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第十五話

庶民のまち「十三(じゅうそう)」の地名に見え隠れする歴史を紐解く
 
 
文/写真:池永美佐子
十三と書いて「じゅうそう」。大阪人なら間違っても「じゅうさん」と読んだりはしない。
ご年配の御仁には藤田まことの「・・・十三のねぇちゃん〜♪」の唄でおなじみかもしれない。
阪急電車十三駅界隈は、関西きっての下町の歓楽街として知られるが、大阪案内人の西俣稔さんは「ただ旨うて安いだけの呑み屋街やありません。北野高校のある文教地区でもあるし、何よりもここは大阪の歴史の宝庫」と力説する。ウソかホンマか。グラスならぬ古地図片手に、師匠に連れられて昼の十三の街に繰り出した。
●神津神社に奉られた忠魂碑の秘密
阪急梅田駅から十三駅までは、淀川をまたいで各駅停車で2駅。
「十三を"じゅうそう"と読むのは"じゃうさん"が訛っただけ。松屋町が"まっちゃまち"になったのと同じ。ウソやと思うなら十三を13回言ってみて。じゅうそうになりますわな」。
師匠の薀蓄を聞きながら電車に揺られていたら駅に着いた。駅前には、昼間は普段着にサンダル履きの買い物客が行き交う気取らない商店街が迷路のように連なる。
「昔は田んぼばかり。十三が大阪市内になったのは明治時代からで、それまでは西成郡で村やった。呑み屋が増えたのは戦後。神崎川沿いに工場が作られたのに伴って労働者が増えたから。工場は男性工員が多いからねぇ。太古は海で島が点在していたんやね。この先には柴島(くにじま)、佃島・・・島のつく地名が多いやろ。難波八十八島(やそじま)と呼ばれていたんや。それが低湿地になり淀川の土砂が溜まってだんだん陸地化したんやね」と師匠。
東口を出て商店街を潜り抜け、北へ進むと小さな神社がある。
「神津神社」という厳かな名の神社。
「神津という名の由来は、崎川と中川に挟まれていたから。明治22年、西成郡にあった小島、野中、三津屋、堀、堀上、新在家、木川、今里の八つの村が合併した際に、小島にあった八幡神社に合祀したんやんやけど、いつの時代も市町村合併では、町名で揉めるやん。で、この名に治まったようや。村の名前が神津村になって神社も神津神社になった」。
神津神社は昭和20年の大空襲でほんど消失したが、戦後復活した。神社には十三戎も合祀され、十三は「とみ=富」に通じるからと、賑わいをみせている。
境内で「はい、こっち!」と師匠が指差したのは、高さ2mほどの石の忠魂碑。日清、日露戦争で亡くなった人たちの魂を鎮めるためにつくられたものだ。
「忠魂碑はめずらしいものではないけど、語り継ぎたいのはその逸話。忠魂碑は軍国主義のシンボルということで戦後、進駐軍によって軒並み撤去されていったんやけど、北浦純一という地元の市会議員がこの碑に思い入れがあって石をなんと自宅の庭を掘って隠していたんやね。こんなに大きなものを!」。
碑は元々旧神津村役場にあったが、昭和49年(1974年)ここに移設された。
当時の人々の心情や世相を伝える貴重な戦跡だ。

十三大橋

 
神津神社にある忠魂碑。
右は西俣氏
●踏切に残る高槻街道と、終戦直後の活力をいまに伝えるトミー君
駅前は昭和20年の大空襲で一面焼け野原となったが、このあたりには、戦火を免れた戦前の木造家屋がまだぽつりぽつりと残っている。神社を北に進むと「十三東通り商店街」に出る。
「この通りは高槻街道やったんや。昔の商店街はほとんど街道筋にできたんやね。日本一長い天神橋筋商店街は亀岡街道に、京橋商店街は京街道にある。ただ、残念なことにここが高槻街道やったことを物語るのは唯一この踏切だけ」と。商店街が阪急電車の線路と交わる踏切には確かに「高槻街道第二踏切」と書かれている。
「ちなみに明治の初めに通した管営鉄道(現JR)の敷石は、かつてあった高槻城の石垣。明治政府が廃藩置県の際に城を壊して石を再利用したんやね。えげつない話」
「高槻という地名は、高い月。北摂の山々に高い月が見えたから。槻のほうが逞しいということでこの字を当てたんやね。ついでに明るいという字の意味わかる? 太陽と月一緒に出たら明るいから・・・ではなくて日は窓の意味。窓から月の光が入ると明るいから。昔の人にとって月の光はほんまに大切やったんです」と、解説まで、おまけ付き
踏切を渡って十三駅の西口へ出る。線路伝いのその小路は、通称「ションベン横丁」と呼ばれ、終戦直後の闇市を思わせるような呑み屋が軒を連ねている。後にできた道のため、やむなく店の一部を軒切りされても店をたたまない、そんな戦後のパワーが今も息づいている。また、ここには、かつて、みやこ蝶々と沢田研二が共演した「大阪物語」のロケ地となった老舗バーがある。
それにしても梅田という大都会のすぐ近くで、なぜ再開発が進まないのだろうか?
「土地を買収するにも借地や借家の利権がからんで手がつけられないんやね。けど、そのおかげやね、戦後直後の情景がこうして残っている」。
不名誉な愛称は、商店街ができた当時、西口付近にトイレがなかったことに由来するが、今年2月14日、横丁を含む「十三本一商店会」では、メインストリートの一角にこの愛称を逆手にとって小便小僧「見返りトミー君」を誕生させた。「十三やからトミー君。十三戎と同じく富にもつながる」。底力あふれる土地だ。
高槻街道第二踏切
 
見返りトミー君。お尻に触ると幸運が訪れる?!

 

●埋め立てられた中津川と、城跡につくられた十三公園
西口駅前の飲食店やら風俗店が点在する商店街を抜けて西に進むと、幹の太い高木が涼しい木陰をつくる緑地がある。「十三公園」は、昭和12年に開園したモクレンの美しい公園として知られるが、「樹木を見たらわかるように昔の自然林が残っている。ここはかつて堀村と呼ばれ、埋め立てられた中津川のほとりにあって城があったそうや」。
古地図を見ると「堀村」とある。
「城は堀城と呼ばれ、室町時代の最後の将軍、足利義昭と織田信長が会ったといわれている。周囲に堀上村や堀村があったのも、堀城の名残」。 新淀川ができる前は、平均川幅70mの中津川がくねくねと蛇行し、大雨の度に氾濫していたという。
「1300年間に250回もの大洪水があったそうや。とくに明治18年には北、中河内全域、大阪市内東部が浸水して2万数千戸が流出し数百人が溺死した。それでも降り続く大雨に濁水が引かず、淀川堤防を切り流すほどの大洪水やったらしい」。
古地図には、そんな過去の足跡を残す中津川がくっきりと描かれている。
十三公園。昔は城があった
●町名まで変えた名門・北野高校の威力
十三公園から淀川通を渡ると府立北野高校がある。卒業生には佐伯祐三、手塚治虫、森繁久弥、有働由美子ほか、最近では橋下徹大阪府知事など多くの著名人がいる。
「まず注目してもらいたいのが、北野という名前やね」。
創立135年を迎える北野高校は、昭和23年に6・3・3制の導入で北野中学から男女共学の高校になった。創立は明治6年(1873年)、現中央区の南御堂で設立し、その後、校舎を中之島や堂島などへ移転後、明治35年(1902年)に現北区の北野芝田町に移り、北野中学になった。
「ここに移転したのは昭和6年。普通なら学校名は所在地の町名がついて十三中学になるところやけどOBらの強い要望で北野の名が残ったんやね。それだけやあらへん、同じ年に、高校の横に新設された中学校が、北野高校にあやかって新北野中学としたことから、町名までもが「十三南之町」から「新北野」に変わったんや。北野という地名は、もともと大融寺の北の野というところからついたんやけど、北区の町名変更で消えてしもて、ここにしか残ってへんねん」。
地名そのものが学校と一緒に引越ししたとは、やっぱり名門校の威力か!
許可をもらって校内に足を踏み入れると、これが府立高校かとわが目を疑いたくなるようなモダンな建物が並んでいる。5年前に立て替えられた校舎は、OBの建築家、竹山聖氏の設計によるもの。そんな中で師匠が「これだけは見逃さずに」と強調するのは校舎の西端の壁だ。ここにだけ昭和6年築の旧校舎の壁が保存されている。
「壁の上のほうを見て。ボコボコ穴が空いている。昭和20年、米軍機の機銃掃射による弾痕跡や。28個ある。当時、学校警備に当たっていた生徒さん2人が焼夷弾を受けて亡くなったんや」。
壁は校舎建て替えの際に教職員やOBらの強い要望で残されたという。壁の前には「受難乃碑」が建っている。
また、校庭のサッカーゴールの近くには1本のクスノキがグラウンドで部活に励む生徒を見守るかのように佇んでいる。
「この樹は、2001年の米国の9・11テロの時に留学の下見で米国を訪れたために、その犠牲となった元サッカー部員の男子生徒を偲んで同級生たちが植えたんや。彼の死を無駄にしない、絶対に戦争やテロは許さない、そんな願いをこめて。樹は、生きていれば25歳になる彼と同じ樹齢や。戦争体験が風化する中で、こんな話も伝えていかんと」と師匠。
校舎とクスノキに向かってそっと黙とうを捧げた。
モダンな北野高校
弾痕跡が残る旧校舎の壁
サッカーゴールの横に植えられた祈念樹
●十三と、阪急電鉄創始者、小林一三さんの関係
街を歩いていてずっと気になっていたことがある。それは「読み方はともかく、なぜ十三という地名なのか」ということ。そんな心を見透かすかのように、師匠が向ったのは淀川河川敷公園の堤にある「十三渡し跡」。
「十三は、旧成小路(なるしょうじ)村の字名で成小路村字十三やったんやね。十三の由来については諸説あるけど、淀から数えて13番目の渡しというのが有力やった。その根拠は、現守口市に7番と8番の渡しがあったから。けど、これは正しくないと思う」。
師匠が、13番目の渡し舟説をくつがえす理由はこうだ。
江戸時代に守口市(当時の大庭荘)の11の村に付けられた村名であること。また古文書で「十三渡し」の記録があるのは大谷本願寺通記だが、これが書かれた天正3年(1575年)は大坂城起工の前で淀川に13もの渡しがあったとは考えにくい。
そこで師匠は次のような「古代西成郡の条里制説」を唱える。
「鍵は十三が昔、西成郡やったこと。ところで、ぼくは前々から十三の北にある三国に”十八条”の地名があることに注目していたんや。また条里制というのは、ご存知の通り大化の改新で租税のため1区画を654mと決めて条里を敷いたもの。そこで西成郡の起点、飛田から十三までの直線距離を調べてみると8.5kmで1区画の654mで割るとなんと12.996。限りなく十三に近い。同じく十八条までは11.8kmで計算すると18.04でやっぱり十八になる。これ、以前毎日新聞でも掲載したけどどこからも異論がなかった」。
一方、師匠は、成小路村の字名にすぎなかった十三という地名が有名になった理由についても独自の説を打ち出している。
「明治43年に阪急電鉄、当時は箕面有馬電気軌道が、ここに作った駅名を十三にしたから。では、なんで成小路駅にしなかったか。それは、阪急の創始者が小林一三(いちぞう)さんやから。一三さん、縦読みにしたら十三。コレ、阪急さんの広報に聞いてみたけど、真相は分りませんて。けど、彼は箕有山(注・箕面有馬電気軌道の略)というペンネームを持つ作家で自ら創設した宝塚歌劇団の脚本を書くほど。文才があってしかも、新設阪神間電鉄に"綺麗で早くてガラスキ"のコピーをつけるほどのいちびり。絶対、間違いない」。
ちなみになんで一三さんという名前が付いたか知っている? 1月3日生まれやから。いや、ほんま」。
ふと目をやれば、渡し跡の碑の後ろにはホテル「103」という看板が。これも十三と読める。もしも小林一三さんが1月4日に生まれていたら・・・やっぱり歴史っておもしろい。
 
さて、淀川を前に、十三の知られざる歴史の核心に迫るべく「十三大橋」へ・・・と思いきや紙面も残り少なく・・・。次回をお楽しみに。
 
十三渡し跡。
後ろにホテル「103」がある
次回は、十三大橋を渡って中津から中国街道を通り梅田界隈を散策します。お楽しみに!!
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
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