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第十九話
「ほんまもん大阪」の素晴しさが渦巻く北船場を歩く
 
 
文/写真:池永美佐子
かの有名料亭が起した食品偽装事件が人々の記憶から消えないうちに、今度は食べてはいけない汚染米を私利私欲のために不正転売するという嘆かわしい事件が起こった。それも商都、大阪で・・・。同じ大阪人として、本当に恥ずかしく悲しい。
「こんなことが起こるたびに大阪の印象はどんどん悪くなる。古来、大阪は商業のみならず、経済、政治、文化、教育の中心地として栄えたところ。高い志を持ったすばらしい先人たちが大勢いて日本の近代化を担ってきたのに。あまりにも情けない」。
大阪案内人、西俣稔さんもボヤクことしきり。
かき消される郷土の歴史と誇り。これでは先人たちの苦労が台無しになるばかりでなく、大阪の、日本の未来が危ぶまれる。
「ほんまもんの大阪」を知ってもらいたい。街歩き師匠、西俣さんの案内で近代日本の基盤を生み出した北船場周辺を回った。
●民生委員発祥の地、大阪は貧しい人たちにも優しい街だった
淀屋橋の南詰めの草生した緑地帯。「淀屋の屋敷跡碑」の西側に、椅子に腰掛けた着物姿の紳士の銅像が、木の陰で訪れる人もなくポツリと佇んでいる。
「この人、誰か知ってる?また、なんでこんなところに座っていると思う?」
初っ端から、いつもの師匠のなぜなぜ攻撃。・・・と、いわれても?
「大正時代の大阪府知事、林市蔵さんや。散髪屋さんの鏡の前で座っているところなんや。散髪中、鏡の中に3人の子どもを連れた母親が夕刊を売る姿が写ったんやね。知事が母親に尋ねると、夫が病に倒れ、子どもを抱えて夕刊売りでやっと生計を立てているという。幼い頃自分も貧しかった林知事は、これをきっかけに日本で初めて民生委員制度を作ることになる。この銅像はその知事を讃えて作られたものや」。
大正7年、第一次大戦の後、物価の高騰で米騒動が勃発した年の出来事。ちなみに当時は民生委員ではなく「方面委員」といったそうだ。林知事は、この他にも米などの物価の安定を図るため中央卸売市場を開設したり、北区に日本初のセツルメントを開いたりしたという。大阪は、貧しい人たちにも優しい福祉先進都市でもあった。
 
 
林市蔵知事の肖像
●川上音二郎の帝国座とオッペケペー節
南西にある住友信託銀行南館の前で足を止めた師匠。「ここは川上音二郎が建てた帝国座があった場所」。よく見ると、ビル前の足元に、そのことを記した小さな碑がある。
(ただし、碑には「音二郎」が「音次郎」になっているけど…)
川上音二郎は明治時代に活躍した新劇のスター。「オッペケペー節で一世を風靡した人や」。といっても、若い人は知らないかもしれないが。
かつて、この場所にあった帝国座は、3階建ての純西洋建築物で収容人数1000人。1910年(明治43)のこけら落としには「ロミオとジュリエット」が上演されたという。劇場の後、広告代理店の萬年社などの社屋になったが、1968年(昭和43)に取り壊された。
「音二郎は、幕末の1864年、博多生まれ、家が貧しく14歳の時に無一文で上京して、寺の手伝いやら福沢諭吉の書生、慶応大学の門番やら、いろんな仕事を転々とした。そして、大阪にやって来て政党新聞記者になり、自由民権運動に共鳴していくんやね。政治批判をして、なんと48年の生涯で170回逮捕されて投獄生活も送ったそうや」。
その中で生まれたのが、政治風刺のオッペケペー。
「ペケとは、マレーシア語で破談という意味。音二郎は、この曲を引提げ、米、英、仏、東欧、北欧、ロシアで公演して大好評を得た。1910年といえば「韓国併合」が始まった年で、朝鮮王と日本の娘の悲恋を描いたシナリオも作るんやけど、これは残念なことに検閲でアウトになった」。
ここで、おもろむに鞄の中から1本のカセットテープを取り出した師匠。持ってきたラジカセにセットするとザザ・・・という雑音とともに、古びた音が・・・

♪ままならぬは 浮世の習い 飯(まま)になるのは米ばかりオッペケペーオッペケペッポーペッペッポー・・・(略)・・・不景気極まる今日に細民(さいみん)困窮省みず目深に被った高帽子金の指輪に金時計権門貴顕に膝を曲げ芸者太鼓帯間に金を撒き内には倉に米を積み ただし冥土のお土産か地獄で閻魔(えんま)に面会し賄賂(わいろ)使うて極楽へ行けるかえ行けないよオッペケペーオッペケペッポーペッペッポーィ〜♪

音二郎の歌声が、1世紀を経てこの場所で鳴り響くとは、ご当人も予想しなかっただろう。
「音源は、パリ公演で録音されたレコード。ロンドンで保管されていたんやけど。12年前に初めて聞いたとき、私はあまりの感動で身震いした」。
それにしても、この歌詞、今の時代にもそっくり当てはまるではないの!
帝国座のあった場所
 
当時の帝国座
●元禄時代に花開いた町人文化と、町人たちの学問所「懐徳堂」
大阪市内は太平洋戦争の空襲で全面積の27%を焼失したという。中でも西区と現中央区はもろに空襲の標的となったが、淀屋橋から北浜に至る北船場の界隈は、奇跡的に戦火を免れたところ。今もビルの合間を縫って戦前からの建物や町並みが残っている。
御堂筋西側の土佐堀通から2筋南。今橋通と高麗橋通の間にあって東西に貫く細い小路も、古き時代にタイムスリップしたようなしっとりとした風情が漂う。
「この道は浮世小路(うきよこじ)。井原西鶴の好色一代男にも出てくる場所で、元禄時代には風呂や古着屋、隠し宿(今でいうラブホテル)とかが並ぶ、まさに浮世のあらゆる商いがあったんやね。好色一代男では、主人公、世之介が惚れた女性を尋ねてここを訪れるという下りがある」。
瓦屋根に宇建つ(うだつ)のある町屋の前で立ち止まると、三味線の音が聞こえてきそうだ。
 
御堂筋を渡って東に進むと、今橋通に面して日本生命保険ビルの南壁面に「懐徳堂(かいとくどう)旧阯碑」がある。
「懐徳堂は、1724年(享保9)に三宅石庵とその弟子の中井甃庵(しゅうあん)ら、大坂の商人たちが設立した学問所や。何かすごいかというと、お金のある人もない人も誰でも勉強できたこと。お金のある人はお金を、米のある人は米を。貧しい人は紙でもいいと。ここで儒教とともに天文学やら算術やら経済学を学んだんやね。この商人たちの熱い魂が、この次にいく適塾の開設にもつながって、全国に広がっていくんや」
1869年(明治2)に閉校するが、その後、太平洋戦争で焼失した。碑は大正7年に建立された。現在その資料は「懐徳堂文庫」として大阪大学に保管されている。
浮世小路
懐徳堂旧阯碑
●「子どもは宝石!」軍国教育も跳ね除けた愛珠幼稚園
今橋通りをさらに東に行くと角に古めかしい日本家屋の建物がある。てっきりお寺と思いきや、看板を見れば「大阪市立愛珠(あいしゅ)幼稚園」。なんと公立の幼稚園というから驚く。いまなお現役で平日は園児たちの元気な声が聞こえる。
建物は1901年(明治34)の建築。開園はさらに古く1880年(明治13)。「日本で二番目に古い幼稚園」という。ちなみに一番は東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)附属幼稚園。
「ここがすばらしいのは、まず、その園名や。子どもを珠、つまり宝石のように愛するということ。そして教育方針。船場商人であった塩野吉兵衛初代園長は、日露戦争時代、園児たちに軍国教育が要求されたときにも、戦争の意味も知らない小さい子どもにとんでもないと跳ね除けたんや」。
園児たちに向けた細やかな配慮は建物にも現れている。園内は当時から、床と中庭に段差のない、今でいうバリアフリー設計。天井には光がたくさん降り注ぐよう小窓が施され、床下には保温と防音を兼ねてオガクズが敷かれている。
 
愛珠幼稚園 
●日本の近代化に貢献した偉人を輩出した適塾
愛珠幼稚園の北塀と同じ通りに「適塾」がある。医者で蘭学者でもあった緒方洪庵が開いた私塾だ。ちなみに緒方洪庵の師匠は医者の中天游。そしてその師匠はエレキテルを研究した橋本宗吉で、そのまた師匠は・・・と辿るっていくと天文学者の間長涯〜麻田剛立に行き着く。みんな大阪に縁のある学者だ。 (前号にリンク→)
「洪庵は、岡山藩士の息子やったけど、医者になりたいと書置きして17歳で家出するんやね。どれだけ強くても賢くでも病気になったらお終いやと。そして大坂で中天游の元で学んだ後、長崎で医学を学ぶんや」。
1938年(天保9)、洪庵は、この家を買って寮制の塾を開く。2000人を超えたという塾生の中には、福沢諭吉や幕末維新に政治の場で活躍した橋本左内、大村益次郎、日本赤十字社の創設に尽力した高松陵雲など、日本の近代化に貢献した人々がいる。
「塾内ではヅーフ辞書、という1冊しかない蘭和辞書を奪い合って勉強したそうや。また、スペースは1人1畳。そこに座卓と布団を置き、成績が悪いと光の当たらない階段に追いやられたとか。必死で勉強したんやね。彼らの学ぶ姿勢には頭が下がる」。
2階の大部屋の柱には、血気盛んな塾生たちが振り回した刀傷が残っていて、彼らのエネルギーが伝わってくるようだ。
建物は1964年(昭和39)に国の重要文化財に指定されて一般公開している。横には洪庵の銅像を配した小さな公園が整備されている。
適塾
 
●「三つの橋よ、お疲れさん、休んでや」で三休橋
適塾の前の通りを東に行くと、南北に交差する「三休橋筋」に差し掛かる。
「栴檀木橋(せんだんのきばし)筋とも呼ぶんやけど。三休橋という筋名は、かつてこの南にある長堀川にかかっていた三休橋に由来するんやね。では何で三休なのか? 長堀川には、もともと心斎橋と長堀橋、その間に中橋の三つの橋が架かっていたんやけど、交通量が増えて、もう1本橋をつくろうということになった。そして付いたのが、この名前や。三つの橋に、お疲れさん、ゆっくり休んでやと。町人たちの思いを込めた美しい言葉やね」。
話が横道に反れたついでに「筋と通り」の薀蓄も。
「大阪では南北の町を筋、東西の道を通りということは、ご存知のとおり。今は御堂筋とか堺筋とか「筋」が基軸やけど、明治後期に市電が通るまでは反対で「通り」が基軸やった。なぜかというと、船場の物流は東横堀川と西横堀川の水陸が主流やったから。そこで両方の川をつなぐ東西の道が重要やったんやね。その証拠に江戸期の筋は道幅6メートルで、通りの道幅は8メートル。通りの方が広かったんや。商家や民家の玄関も南北ではなくて東西の通りに面して作られていたんや」。
三休橋筋
残念ながら、堺筋に出る前に、またもやページオーバーに・・・。
いずれも、近代日本の歴史を揺るがす大物たちを輩出した大阪。船場の街を歩けば、どこそこに大阪や日本を愛する先人たちの熱い想いが渦巻いていて感動する。
 
 
*次回はこの続き。北浜から南下して船場の東横堀川に架かる橋々を中心に巡ります!!
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
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