●681mの十三大橋を渡って先人の足跡をたどる |
「阪急電車に乗ればわずか30秒やけど、歩いて渡れば約15分。さあ、これからこの橋を渡ってもらいます」。 |
十三渡し跡の碑を後に、西俣師匠に連れられたのは、碑のある淀川河川の北岸に架かる「十三大橋」。
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阪急電車の軌道と並んで架かる白い5連の美しいアーチ橋は、橋のたもとに立つと、遠くから眺めているよりはるかに巨大で存在感がある。 |
下を流れる淀川は、前号でも触れた通り明治43年(1910年)に開削された人工河川。それまでは細い川幅の中津川が蛇行し、幾度となく氾濫して、流域は洪水との闘いだった。師匠の解説。 |
「そこで立ち上がったのが放出(はなてん)村出身の大橋房太郎さんやった。放出という地名の由来は、河川が多く水が放ち出る、つまりそれほど洪水被害の多い土地やったということ。明治初頭、この村で生まれた大橋さんは、幼い頃からこの淀川をどないかせなあかんと考えたんやね。あだ名が淀川さんとついたほど、その使命感に燃えた。 |
それからもう一人、デレーケさんというオランダ人設計師もいた。開削技術をもつ彼は、明治の初めに日本の国から招聘されて来ていたんやけど、残念なことに予算が通らなくて開削には至らなかった。それで大橋さんは、淀川の治水を公約に掲げて府議会議員になったんです。任期は7期。なんと26年もの間、淀川の治水だけを公約に掲げて活動し続けたんやね」。 |
そして明治29年、再び大洪水が起こったのを機にやっと国会で予算が認められることに。 |
「国会で傍聴していた大橋さんは、淀川万歳と何度も叫んで守衛さんに連れて行かれたとか。でも、大阪に戻ってきたら、ようやったと1000人もの住民がだんじりを繰り出して大歓迎を受けたそうや。それやのに、またその後が苦難の連続・・・。というのも立ち退き反対派に妨害されて」。 |
そんな大変な思いを重ね、12年の歳月をかけて完成したのがこの川だという。改修工事には、現在の扇町公園にあった監獄の囚人たちも携わった。 |
ちなみに昭和10年6月に75才で逝った大橋さん。「ちょうど梅雨時で最期は『淀川は大丈夫か?』と何度も何度も言って息を引き取ったそうや」。 |
十三大橋は新淀川の掘削直後に架けられたが、旧能勢街道を府県道大阪池田線として拡幅整備するのに伴い、昭和7年1月に現在の橋に架け替えられた。人や自転車が往来する長さ681mの橋は、北行き片側1車線と南行き片側3車線の車道のほか歩行者道が設けられている。渡ってみると想像以上に長く、川幅が広いことを実感する。夕陽にキラキラ反射するのどかな淀川を眺めていると、先人たちの偉業に感謝の念を感じずにはいられない。 |