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第十六話
淀川改修に生涯をかけた人たち
〜十三大橋と中津から梅田へ中国街道を歩く〜
 
 
文/写真:池永美佐子
「十三(じゅうそう)」。前回は、この不思議な地名を持つまちを歩きながら、大阪案内人の西俣稔さんから地名の由来や知られざる歴史エピソードを紹介してもらったが、今回はその続編。十三街歩きもいよいよ佳境へ。
●681mの十三大橋を渡って先人の足跡をたどる
「阪急電車に乗ればわずか30秒やけど、歩いて渡れば約15分。さあ、これからこの橋を渡ってもらいます」。
十三渡し跡の碑を後に、西俣師匠に連れられたのは、碑のある淀川河川の北岸に架かる「十三大橋」。
阪急電車の軌道と並んで架かる白い5連の美しいアーチ橋は、橋のたもとに立つと、遠くから眺めているよりはるかに巨大で存在感がある。
下を流れる淀川は、前号でも触れた通り明治43年(1910年)に開削された人工河川。それまでは細い川幅の中津川が蛇行し、幾度となく氾濫して、流域は洪水との闘いだった。師匠の解説。
「そこで立ち上がったのが放出(はなてん)村出身の大橋房太郎さんやった。放出という地名の由来は、河川が多く水が放ち出る、つまりそれほど洪水被害の多い土地やったということ。明治初頭、この村で生まれた大橋さんは、幼い頃からこの淀川をどないかせなあかんと考えたんやね。あだ名が淀川さんとついたほど、その使命感に燃えた。
それからもう一人、デレーケさんというオランダ人設計師もいた。開削技術をもつ彼は、明治の初めに日本の国から招聘されて来ていたんやけど、残念なことに予算が通らなくて開削には至らなかった。それで大橋さんは、淀川の治水を公約に掲げて府議会議員になったんです。任期は7期。なんと26年もの間、淀川の治水だけを公約に掲げて活動し続けたんやね」。
そして明治29年、再び大洪水が起こったのを機にやっと国会で予算が認められることに。
「国会で傍聴していた大橋さんは、淀川万歳と何度も叫んで守衛さんに連れて行かれたとか。でも、大阪に戻ってきたら、ようやったと1000人もの住民がだんじりを繰り出して大歓迎を受けたそうや。それやのに、またその後が苦難の連続・・・。というのも立ち退き反対派に妨害されて」。
そんな大変な思いを重ね、12年の歳月をかけて完成したのがこの川だという。改修工事には、現在の扇町公園にあった監獄の囚人たちも携わった。
ちなみに昭和10年6月に75才で逝った大橋さん。「ちょうど梅雨時で最期は『淀川は大丈夫か?』と何度も何度も言って息を引き取ったそうや」。
十三大橋は新淀川の掘削直後に架けられたが、旧能勢街道を府県道大阪池田線として拡幅整備するのに伴い、昭和7年1月に現在の橋に架け替えられた。人や自転車が往来する長さ681mの橋は、北行き片側1車線と南行き片側3車線の車道のほか歩行者道が設けられている。渡ってみると想像以上に長く、川幅が広いことを実感する。夕陽にキラキラ反射するのどかな淀川を眺めていると、先人たちの偉業に感謝の念を感じずにはいられない。

十三大橋 右側が歩道

 
十三大橋から淀川を臨む
●高麗橋から周防・安芸・備後に通じる中国街道
十三大橋を渡ると南岸の袂に「(右)池田四里・(左)高麗橋一里」と記された巨大な道標が立っている。
「ここは池田に通じる中国街道やったんです。太閤さんの時代から、すべての道は高麗橋に通じていたんやね。京街道も、熊野街道も。ところで山口、広島、岡山・・何で中国地方というか知ってる?」。
またまた出た地名謎解きクイズ。さあ?当たり前すぎて考えてもみたこともなかったけど。
「地名は都を基点に付けられるんやね。越前、越後という地名も、都が中心にして付いた地名や。福岡の旧国名は筑紫。これは、都から見て尽くし果てる国の意味。ならば周防、安芸、備後などは、都から見て中間にある国というわけで中国やね」。
な〜るほど。それにしてもこんな道筋が広島にも下関にまで通じているとは!
「それから、道標の指もよく見てみて」。
あらためて石に刻まれた手を熟視すると、なんと手首が背広の袖口に。
「道標の建立は大正9年。当時の世相がこんなところにも出ているんやね」。 土手の下の窪みは、かつて工場地帯に荷を運ぶ運河だったという。
十三大橋から国道176号線の高架道路のガード下を通って、中津商店街を潜り抜け再び中国街道に出る。
倉庫街が続くガード下は、戦時中は空襲時の避難地になり、近年は昭和33年(1958年)から平成14年(2002年)3月まで44年近くABCテレビで放送された人気ドラマ「部長刑事」(のち「新部長刑事アーバンポリス24」)では、しばしば犯人と警官隊が撃ち合うシーンの撮影場所になった。退廃的な独特のムードを放つ通りだが、最近では空き家となった倉庫を若いアーチストたちが演劇やライブ空間に利用するなど、新たな動きがある。
大正時代に建てられた中国街道の道標
 
ガード下に作られた倉庫街

 

●淀川に沈んだ神社が移転した富島神社と佐伯祐三ゆかりの光徳寺
さらに中国街道を南下、中津の大淀警察署の角の交差点を東に入ると富島神社がある。
「ここには新淀川の開削のために立ち退いた複数の神社が合祀されているんです」。 神社略史によれば、島神社、兵衛府神社、鷺島神社を合祀したとある。
「左奥にごっつい石があるでしょ」。
師匠の指す先には「十三思昔会」と掘り込まれた碑が。建立は大正10年。
「周辺に立ち退いた旧十三町の住民たちが20年余りたってから再び親睦を図るためにこの会を結成したんです。改修工事に伴う住民たちのご苦労が伝わってくるね」。
富島神社の並びに建つ光徳寺は、かの偉大な洋画家、佐伯祐三の生家。確かに門柱には「佐伯」の表札がかかっている。
「佐伯祐三は、明治31年にこのお寺の住職の三男として生まれたんです。北野中学(現北野高校)を経て東京芸術大学で洋画を学んでご存知のようにパリで活躍した。しかし、佐伯さんは34歳の若さで亡くなってしまう。そういえば織田作之助も30歳・・・短い命の中に彼らが残してくれた文化を、大阪人である私たちはもっと大事にせなあかんね」。
富島神社。左奥に碑がある
●旅の別れを惜しむ場所、茶屋でにぎわった茶屋町
ビルや民家の隙間を縫うように延びる中国街道。中津から阪急梅田駅に近づくにつれて辺りは繁華街の形相になり、やがて若者たちでごった返す「茶屋町」へ。
「茶屋町というのは、もともと茶屋のあったところ。街道沿いにつきもので、休憩所や旅の別れを惜しむ場でもあったんやね。天下茶屋は天下を取った太閤さんが住吉大社に参拝するときに休憩したんでその名があるんです。昔、この辺は大阪郊外で春先には一面菜の花畑に。明治の中期まではそこに萩之茶屋、鶴之茶屋、車之茶屋とかが並んでいて行楽客でにぎわっていたらしい」。
その足跡を残す「鶴之茶屋跡」碑がビルの隙間にあったが、残念ながら今は撤去されている。
それにしても、茶屋町という町名は残っているのに「チャヤマチ」などカタカナや横文字表記が多いのが惜しまれる。意味を伝えてこそ文化なのに!
 
 
 
中国街道にある現在の
茶屋町
●「万歳町」のルーツである万歳橋は、いまどこに?
茶屋町を後に、師匠はすたすたと東通商店街を通り抜け、「万歳(ばんざい)町」に。
「めでたい地名でしょ。その由来は大阪府地名辞典によると万歳橋にあると書かれていたけど、肝心の万歳橋がどこに架かっていたのか、長い間分からんかった。ところが」
足早に師匠が向った先は、万歳町のすぐ南隣、神山町にある鈴木ビルという2階建てビルの前。
「万歳橋はこの角に架かっていたんやね。ここは江戸時代の川筋で、天満堀川から続く名もない川と、まさに今歩いてきた中国街道とが交わるところやったんです。その証拠がこれ」と、今度は師匠の鞄の中から1枚の古びた写真が・・・。そこには、今立っている地点と思しき場所に「元ばんざい橋碑」が写っている。
「この写真は昭和初期に撮られたもので鈴木ビルの所有者からいただいたんです。そしたら、当の万歳橋はどこへ・・・と探してみたら意外なところにあったんやねぇ」。
再び師匠に案内されたのは、鈴木ビルの少し西にある網敷(つなしき)天神社。境内にある稲荷社の前に「萬載橋」と彫られた親柱のある小さな石橋が鎮座している。狭い橋は二人並んで歩くのがやっとで、鈴木ビル前の狭い道幅とぴったり一致する。
「最後になんで万歳という橋名をつけたか。これについては、最初、日清日露戦争出兵のバンザイかと思たけど、橋の築造は安政年間(1860年頃)で年代が合わない。それよりも安政は幕末で大混乱して大火や地震のあった時代でもあるし、町が万年(万歳)までで発展してほしい、という願いをこめて大坂町人がつけたのではないやろうか」。師匠はそう推測する。
 
私たちが毎日あわただしく行き来する繁華街の道や橋にも、平和で安泰な暮らしを切望した先人たちの思いやご苦労がいっぱい詰まっている・・・。歴史を知れば、普段は気付かないそんな大切なことがひしひしと伝わってくる。
 
「元ばんざい橋碑」が
写る昭和初期の写真
網敷天神社に運ばれた本物の万歳橋
*次回は、近代日本の文化を担った偉人ゆかりの地、西区の予定でしたが、取材の都合により
「守口市を歩き、江戸川乱歩邸跡から文禄堤をたどります」に変更になりました。どうぞお楽しみに!! ]
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
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