、新撰組が長州藩の尊皇攘夷派を襲撃した、いわゆる池田屋騒動ですね、その際についたといわれる刀傷です」。西側から向かって右側の2つめの擬宝珠を指しながら、田辺さんが話す。
橋の西詰には弥次、喜多像が立っている。
天正年間の擬宝珠
(写真提供=田辺聖浩)

 

●江戸時代につくられた人工運河、高瀬川と木屋町
三条大橋を越え、南北に伸びる一筋目の道が「木屋町(きやまち)通り」。東隣に花街として名高い先斗町(ぽんとちょう)が控え、洒落たバーや飲食店が並ぶ夜の町として知られるが、昼間は一転して明るい。道沿いに流れる高瀬川の川べりには桜や柳が植えられ、しっとりとした独特の風情が漂う。
「木屋町はその名のとおり高瀬川の水運がもたらした材木屋の町がルーツです。ところで高瀬川ってどんな川か知っていますか」。またまた田辺先生の歴史テスト。
「森鴎外の小説・高瀬舟に出てくる川でしょ。島流しの罪人を乗せて運んだという・・・」
「もちろんそれも有名だけど、もともとは物資を運搬するために作られた人工運河です。材木のほか酒や炭、醤油や海産物なんかを運んでいました。運河を作ったのは角倉了以(すみのくらりょうい)。完成は江戸初期の慶長19年(1614年)です。江戸の中期には、通りを行き来する商人を当て込んで料理屋や酒屋ができ、それが今の木屋町の原型になりました。紙屋町、鍋屋町、米屋町などが今も町名に残っています」。
了以は二条大橋西畔から鴨川の水を引き、伏見までなだらかな傾斜をもった浅い水路を作り、さらに淀川に流し込んだ。以降、高瀬川は3世紀に渡って物資輸送に利用されたが、鉄道の開通などによってその機能を失い大正9年に廃止された。いま目の前を流れている高瀬川は、運河としての機能はないが、昭和7年(1932年)に改修され、鴨川からの取り入れ口が暗渠になっている。
「高瀬舟は平底の小型船で、浅瀬を乗り切って重い荷物を運ぶことのできる舟です。高瀬川の水位は50cmほどで浅く、舟を水流に乗せるのではなくて川面に浮かせ、川の縁につくった土手から人が紐で引っぱって進みました。重い荷物を載せると沈むため両岸の間に木の板をはめ込んで水位を調整しました」
二条大橋の南西に、荷揚げの浜地である「一之舟入(いちのふないり)」が残されていて高瀬舟が浮かんでいる。舟入はかつて7カ所あったというが、唯一の名残だ。
一之舟入のすぐ横に、かつて角倉家の屋敷があったという。今は日銀京都支店になっていて入口に「角倉氏邸址」の碑が立っている。
一之舟入
(写真提供=田辺聖浩)
 
角倉氏邸址
●角倉了以のベンチャー精神と地方文化尊重の心意気を受け継ぐ
ところで角倉了以とは、どんな人物だったのだろうか。
「了以は薬師の息子で秀吉から貿易の許可を取り付けると南蛮貿易でその才覚を発揮して成功しました。その後、水運の整備に力を注ぎ、丹波と嵯峨野を結ぶ大堰川の開拓を行ったんです。この手腕が認められ、のちに富士川や天竜川のなどの運河を開きました」。
その風貌を伺い知るレリーフと高瀬舟のモニュメントが、いまは廃校となった川沿いの立誠小学校の校門に作られている。
「高瀬川の開削は了以の最後の仕事でした。秀頼によって方広寺大仏殿の再建が始まったときに資材である巨石や木材を運ぶために着想したんです。この全区域の土地を私費で買い取り、技術も資本もすべて自前で成し遂げました。民間の一商人でしたが、了以の活躍なくしていまの京都の繁栄はありません」。
まさに起業家の鏡ではないか! 角倉了以のベンチャー精神と地方文化尊重の心意気は、やがて明治時代の政財界にも引き継がれることになる。東京遷都で意気消沈する中、京都経済を再び盛り上げようと明治23年(1890年)に疏水とインクラインが完成、明治28年(1895年)には日本初の軌道電車が開通するが、これらも木屋町が舞台になっている。
疎水とインクライン「第八話」
角倉了以のレリーフと高瀬舟のモニュメント
●一族39名が公開処刑された「秀次事件」と瑞泉寺
「もうひとつ、了以にまつわる寺院があるんです」。
田辺さんの案内で向ったのは、三条通り手前、ビルの合間にある「慈舟山瑞泉寺」。慶長16年(1611年)、了以が秀吉によって暗殺された豊臣秀次とその妻子や側室らの菩提を弔うために建立した寺だ。
秀次は秀吉の養子となって関白の位と豊臣家の家督を継ぐが、太閤の愛妾、淀君に世継ぎの秀頼が誕生すると次第に疎んじられ、ついには謀反の疑いをかけられて文禄4年(1595年)、高野山で自害する。さらに翌月、妻子や側室ら一族39人が三条大橋西南の河原で公開処刑された。遺骨は河原に掘られた大きな穴に投げ込まれ、その上に作られた塚に秀次の首の入った石ひつが置かれた。この塚は「秀次悪逆塚」とか「畜生塚」と呼ばれた。
「了以は高瀬川開削の工事を進めるうちに、三条河原からから大量の遺骨や荒廃したこの塚を見つけたのでしょう。塚のあった場所に建てられたのがこの寺です」。
境内には首ひつを収めた秀次の墓や、その後昭和になってから造られた妻子や家臣の墓と伝える石塔が並び、線香の煙が絶えない。
私もそっと合掌した。
この辺りは、維新に起こった歴史的事件の舞台でもある。幕末には長州藩邸があって勤皇志士たちが密会に利用したためだ。長州藩屋敷跡や海援隊屯所跡を始め、新撰組によって倒幕長州藩士たちが襲撃された池田屋跡や四国屋跡、坂本龍馬寓居跡、桂小五郎・幾松寓居跡、佐久間象山や大村益次郎遭難の碑などが点在している。
(これらは多くの観光ガイドブックに紹介されているので、そちらをご参考に)
 
恥ずかしながら高瀬川の歴史や、角倉了以のような実業家がいたことを知らなかった。
でも、知らないのは私だけではなさそうだ。京都人でも了以を知らないという人は多く、その偉業は意外に知られていない。
「どうしてなんですか、田辺さん」
「うん、いい質問ですね、その答えを求めて今度は嵯峨野に行きましょう」 謎解きはまた後日に!
 
瑞泉寺
豊臣秀次の墓。中央に首ひつがある
 
佐久間象山と大村益次郎遭難跡
次回は、十三から梅田まで、中国街道を歩きます。お楽しみに!!
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:田辺聖浩
京都は西陣の生まれ。写真家、入江泰吉氏に師事。
以降商業カメラマンとして活動する傍ら、文化財や仏像の写真撮影に力を入れている。趣味はクルマと星の観察。只今「神様がつくった絵」と題して空や雲を撮っている。
 
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