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第十七話
守口かいわい、江戸川乱歩住宅跡と、秀吉ゆかりの文禄堤を歩く
 
 
文/写真:池永美佐子
連日の猛暑に体力もアタマもダウン寸前・・・。「それなら、涼しい淀川沿いをたどって歴史の謎解きをしながら、秀吉ゆかりの文禄堤をのんびり歩こうか」と、師匠である大阪案内人、西俣稔さんのありがたいご提案。
そんなわけで、今回はゴメンナサイ、前号の予告を変更して、ふしぎな境界線のあるミステリーゾーンや名探偵、明智小五郎誕生の地などのある地下鉄守口駅界隈から、京街道のある京阪守口市界隈を歩いた。
●住宅地をジクザクに走る境界線のなぞをさぐる
地下鉄谷町線東梅田駅から電車に乗ること約10分、守口駅の地上に出ると、閑静な住宅地が広がる。
「町並みひとつにも、歴史が現れているんやね。こんな碁盤の目のように道がまっすぐに整備されているのは、町が明治以降に作られた証拠」。
そう話す師匠がカバンから取り出したのは、1885年(明治18年)の地図。それを見ながらさらに続ける。
「昔、この辺りは葦が茂る荒地で、その中心を蛇行する旧の淀川が流れていたんやね。淀川は先月も話したように明治42年に改修されたわけやけど(→前号にリンク)、いま立っている地点も川の中やった。すぐ東にある守口市役所の辺りは、明治の地図でいえば旧淀川にあった中島で、狼島(おおかみじま)と呼ばれたところ。その名の通り、うっそうと樹木が繁って狼が出るような殺伐とした場所やったらしい」。
ここから西にある淀川工科高校の前を迂回して再び住宅の中を歩く。
「注目してほしいのは、地名とその境界線やねん」と、次に師匠がカバンの中から取り出したのは、現在の住宅地図。見れば、守口市と大阪市旭区の境界線が、住宅の中をジクザグに走り、高校の敷地を斜めに横切って通っている。しかもその線は、ブロックではなく、家単位でギザギザに折れ曲がっているではないか。
実際、町の中を歩くと、隣りあう家や向かいあう家が「守口市梅町」であったり、「大阪市旭区太子橋」であったり。複雑に地名が入り組んでいる。
「で、極めつけが、これ」。師匠が立ち止まった道路には、なんと大阪市のマンホールの蓋と、守口市のマンホールの蓋が1メートルほどの距離に3つも密集している。
「なんで、こんなことになったか、分る?」 ん〜・・・脳味噌が起動する間もなく、師匠の解説が始まる。
「淀川の改修が原因なんやね。もともと国の境界線は、741年に川筋の中心と決められたんや。そこで、摂津国(大阪市)と河内国(守口)も淀川をはさんで分かれていたんやけど、淀川の付け替えで川がなくなって宅地になってしまったいまも、この境界線が生きているというわけや」。
なんと奈良時代の行政区画がいまに持ち越されているとは! ちなみに、行政サービスや学区はそれぞれの市区町で分類されるが、下水道については、区画にこだわらずに近い管に流れているとか。それにしても、この現代になんとも摩訶不思議な話。

境界線に立つ西俣師匠

 
大阪市と守口市の
マンホールの蓋が並ぶ
●淀川川辺の情景から生まれた地名「毛馬」
ここから北へ、阪神守口線の高架下をくぐって淀川堤防に出る。土手に上がると、川から吹く涼風が心地いい。しばらく東に進むと、「←枚方(ひらかた)・毛馬(けま)→」と書かれた表示板の前で師匠が立ち止まった。
「毛馬の毛とは、草木のことで、まさにこの土手の風景やね。草木が風に吹かれてそよぐさまが、毛のようやから。かつて淀川の中州にあって、毛島(けじま)と呼ばれていたのが、「毛志馬」の勢いある字に変わり、それがさらに縮まって「毛馬」になったんやね。一方の枚方は、その地形から、平たい潟が変化したもの。平を、さらにきれいな一ひら、二ひらという意味の「枚」に変えたんやね。昔の人は、ほんまにうまいこと考えはるもんや」。
この表示板を目印に、土手を川とは反対の団地のある側に下ると「五箇荘樋跡碑」と書かれた石碑が建っている。建立は1931年(昭和6年)。
「五箇荘樋とは、五つの荘を補う水路のこと。荘は荘園の名残りの地名で、守口、橋波(はしば)、稗島(ひえじま)などこの周辺にあった五つの荘の総称や。樋は淀川の水量を調整する水門やね。昭和になって田んぼや樋が埋め立てられていった中で、水門を偲ぶ石碑が、地元の人たちによって建てられたんや」。
米作りや田んぼに向ける農家の人たちの熱い想い、それを手放すことになった悲しみや悔しさが伝わってくるようだ。
草木が風にそよぐ淀川堤防
 
五箇荘樋跡碑
●名探偵、明智小五郎と数々のミステリー小説が生まれた江戸川乱歩の家
五箇荘水路跡から再び阪神高速の高架をくぐり、今度は芦間高校の南側に伸びる細い小道を通って地下鉄守口駅の方向へと向かう。緑道として整備されたこの道も「淀川から水を引いていた水路跡」という。そのことを物語るかのように途中、石段が付いて脇の建物よりも一段下がった所が見られる。
この緑道から東に折れて八島交差点にさしかかる路地で足を止めた師匠。「ここが推理作家、江戸川乱歩の住んでいた家なんです」。
見れば家の壁に「江戸川乱歩寓居の跡」の銘板が・・・。教えてもらわなければほとんど気付かずに通り過ぎてしまうような古めかしい民家だ。
「江戸川乱歩は、大正13年から15年の3年間、この家を借りて住んだんやね。ここは医師やった故・大野正さん所有の家で、大野さんが生きてはった時には、江戸川乱歩資料館として開館されていたんやけど。現在は奥さんが管理されているようや」。
日本を代表する推理作家の江戸川乱歩。「人間椅子」や「D坂の殺人事件」、「屋根裏の散歩者」などの推理小説で知られ、名探偵、明智小五郎の生みの親としても有名だ。明治30年、三重県に生まれた乱歩は、大正9年から大阪に移り住み、この家の2階で数々の名作を生み出したといわれる。
「とくに屋根裏の散歩者は、床の間の天井板の節目の穴から毒薬を注いで下で寝ていた人を毒殺するというストーリーで、そのトリックは映画007にも使われたんやね。また、初めて明智小五郎が登場するD坂の殺人事件では、格子戸越しに見た人の服が白かったり、黒かったりするんやけど、そのトリックは、当時家のすぐ前の路面を走っていた京阪電車の柵がヒントになったそうや」。
こうした名作が、この家で生まれたと知ると、感激もひとしお。建物は老朽化しているが、いまも人づてに訪ねてくるファンが、ひきもきらない。
江戸川乱歩の住んだ家
●白壁や「うだつ」のある家並みが続く文禄堤
「後半は、文禄堤(ぶんろくつつみ)を歩いてみようか」。
師匠の案内で、旧淀川の川筋だった細い道を通って京阪守口市駅の方へ向う。
駅の北側、京阪京都線や国道1号線と並行して東西に伸びる文禄堤は、太閤秀吉が伏見城と大坂城を最短で結ぶ陸路として1596(文禄5年)に毛利輝元らの諸大名に命じて旧淀川左岸を改修した堤防道。もっとも、堤といっても旧淀川が付け替えられた今、川はない。
「かつては約27kmにも及んだといわれる文禄堤も、いまはたったの600m。度重なる淀川改修工事で削られて、現在残っているのは、ここだけなんや。世界遺産にしてもいいぐらい、貴重な遺構なのに」。師匠が惜しむ。
一方、この堤は「京街道」として栄えた東海道でもある。江戸時代の最盛期、守口宿には26軒の旅籠屋が並んでいたという記録が残っているそうだ。
「ところで、この街道。京都に向かえば京街道で、大坂に向かえば大坂街道。京街道と大坂街道は同じ道なんやね」。「安藤広重の版画で有名な東海道五十三次は、江戸から京都までの宿場町の数。本当は伏見、淀、枚方、守口を加えて、東海道は五十七次あったんやね。守口は大坂に一番近い宿場町やったんで、こんなにも旅籠があったんや」。
思わず「へ〜」を連発してしまう歴史の「常識」。まだまだ知らないことが多すぎる。
文禄堤はもともと土手であったため、旧淀川を埋め立てた平地よりも高くなっている。途中、2カ所で一般の道路と立体交差しており、堤を抜けるために切通した道に橋が架かっている。
1つ目の守居橋は、1937年(昭和12年)に架設されたもので、橋名は、守口と隣の土居を合体させたもの。土居は、土を盛るという意味で、守口城の土塁といわれている。
その東、約100mの立体交差部分にかかる、もう一つの本町橋は、1952年(昭和27年)、淀川を埋め立てた国道1号線と駅を結ぶためにできた橋だ。
「ちなみに本町という地名は全国にあって中心地という意味。ここが守口の中心地やったことが、うかがえるね」。
本町橋を渡ると左手の耳鼻科医院の横に古い石段がある。この石畳を降りると、かつて「船頭ヶ浜」と呼ばれた旧淀川の船着場跡がある。旧淀川が近畿一の水路として栄えたころには、三十石船が行き交い、ここからは天満に運ぶレンコンなどが積荷されたらしい。
街道を進むと、白壁に瓦屋根や格子戸のある家並みが現れる。
「江戸時代、紀州徳川家の参勤交代の折には数千人もの行列がこの道を通ったんやね。けど、庶民は手を振ることなんかできなかった。下に〜、下に〜って。2階の窓が小さくて桟で覆われているのも、顔を出して大名行列を見下ろしたりしないためなんや」と師匠。
その師匠がさらに「ほら、あれ見て」と指差す先には、2階の軒端に作られた小さな白い袖壁が・・・。
「あれは卯建(うだつ)と言って、防火用の壁やね。昔は借家には許されず、持ち家になって初めて作ることができたんや。うだつが上がる、上がらん、という言葉も、実はここから」。
歴史を紐解きながら町を歩くと、時代の日本語の美しさや、面白さにも気付く。
そんなうだつのある家並みの中には、写真館や提灯屋さんなど、今なお営業している老舗があるのがうれしい。
旧淀川の船着場跡
「船頭ヶ浜」
 
宿場町の面影を残す
文禄堤
 
いまも営業している提灯屋
文禄堤は車の通行も少なく、守口市では「時空の道」と名付け、説明板や標識を設けて整備している。地下鉄守口駅界隈の淀川べりに広がるミステリーゾーンと、宿場町の面影をいまなお残す京阪守口市駅界隈。距離にすれば、ほんの数キロに過ぎない。みなさんも夕涼みがてら、ちょいとタイムトリップしてみては?
 
 
*次回は、近代日本の文化を担った偉人ゆかりの地、西区を歩きます。どうぞお楽しみに!!
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
 
サソ