●茶臼山と河底池に誕生の秘密 |
茶臼山といえば大阪人なら知らない人はいないだろう。高さは10メートルばかり、港区にある天保山と合わせて山とも呼べないようなかわいい丘だ。もともと5世紀前半につくられた古墳であったとも言われている。また、慶長19年(1614年)大坂冬の陣では、一帯が徳川家康の本陣となり、翌年の大坂夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」の舞台となった所としても知られる。
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「河底池(こそこいけ・かわぞこいけ)」は、その茶臼山の南にある池だ。 |
西俣師匠が解説する。
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「この池は788年(延暦7年)、奈良時代の官僚、和気清麻呂(わけのきよまろ)が河内川(今の大和川)の水を大坂湾に引こうとしてつくった堀川の名残りなんやね」。
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なるほど、池に架かる赤い欄干の橋は「和気橋」という名だ。
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太古、上町台地と生駒山麓との間のこのあたりは、海の中だったという。
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「河内湖と言われる入江の湾で、それが長い長い時間をかけて徐々に土砂が堆積して陸地となったんやね。そのために河内平野は、低湿地で川の氾濫が多く、人々は度重なる大洪水に悩まされていたんや。
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江戸時代の大和川の付け替えや安治川の開削、明治末期の新淀川の掘削、大正期の平野川の直線化工事も、みんな洪水対策のために行われたものなんや。大阪の歴史はそのまま水害との戦いやったといってもいい」。
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奈良時代に和気清麻呂が行ったこの治水工事は、わが国における治水工事の草分けだったと推測される。 |
「工事には、延べ23万人もの人手を投入したと言われているんや。奈良時代の日本の人口は450万人。その中の23万人やから規模の大きさも半端やない。にもかかわらず工事は途中で失敗したらしい」と師匠はいう。 |
和気清麻呂は、奈良時代から平安時代の転換期に活躍した官僚。桓武天皇の信任を得て近畿地方の河川改修や開削を行って治水に努めた。平安遷都が彼の立案であったことも有名だ。 |
しかし、仏教政治が台頭する中、女帝、考謙天皇の寵愛を得て次第に権力の座に着こうとした僧・弓削道鏡の策略を阻止したことから、道鏡より手痛い仕返しを食らうことになる。「道鏡は、和気清麻呂の名前をもじって別部穢麻呂(わけのきたなまろ)に変えさせて大隈へ追放させたんやね、えげつない話」。これが後の世に語り継がれる「道鏡事件」だ。 |
一方、師匠はこんな説も披露する。 |
「茶臼山については5世紀後半頃の古墳であるとされる一方、上町台地を掘削した際に出た残土を積み上げた跡であるという学説もあるんや」。 |
もし、掘削工事の残土であるとすれば、茶臼山はもろに人々の汗と涙の結晶ではないか。 |
茶臼山と河底池は、天王寺公園の一角にある慶沢園から行けるが、公園の南側に隣接する「統国寺」の境内に立つと美しい絶景が臨める。統国寺は、第六話で紹介した「ベルリンの壁」のある朝鮮寺だ。<第六話へリンク> |