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第二十九話
大阪城公園にあったアジア最大の軍事工場
「大阪砲兵工廠」の足跡をたどる
 
 
文/写真:池永美佐子
大阪城公園と聞けば一番に何をイメージしますか? やっぱり天空に雄姿を見せる大阪城? 太閤秀吉? それとも緑あふれる市民の森? いや、富士通ファミリ会の皆さんなら超高層ビルが林立する大阪ビジネスパークでしょうか・・・いずれにしても華やいだ、光の当たる場所や事象だけど、明治、大正、昭和にかけてここにあったアジア最大の軍事工場を挙げる方はほとんどいないのでは?
8月15日は終戦記念日。太平洋戦争が終わって今年で64年目という。「平和の意味を考えるきっかけに」という大阪案内人の西俣稔さんのすすめで、かつて大阪城公園にあったという大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)の足跡をたどった。
 
●大阪市民によって建立された大阪城天守閣
まち歩きの師匠とは大阪城の大手門で待ち合わせ。多聞櫓をくぐり抜け、左手にそびえる天守閣の前を素通りして東の玉造口へ向かう。
「この天守閣はだれがつくったのが知ってます?」と早速、師匠の質問から。
「もちろん! 秀吉・・・と言いたいけど大阪市民ですよね。このコラムが始まったときに教えてくれはったやないですか」。
ちょっとがっかりした師匠に代わって私が解説。つまり秀吉が築城した最初のお城は大坂の役で元和元年 (1615)に焼失した後、松平忠明が寛永3年 (1626)年に再建したけど落雷で消失。その後、ずっとなかったのだけど、やっぱり大阪城のない大阪は大阪じゃないということで市民の寄付によって再建されたのでしたよね。
「ちなみに新しい天守閣が再建されたのは昭和6年(1931)です」。意外に新しいのだ。
 
大阪城天守閣
●6万4千人が働いていた、アジア最大の軍事工場
本丸を出て東外濠を越えると市民の森に出る。
「東洋最大といわれる軍事工場はこの場所にあったんです。大阪の人たちに「砲兵工廠」と呼ばれたその工場は、明治3年、明治政府による富国強兵政策のもとで陸軍の発足とともに「造兵司」からスタートしました。これに関わったのが、適塾出身者の一人、大村益次郎です。益次郎は軍隊の近代化を図ったために軍の旧体制の人に反感を買って足を切られるんですね。その後、この一帯は、日清日露戦争から第一次大戦、第二次大戦に至るまでどんどん軍拡を重ねていくんです。この地図を見てください」。
手渡された「大阪陸軍造兵廠全図」を見ると、大阪城の外濠の北東側に「旋工場」「鍛工場」「製銅場」「製鋼所」「弾工場」「研究所工場」・・・物々しい名前のついた大小さまざまの軍事工場や倉庫がぎっしりと建ち並んでいる。その数ざっと200!
現在の場所でいえば市民の森、記念樹の森、野球場、大阪城ホールから北側にある大阪ビジネスパーク、東側は環状線をまたいでJR西日本 森ノ宮電車区、大阪市交通局 森之宮検車場のあるエリアまで広がっている。
「敷地は36万u。そこに約6万4千もの人が働いていたんです。ここでは爆弾や戦車、大砲とか、もっとすごいのは風船爆弾まで作っていた。でも、この風船爆弾は太平洋を通過してアメリカ大陸まで行ったもののアメリカが広すぎて何の実績もなかったという話です。そんな工場が、終戦の前日、昭和20年の8月14日にアメリカ軍による161機のB29が飛来してほとんど潰されたんです。日本政府にトドメを刺すために」。
大阪は3月13日の大阪大空襲以来、合計8回も空襲に遭っている。
「蛸壺といわれた一人しか入れない防空壕に逃げ込んで助かったある男性工員の証言が残っています。「大阪砲兵工廠の八月十四日」という本です。15歳ぐらいの青年の気持ちが切々と書かれて・・・著者の小山仁示氏はこう記しているんです。明けて翌日になったら戦争が終わって助かったのに、たった1日のことで命を落とした人たちのことを考えると胸が締めつけられて涙が出てくる・・・と」。
感情移入して絶句する師匠。
若者グループや家族連れでにぎわうのどかな公園からは想像できない光景だ。
8月14日の大空襲は「京橋空襲」とも呼ばれる。
「その日は砲兵工廠のほかJR京橋駅にも1トン爆弾が落とされ、地平上の現環状線ホームのガード下に避難していた乗客らが爆弾の直撃を受けたんです。この空襲での犠牲者は、身元の判明している人だけでも2百数十名、砲兵工廠の犠牲者と合わせると千人を超えたといわれます。JR京橋駅南口には京橋空襲被害者の慰霊碑があって、毎年8月14日に慰霊祭をやっています。ぜひ、一度訪ねてください」。
「市民の森」に続く
広葉樹のトンネル
 
 
●森ノ宮〜京橋間だけ平地を走るJR環状線のナゾ
市民の森から大阪城ホールへと向かう道中、師匠が立ち止まった。
「ほら右手に環状線が走っている・・・この位置非常に大事です。何か気付きません?」 そういえば環状線って普通高架になっているのに、ここでは平地を走っている。ちょっと変な感じが・・・。
「なかなかいいとこ、見ています。そしたら何で地べたを走っているの?」
う〜ん、そこまでは・・・
「環状線は当時の城東線と呼ばれたんです。そして昭和7年、高さ10mの高架になるねんけど、森ノ宮から京橋の間だけまた下げられたんですわ。何でか。それは軍事工場の中を覗かれないようにするためです。スパイや一般人に覗かれないようにするために。この区間だけ高いコンクリート塀で覆い隠されていたんですね。だから地べたを走っている。つまりこの場所は、砲兵工廠の名残でもあるんです」
こんな形で戦争遺跡が残っているとは!
 
平地を走る環状線
●ひっそりと真実を告げる「大阪砲兵工廠跡」の碑
大阪城ホールと手前の野球場とを隔てる道の脇の茂みに「大阪砲兵工廠跡」と刻まれた大きな石の記念碑が置かれている。
「大阪城ホールの場所には「砲兵工廠本館」があったんです。この建物はレンガ造りのシャレた洋館で、爆撃は免れたんですけど、戦後、保存を求める市民の強い運動が起こる中で大阪市は昭和56年(1981)、話し合いに入る前に一気に取り壊してしまったんです。反対運動が始まると話し合いが長引くというのが理由ですわ。これにはさすがの文化庁も大阪市のやることは無茶苦茶やと怒ったそうです。もし残っていれば、森ノ宮駅近くの公園入口に建っている「ピースおおさか(大阪国際平和センター)」もここに入っていたんやないかと思います」。
砲兵工廠本館は、明治時代に造られ、正面ポーチにギリシャ神殿風の円柱を持つ風格ある建物だったらしい。
碑は、砲兵工廠に勤務していたOBらの会「廠友会」によってその跡地に建立されたが、昭和58年(1983)年、大阪城ホールの完成に伴い、この場所に移されたという。
花こう岩の碑はかなり大きい。でも、石にもたれかかって一休みしていく人たちはあっても、「砲兵工廠跡」の文字に気を止めることなく通り過ぎて行くのが、ちょっと悲しい。
 
大阪「砲兵工廠」の碑
 
●アパッチ族の闘い
大阪城ホールの北側には大きな川が流れている。大阪城新橋を渡ると大阪ビジネスパークだ。師匠の解説。
「第二寝屋川です。寝屋川は2つあって、大阪ビジネスパークの北に流れている川が本来の寝屋川です。この辺りは低湿地で大洪水が起こると水はけが悪いので、水害対策として昭和29年(1954)に開削されました。2つの寝屋川はここから500mほど西のところで合流して、さらに淀川につながっています」。
ここからもう1本、川の上流(東)にある弁天橋まで歩いて北岸に渡る。
「この辺りは終戦後不発弾が多く危険だという理由で放置され、約20年間は更地のままとなっていたんです。そこに生活に困窮した在日コリアンの人たちが住み始め、工場跡に残った鉄くずを不法に回収して生活の糧にしていたんです」。
梁石日(ヤンソギル)の小説「夜を賭けて」や開高健の小説「日本三文オペラ」の舞台として映画にもなったところだ。「夜を賭けて」は私も読んだことがある。登場人物のパワーと物語の展開の面白さに圧倒されて一気に読み終えた。
「彼らはアパッチ族と呼ばれて、これを追う警官との間で壮絶な攻防戦を繰り広げていました。昭和31年(1956)には警察の弾圧で6人が射殺されているんです。けど、一方ではその鉄くずを先に持ち出した陸軍幹部もいて、こっちは裁判で無罪になったているんですよ。戦後の動乱の日本に暮らすコリアンたちが、生きるために闘った場所です」。
●いまも残る貴重な戦争遺跡
ここからUターンして第二寝屋川の北岸を西へ。大阪城新橋と新鴫野橋のちょうど中間地点から対岸を見ると、草木が生い茂った石造りの門がひっそりと口を開けている。 「あのアーチ型の門は、明治5、6年ごろに作られたもので、軍事物資を船で運ぶために積荷する門やったんです」。
今は全く使われていないという水門。後方にそびえ立つ天守閣とあいまって情緒あふれる美しい景観をつくっているけど、そんな歴史を知れば悲しげに写る。
かつての大阪城の表門である京橋口の少し手前に、重厚な赤レンガの洋館が見えてきた。
「これは大正7年(1918)に作られた大阪砲兵工廠の化学試験場です。ここで爆弾を作る化学実験をやっていたんですね。第二次世界大戦後、大阪大学が管理していて、昭和39年(1964)から平成10年(1998)まで自衛隊大阪地方連絡部として利用されていたんですけど、その後は使われていないようです」。
ネオルネサンス様式の建物は地上2階、地下1階。よく見ると建物はツタに覆われレンガははがれ落ちて廃墟化している。このまま朽ち果てる前に戦争遺跡として保存できないのだろうか。取り崩された砲兵工廠本館の二の舞にはならないようにと願うばかりだ。 さらに、この化学試験場のすぐ近くに「守衛室と便所」も残っている。
「その後ろにあるレンガ塀を見てほしいんです。上のほうに穴が開いているでしょ。これは敵を銃撃するための銃口ですわ。作られたのは第二次大戦ではなくて、明治の初めの日清日露戦争のときやろうね。こんな銃口でB29の爆撃に対抗できるわけはない」。
いずれにせよ、なまなましい戦争遺跡だ。
 
大阪城新橋から
弁天橋を臨む
砲兵工廠石造アーチ荷揚門
今も残る「化学試験場」の
建物
守衛室と便所。
後ろに銃口のある塀が
●街中に散らばる大阪砲兵工廠の名残
大阪城を後にした師匠が、京橋口の道路向かいにある追手門学院小学校を指して解説する。
「ここは陸軍の士官学校やったんです。1910年に朝鮮半島の支配が始まりましたけど、皇民化政策で最後の李王朝のお孫さんもここで学んでいたんです」。
さらに、再び砲兵工廠の地図を取り出して話す師匠。
「よく見てください。軍事工場だけでなくて関連施設がいっぱいあるでしょ。まず、病院です。大手前病院の前身は陸軍の病院ですし、府庁の南のNHKの近くには被服省があって軍服の製造や保管をしていました。谷町に服屋さんが多いのもその名残です」。
 
 
大阪城に軍事工場があったことは聞いてはいたけど、今回西俣さんの解説を聞きながら歩いてみて初めてそれが実在したことをリアルに感じた。大阪城公園では、この日も、そんなことなど知る由もない若者たちが無邪気に路上ライブやダンスに興じていた・・・。
次世代を担う彼らに正しい歴史をきちんと伝えなければ。
「私がまち案内をしているのは、平和と人権を守るため。砲兵工廠のことを語り継ぐことが、せめてもの私にできる被害者への弔い」という師匠の言葉が、ずしりと心に響く。
 
※次号は関目〜京橋の周辺を歩きます。
 
追手門学院小学校
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ユニークな大阪ガイドを引き受けている。
これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
 
サソ