●白壁や「うだつ」のある家並みが続く文禄堤 |
「後半は、文禄堤(ぶんろくつつみ)を歩いてみようか」。 |
師匠の案内で、旧淀川の川筋だった細い道を通って京阪守口市駅の方へ向う。 |
駅の北側、京阪京都線や国道1号線と並行して東西に伸びる文禄堤は、太閤秀吉が伏見城と大坂城を最短で結ぶ陸路として1596(文禄5年)に毛利輝元らの諸大名に命じて旧淀川左岸を改修した堤防道。もっとも、堤といっても旧淀川が付け替えられた今、川はない。 |
「かつては約27kmにも及んだといわれる文禄堤も、いまはたったの600m。度重なる淀川改修工事で削られて、現在残っているのは、ここだけなんや。世界遺産にしてもいいぐらい、貴重な遺構なのに」。師匠が惜しむ。 |
一方、この堤は「京街道」として栄えた東海道でもある。江戸時代の最盛期、守口宿には26軒の旅籠屋が並んでいたという記録が残っているそうだ。 |
「ところで、この街道。京都に向かえば京街道で、大坂に向かえば大坂街道。京街道と大坂街道は同じ道なんやね」。「安藤広重の版画で有名な東海道五十三次は、江戸から京都までの宿場町の数。本当は伏見、淀、枚方、守口を加えて、東海道は五十七次あったんやね。守口は大坂に一番近い宿場町やったんで、こんなにも旅籠があったんや」。 |
思わず「へ〜」を連発してしまう歴史の「常識」。まだまだ知らないことが多すぎる。
|
文禄堤はもともと土手であったため、旧淀川を埋め立てた平地よりも高くなっている。途中、2カ所で一般の道路と立体交差しており、堤を抜けるために切通した道に橋が架かっている。
|
1つ目の守居橋は、1937年(昭和12年)に架設されたもので、橋名は、守口と隣の土居を合体させたもの。土居は、土を盛るという意味で、守口城の土塁といわれている。 |
その東、約100mの立体交差部分にかかる、もう一つの本町橋は、1952年(昭和27年)、淀川を埋め立てた国道1号線と駅を結ぶためにできた橋だ。 |
「ちなみに本町という地名は全国にあって中心地という意味。ここが守口の中心地やったことが、うかがえるね」。 |
本町橋を渡ると左手の耳鼻科医院の横に古い石段がある。この石畳を降りると、かつて「船頭ヶ浜」と呼ばれた旧淀川の船着場跡がある。旧淀川が近畿一の水路として栄えたころには、三十石船が行き交い、ここからは天満に運ぶレンコンなどが積荷されたらしい。 |
街道を進むと、白壁に瓦屋根や格子戸のある家並みが現れる。
|
「江戸時代、紀州徳川家の参勤交代の折には数千人もの行列がこの道を通ったんやね。けど、庶民は手を振ることなんかできなかった。下に〜、下に〜って。2階の窓が小さくて桟で覆われているのも、顔を出して大名行列を見下ろしたりしないためなんや」と師匠。 |
その師匠がさらに「ほら、あれ見て」と指差す先には、2階の軒端に作られた小さな白い袖壁が・・・。 |
「あれは卯建(うだつ)と言って、防火用の壁やね。昔は借家には許されず、持ち家になって初めて作ることができたんや。うだつが上がる、上がらん、という言葉も、実はここから」。 |
歴史を紐解きながら町を歩くと、時代の日本語の美しさや、面白さにも気付く。
|
そんなうだつのある家並みの中には、写真館や提灯屋さんなど、今なお営業している老舗があるのがうれしい。
|
|