●神話のベールに包まれた上賀茂神社の歴史を紐解く・・・ |
上賀茂神社と下鴨神社の起源は平安京遷都よりもずっとずっと昔のこと。ともに古代からこの地域を開拓した賀茂氏の氏神を祀る神社で、「賀茂社」と総称される。
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上流にある上賀茂神社の正式名称は「賀茂別雷(かもわけいかづち)神社」。その名の通り祭神は、賀茂別雷大神というカミナリの神様だ。社殿によれば、神武天皇の時代に賀茂山の麓に賀茂別雷命(かもいかずちのみこと)が降臨したと伝えられる。神社の北西には高さ約300mの美しい円錐型の神山(こうやま)がそびえている。 |
祭神にまつわる故事として「山城国風土記」には、こんな神話が残されている。
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「賀茂建角身命(かもたけつぬのみこと=賀茂氏の先祖)の娘である玉依媛命(たまよりひめ)が川遊びをしていると、一本の丹塗矢(にぬりのや)が流れつき、それを床に置いたところ懐妊した。賀茂建角身命が生まれた男の子にお前は誰の子かと訪ねると、その子は天を指して"われは天神の子・別雷命"と言い放った。と同時に、大地も揺るがす雷鳴がとどろき、火柱がサッと立って子どもは御殿の屋根を突き破って天に昇ってしまった」。
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しかし、田辺さんは数々の資料より、この神話を次のように読み解く。
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「古代、賀茂氏と並んで京(山背国)の地を制するもう一つ勢力である渡来系の秦氏が、加茂川の水や森の恵みを得ようとこの地に攻め入ったのではないかと思われます。攻略された賀茂氏は娘を秦氏に呈して和議することで長らえたのです。戦で破れた軍勢が勝った軍勢に対して作物や女性親族を供出するのは、当時の習わしでしたから。丹塗矢は戦いを挑んだ秦氏。玉依媛命は賀茂氏の娘で、賀茂別雷はその間に生まれた子と解釈するのが理に適っているのではないでしょうか」。
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ちなみに秦氏の守護神は、お酒の神様として有名な松尾大社。大陸伝来の技術で酒造を始めた秦氏とは関わりの深い神社だ。
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その松尾大社は、御紋が二つの賀茂社と同じ「双葉葵」であること。神話で丹塗矢の正体といわれる「火雷神(ほのいかづち)」が松尾大社の祭神であることや、松尾大社の後ろにある松尾山が「別雷山」とも呼ばれ「賀茂別雷」とも通じること。あるいは松尾大社で行われる松尾祭還幸祭が「松尾の葵祭」と呼ばれていることなど賀茂社との共通点が多い。田辺さんの解説が続く。
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「しかし、秦氏にとっても賀茂氏と結縁することは何かと好都合で賀茂氏との融和策をとったんです。天皇家のスポンサーであり先行隊でもあった秦氏は、賀茂氏と力を合わせて桓武天皇の平安京の造営に尽力したのだと思います」。 |
●ご神体の神山や三輪山を模した「立砂」 |
二つの大きな鳥居をくぐると本殿、雅楽殿、細殿(ほそどの)の前に、円錐型の盛砂が現れる。これは「立砂(たてすな)」と呼ばれ、神社創建以前のご神体である後ろの神山や奈良の三輪山を模したとされる。秦氏の守護神、松尾大社のルーツもまた三輪山にある。 |
ちなみに「立砂」は料亭の店先などで縁起を担いで置かれる「盛塩」とは別物。田辺さんによると「盛塩は、中国の後宮で帝の訪れを待つ側室たちが、帝の乗った牛車を止めようと家の前の道に置いたのが始まりとされています。これが水商売をする人の間で広まったのです」という。 |
神社の脇を覆う雑木林には、加茂川の分流のせせらぎが流れている。「楢の小川」と呼ばれるこの川は、境内を出ると「神明川」と名前を変えて神社の門前に広がる社家(しゃけ)の町をめぐり、さらに南にある下鴨神社へと流れていく。 |
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●すばらしい水のリサイクルシステムが整った社家の町 |
門前には、川をまたぐ土橋と漆喰(しっくい)の土塀に囲まれた家々が立ち並ぶ。「社家」は上賀茂神社で働く神官たちの住まい。室町時代ぐらいに建ち始め、江戸の最盛期には300軒近い社家が並んでいたとされるが、いまは20軒あまり。その中ほどにある「西村家庭園」は、唯一、一般公開している社家の建築だ。(ただし冬場は休館。3月末から公開) |
社家の各家では、明神川の水を塀の下にある吸門から取り込み、庭の池に注いでいる。そして生活用水として使った水は水門から土中に吸収され、浄化されて再び川に流される。
こんなにすばらしい水のリサイクルシステムが、何百年も昔に考え出されたとは驚きだ。 |
田辺さんが話す。 |
「社家の人たちは、もともと神官というよりも杜氏であったのではと、私は推測しているんです。いまもこの地で栽培されるすぐき漬けは、もともと神官たちが自家栽培で作っていた乳酸発酵の漬物ですが、この製法は酒づくりと酷似している。この点からも酒造りに長けた秦氏の勢力が関わっていたことがうかがえます」。 |
上賀茂神社から西、徒歩15分ほどのところに大田神社がある。小さい神社だが、朱塗りの鳥居や木造社殿がある延喜式内の古社だ。上賀茂神社よりも歴史が古く、実は賀茂氏の元祖・氏神だという。ここは木の実やケモノなど豊かな食料の宝庫だったようだ。境内には、落雷で切り株となった巨大なクスノキが、いまもご神木としてうやうやしく鎮座している。 |
横の大田ノ沢には、歌人、藤原俊成が「神山や大田の沢のかきつばた ふかきたのみは 色に見ゆらむ」と詠ったカキツバタの原種が群生し、初夏には見物の人でにぎわう。 |
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●神秘に満ちた下鴨神社 |
上賀茂神社から加茂川に沿って下ること3km。賀茂川と高野川が交わる三角地帯にある下鴨神社は、上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命の母親と祖父である玉依媛命と賀茂建角身命を祀る神社。だから「賀茂御祖(みおや)神社」という正式名称が付いている。建立は定かではないが、紀元前とも言われ、上賀茂神社とともに神秘のベールに包まれている。
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森の奥に立ち並ぶ社殿郡は国宝2棟、重文53棟。本殿の奥には、井戸の上に祀られた御手洗社(みたらしのやしろ)がある。ここから湧きだす清水で満たされた御手洗池では、葵祭の斎王代の禊(みそぎ)や、土用の丑の日に足をつけて穢(けが)れを払う「足つけ神事」(御手洗祭り)が行われる。御手洗池から湧き出るアワを人の型にかたどった「みたらし団子」は、ここが発祥の地とされている。
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神社の楼門そばに「相生(あいおい)社」がある。神皇産霊神(かむむすびのかみ)という縁結びの神を祀っており、社の前には「連理の賢木(れんりのさかき)」と呼ばれる、2本の木がからまりあって途中で1本に結ばれたご神木がある。不思議なことにこの木が枯れると、糺の森に同じように結ばれた木が見つかるという。現在のご神木は4代目だとか。 |
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●都ができる前の京都盆地の姿を彷彿とさせる「糺の森」 |
下鴨神社の境内でもある「糺(ただす)の森」は、社殿とともに世界文化遺産に指定されている原生林。アラカシ、ムク、ケヤキなど約3500本の落葉樹林がうっそうと茂る。 |
一時期、森が荒れ、雑木もまばらになっていたが、30年ほど前に森林生態学者の四手井綱英博士の呼びかけで植樹が進み、森は再び元気を取り戻した。 |
田辺さんによれば「この森こそ都ができる前の京都盆地の姿。大きな池のあった南部を除いて盆地全体がうっそうとした雑木に覆われていたんです。ところが平安京の造営に当たって下鴨神社のある、この辺りを残して伐採され、その木で内裏が作られた。ここでも賀茂氏や秦氏たちの、土木技術や築造技術が威力を発揮したのでしょうね」という。 |
糺の森には日本最古の馬場がある。競馬神事が行われる上賀茂神社と合わせて、賀茂社は乗馬や競馬発祥の地でもある。下鴨神社では毎年5月、馬を走らせながら矢(かぶらや)を射る「流鏑馬(やぶさめ)神事」の神事が行われる。 |
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上賀茂神社から流れてきたせせらぎは、「奈良の小川」となって森の中をめぐる。
川辺にしゃがんで禊(みそぎ)をしようと川に片手をつけると、田辺さんが「あぁ」と思わず溜息をもらした。
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「禊は、手を洗ったり水をすくったりするのではないんです。作法はいろいろありますが、合掌するように合わせた掌の指先の間を数センチ空けた形で川につけるんです」。 |
それまたどうして?「この形は赤ん坊が生まれる産道を表します。禊とは、本来、自分を見つめなおすという意味。だから、生まれてきた母の胎内に戻る必要があるんです」。 |
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