FUJITSU ファミリ会 関西支部FUJITSUファミリ会関西支部

第四話
祇園祭とゆかりの深い、竜神が棲むパワースポットを訪ねて
 
 
文/写真:池永美佐子
祇園に「コン、コン、チキチン・・・♪」の音色が響き始めたら、京都のまちは祭り一色。お囃子は聞こえずともワクワクするのは、京都生まれの私の中に組み込まれたDNAのせいなのか?
祇園祭といえば、14日〜17日の宵山から山鉾巡行までがクローズアップされるが、実は7月1日の「吉符入り」に始まり、31日の境内摂社「疫神社夏越祓」で幕を閉じるまで1ヶ月にわたって神事や行事がくり広げられる。
そこで、今月は祇園祭の魅力をさぐるべく京へ。案内役には京都で仏像などの写真を撮り続けている写真家の田辺聖浩さんにお願いした。
京都はもちろん日本の三大祭の一つとして全国にその名を馳せる祇園祭。にもかかわらず「祇園祭のルーツって意外と知られていないようです」と田辺さんは嘆く。
「そんなことはないですよ。平安時代に疫病が流行って、それを鎮めるために鉾とお神輿を神泉苑に送ったのが始まりと違うんですか」と、ガイド書にある知識を披露すると 「じゃあ、鉾って何? 京都の祭りだけ何で山や鉾があるの? どんな疫病が流行って、何で神泉苑なんやろう?」と矢立早に。
う〜ん・・・と、言葉に詰まる私。そのなぞを解くべく向った先は、祇園とは方向の違う二条城南側にある神泉苑。
山鉾巡行 
(写真提供: 田辺聖浩)
●八坂神社にある深い井戸「龍穴」とつながる神泉苑の井戸
御池通と堀川通の交わる地点にある神泉苑は、小さな池のあるひなびた庭園だ。一角に料亭があるため、その庭と思っている人も多いが、もともとは禁苑(天皇の庭)であったという。田辺さんが解説する。
「古代の京都は海の中やったんですよ。その後、陸続きになり平安京に遷都されたころになっても大内裏の南側にあるこの辺りは湿地帯でね、その地形を利用して桓武天皇が設けたのがこの池の始まりです。 当時は今の数十倍もの広さがあったといわれ、泉や森が広がる苑内では、優雅な宮殿もあったらしいですね。平安京が風水に基づいて建設された事は有名やけど、神泉苑はその風水とも深い関わりがあって、気の流れを都に取り込む、まあ一種のパワースポットやったわけです」。
赤い欄干の橋がかかる小さな池には、「善女龍王」という竜神が棲むと伝えられ、いまなお 独特の神秘的な雰囲気を漂わせている。
「平安時代の京のまちは水害や厄病との闘いやったんです。御池通も堀川通も、もともとは鴨川と並ぶ大きな川で氾濫することも多く、それで疫病も広がったんでしょう。さらに、この西の三条大宮の界隈には刀師が住み、刀や剣を作っていたんです。
それで流行り病や災害の原因は、政治的に失脚した人や戦いで殺された人たちの怨霊といわれ、それを鎮めるための御霊会(ごりょうえ)とよばれる儀式があちこちの神社で行われたんですね。祇園祭もその一つで、竜神さんの支配する聖なる神泉苑で疫病撤退の祈祷をしたわけです」。
神泉苑の善女竜王の井戸は、祇園祭の舞台となる八坂神社の本殿下の「龍穴」という深い井戸とつながっているといわれている。この神泉苑では、今も、いわゆる「後祭り」といわれる24日の還幸祭(かんこうさい)に八坂神社の祭神である素戔嗚尊(すさのをのみこと)の神輿が御渡安置され、神仏それぞれの拝礼が行われている。
ちなみにこの巨大庭園が、今のように縮小されたのは江戸時代に入ってから。家康が二条城を築城する際に庭園の大部分を敷地に納めたという。池の一部は城の堀になっている。
祇園祭のルーツといわれる神泉苑。神秘的な雰囲気が漂う
 
 
●商店街の中に潜む八坂神社の境外末社「御供社」
神泉苑から西南方向に歩くこと5分あまり。大宮通りを南下して三条通りを東に入ると商店街通に面して「御供社(ごくうしゃ)」という小さな神社がある。
ここは、かつて広大な神泉苑のほとりに位置し、その斎場としてにぎわったという。祇園祭とも深いつながりがあり、四条河原町の「お旅所」に対して「又旅所」と呼ばれる。
「三条大宮は、平安時代から祭りの行列を点検する場所を意味する"列見の辻"と呼ばれ、都の北側を巡る櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の神輿と、南側を巡る素戔嗚尊の神輿、八柱御子神(やはしらのみこがみ)の神輿が合流したんです。そのため神泉苑と同様、いまも還幸祭には、この神社の前に三基の神輿が安置され、神饌が御供えされます。御供社という社名も、ここから来ているんですね」と田辺さん。
御供社では最近、氏子さんたちを中心にして祇園祭にまつわる神社の歴史をもっと広めようという動きがあるそうだ。
●鉾は天皇から贈られるご褒美だった!!
祇園祭のパレードを彩る、山と鉾。17日の山鉾巡行では、四条烏丸の長刀鉾を先頭に32基の山と鉾が四条通、河原町通を経て御池通へと巡行する。「山」が祭神だけを乗せた小ぶりの台車であるのに対して、「鉾」は、稚児と囃子方が乗る大きな台車。先頭を行く長刀鉾の屋根の上には、光り輝く長刀がついている。
このほか、函谷鉾は月に山形、鶏鉾は三角に日の丸、月鉾は三日月、菊水鉾菊花の鉾が天に向かって雄雄しく掲げられる。鉾は、神泉苑に送られたという66本の矛(ほこ)にその起源を発するが、もともとは長さ6メートル程度と小さなもので「剣鉾」とも呼ばれていたという。
「武器である矛を掲げるのは、厄病を払いたいという願いの表れでしょう。剣鉾は、もともと天皇から賜わるご褒美やったようですね。神輿に奉仕すると租税や公共の労役を免除された記録もあり、天皇から剣鉾を贈られるということは町が特別扱いされているという証やったんです。室町時代の剣鉾が、そのまま伝承されているところがあります」。
聞き捨てならない田辺さんの話にググッと身を乗り出すと、「それじゃあ、行ってみますか」と、田辺さんの運転する車は、烏丸通を北上して「上御霊 (かみごりょう) 神社」へ。
皇室とも深いつながりのある上御霊神社は、桓武天皇が病死した実弟、早良親王(崇道天皇)のたたりを恐れて建立したといわれ、いち早く悪霊退散の御霊会を行ってきた神社だ。
上神輿町、下神輿町などの町名をもつ地域を氏子にもつこの神社では、鉾のルーツともいえる剣鉾を秘蔵する町内会が複数あり、太刀鉾、龍鉾、蓬莱鉾など15の剣鉾を保管しているという。普段は非公開の剣鉾だが、年に一度、5月18日の御霊祭(渡御)にはお神輿と一緒に巡行される。
 
三条通り商店街に面した御供社。八坂神社の境外末社で「又旅所」といわれる
 
 
御霊祭で巡行される室町時代の「剣鉾」。これが鉾のルーツ。
(写真提供: 田辺聖浩)
 
 

●祇園のルーツは、北インドの祇園精舎に
さて、締めくくりは祇園のまちと祭のシンボルである八坂神社へ。ところで「祇園」なる言葉はどこから来ているのだろうか。
「祇園のルーツは、北インドのサヘト・マヘトにある有名な祇園精舎です。もともと祇園祭の祭神といわれる牛頭天王(ごずてんのう)は、インドの祇園精舎に祀られている疫病退散の神様なんですね。八坂神社という名は、この一体を支配していた渡来人系の八坂氏に由来するんですが、昔は祇園寺とか祇園感神院、祇園天神社とか呼ばれ、神仏習同で祀っていたんです」。
----でも、祇園祭の祭神は一般的に「素戔嗚尊」と言われますよね。これはつまり、「 素戔嗚尊」と「牛頭天王」は同じ神様ということ?
「神道では素戔嗚尊で、仏教では牛頭天王、備後風土記では武塔神です。呼び方が違うだけという説もあるけど、私は次のように考えているんです。明治時代の神仏分離で仏教色は一掃された中で、牛頭天王は古事記や日本書紀には出てこないことから、以降は日本神話に出てくる神様で八股大蛇(やまたのおろち)を退治した素戔嗚尊が引き継いだと。異文化を積極的に取り入れてきた古代の京都人のおおらかさ、国際性はすばらしいと思うし、こうしたことこそ、きちんと後世に伝えなければ」。
知れば知るほど、深くて面白い祇園祭の真実。今年の祇園祭は、人ごみを掻き分けて山鉾を見物するだけのいつものお祭とは一味も二味も違うものになりそうだ。
[※次回は再び大阪に戻って、天王寺界隈を中心に谷町筋を歩きます。]
長刀鉾の稚児舞。稚児が乗るのはこの鉾だけ。
(写真提供: 田辺聖浩)
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
案内人:田辺聖浩
京都は西陣の生まれ。写真家、入江泰吉氏に師事。
以降商業カメラマンとして活動する傍ら、文化財や仏像の写真撮影に力を入れている。趣味はクルマと星の観察。只今「神様がつくった絵」と題して空や雲を撮っている。
 
 
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