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第二十四話

第二十五話
伊丹のまちの旦那衆は、なぜ俳句がお好き?
〜酒造りのまち、伊丹を歩く〜
 
 
文/写真:池永美佐子
知られざる桜の歴史に魅かれて、向かった伊丹。街を歩いていると、そのほかにも知らなかったネタがいっぱい。たとえば、清酒発祥の地といわれる伊丹だけど、いつ、誰が、どのようにして酒造りを行ったのか? また、市内のいたる所に句碑や歌碑が点在しているわけは? などなど。
今回は前回に引き続き、荒西完治さんの案内で伊丹のまちを歩いた。
 
●近衛家の家紋が市章になっている伊丹市
「これは何か分かりますか?」
瑞ケ池(ずがいけ)公園で「ワシントンの里帰りの桜の木」を感慨深く眺めていたら、荒西さんが書類封筒から1枚の紙を取り出して問いかけてきた。
紙には丸の中に電話の受話器が背中合わせに2つ並んでいる・・・
「さぁ?? 公衆電話のマーク? それとも蟹の甲羅みたいだからカニ料理屋のマークとか」。
「いえいえ、答えは伊丹市の市章なんです。多くの市では市名を装飾してデザイン化した市章が使われる中で、わが伊丹市の市章は1940年の市制施行のとき、近衛家の許しを得て近衛家ゆかりの合印紋(ごういんもん)を採用したんです」と荒西さん。
へぇ〜! 市章が家紋なんて。それにしてもさすが市職員、市のPRバッチリですね〜!
「藤原家一統の公家である近衛家は、近衛家、鷹司(たかつかさ)、一条、二条、九条の五摂家の筆頭公家として、京都・宇治に所領がありましたが、荒木村重に代わって1661年に伊丹の領主になり、それが明治維新まで続きました。今の時代にその家紋(合印紋)が伊丹の市章に採用されたのは、近衛家が酒造りの産業を手厚く庇護したからです」。
西宮や灘と並んで酒の街として有名な伊丹。戦国城下町として栄えた後、伊丹の街が酒造で経済発展したことは知られている。
「西宮や灘が酒造の中心地になるのは、もっと後です。江戸積み酒造業は伊丹で始まりました。当時の酒は、どぶろくといわれる濁り酒でしたが、伊丹で生れた諸白(もろはく)と呼ばれる酒は澄んだ上質酒の代名詞となって将軍家の御前酒になりました。上方から江戸に送られた酒は、下り酒とよばれて、江戸では大変珍重されました。ちなみに、つまらないことを「下らない」と言うでしょう。これは「下りもの」、つまりすばらしいものに対する反対の言葉でもあるんです」。
ほおっ! そんな語源があったとは!
 
このマークは?
●澄み酒が生れたのは偶然か、計算か? 清酒発祥の真相はいかに?
瑞ケ池を後に荒西さんの運転する車は、西北にある鴻池へ。閑静な住宅地のこの辺りは、江戸初期にわが国で始めて澄み酒が造られた、清酒発祥の地といわれる。
その一角に「清酒発祥の地」碑がある。
「鴻池は酒造業で財を成した近世の富豪、鴻池善右衛門の出身地で、その始祖は山中新六(幸元)といわれています。善右衛門は、後の鴻池財閥につながる大阪・今橋の鴻池家の初代当主で、現在の東大阪市鴻池新田の開発も手がけました」。
「幸元は毛利氏と覇を争った悲劇の戦国武将、尼子家につかえた山中鹿之介の子で、元亀元年(1570)に、出雲地方で生まれたんですが、幼いときに大叔父の山中直信に養われ、この鴻池村で成長したんです」。矢継ぎ早に荒西さんの解説が続く。
 「叔父の山中直信は、有岡城主、荒木村重の家臣で、濁り酒造りを生業としていました。城主の荒木村重はもともと織田信長の家臣でしたから、ポルトガルの宣教師たちが献上したワインがあり、それが中山直信のところにも流れることがあったでしょう。新六は、濁り酒だけでなくワインにも出会ってどんどん酒への興味を募らせていったと思われます。さらに奈良吉野地方で途絶えた僧坊酒とか興福寺で醸造していた奈良酒なんかの醸造方法も学んで精力的に研究開発を行い、今日の清酒の三段仕込みや火入れなどの保存技術を完成させました。澄み酒の技術は、郷里の出雲地方の木炭を入れて酒を造る伝統の技術にヒントを得たともいわれます」。
清酒が生れたいきさつについて、一説では、店のお嬢さんに思いを寄せていた番頭さんが、お嬢さんに振られた腹いせに火鉢の灰を酒桶に投げ込んだところ、翌日には酒桶には澄み切った清酒が生まれたという話もありますが・・・
「いろんな説があるようですね。摂陽落穂集では店の使用人が、主人に叱られた腹いせで灰を入れたと記されています。当時そんな技術は画期的で、木炭を投入する時間や量なども相当研究したはずです。それだけにこうしたデータはのちに鴻池家の秘伝になって、そんなブランドストーリーが作られたのではないかと私は推測しているんです」。
このすぐ近くにある児童公園の中に「鴻池稲荷祠碑」がある。亀の形をした台に、中国古代紙幣の形をした碑が乗ったこの祠碑には、鴻池家の歴史が詳しく記されている。ちなみに碑文は、大阪きっての儒学者、懐徳堂に縁のある中井履軒の文章で、建立されたのは寛政12年(1800)ごろといわれる。
鴻池にある
「清酒発祥の地」碑
(提供=荒西完治)
 
 
 
「鴻池稲荷祠碑」
(提供=荒西完治)
●全国から文人墨客が訪れた「お金持ちの隠れ里」
荒西さんの車は、南下して市内の中心部へ。
JR伊丹駅と阪急伊丹駅に挟まれたこの一円は、江戸時代、「伊丹郷町」と呼ばれた中心地。最盛期には200以上の銘柄があり80軒以上の酒蔵が並んでいたといわれるが、現在市内には「白雪」「老松」「大手柄」の3軒の酒造会社を残すのみ。しかし、いまも黒瓦や白壁の酒蔵や酒造家の残る古い街並みが大切に保存、整備されている。
車を降りて歩いてみた。
「みやのまえ文化の郷(さと)」は、そんな町並みとともに、かつての酒造家の住宅や市立美術館、工芸センターなどが合わさって伊丹の歴史と文化を伝えている。
その一角、堂々たる風格で門を構えるのは、延宝2年(1674)に建てられた旧岡田家酒蔵とその住宅だ。現存するものでは日本最古の酒蔵で国指定重要文化財。館内には当時のかまどが修理保存され、再現された帳場と合わせて展示されている。
ここで荒西さんの解説。
「酒造が全盛期だった元禄時代(1688〜1703)、伊丹では、和歌や俳諧や連歌などの伊丹文化が花開きました。当時、商いで潤った旦那衆が行くところといえば遊女のいる曽根崎や島原。しかし、伊丹は酒が旨い。酒造家同士の付き合いもある。公家の近衛家が仕切っていたせいもあるのでしょう。旦那衆は、京都や大坂に遊びに行くよりも、そこから一流の師匠を呼び寄せて仲間と一緒に文芸やお茶、蹴鞠を楽しむほうを選んだのです」。
京からやってきた池田宗旦が開いた「也雲軒(やうんけん)」と呼ばれるサロンには、全国各地から俳人たちをはじめ文人墨客がぞくぞくと集まったという。
「西山宗因や井原西鶴は、その中でもスター的な存在です。西鶴はのちに「津の国の隠れ里」という題で、伊丹の酒屋の父子を舞台にした作品を残していますが、隠れ里とは、金持ちの隠れ潜んでいるところという意味です」。
酒蔵の残る町並み
 
旧岡田家住宅
●頼山陽が食した1個の柿から始まる「柿衞文庫」
みやのまえ文化の郷にある「(財)柿衞(かきもり)文庫」は、岡田家の第二十二代目当主であった故・岡田利兵衞さんが集めた俳諧資料を統計的に整理し、展示保管している資料館だ。東大図書館の「洒竹・竹冷(しゃちく・ちくれい)文庫」、天理大図書館の「綿屋文庫」と並ぶ日本三大俳諧コレクションの1つに数えられる。
柿衞文庫の前に広がる枯山水の日本庭園を歩いていた荒西さんが、1本の木の前で立ち止まった。
「この木は柿の木ですが、柿衞の「衞」は、衞(まも)るとも読む。つまりこの柿の木を守るというところから付けられた名前なんです」。
資料館の名前の由来となった柿について、荒西さんの話が続く。
「儒学者の頼山陽(らいさんよう)、教科書にも登場する人物で幕末の勤王思想に大きな影響を与えた人物です、その頼山陽も伊丹の酒に惹かれてしばしば伊丹を訪れました。そして文政12年(1829)10月22日、剣菱の醸造元、坂上桐陰の家で酒宴が催された際にデザートとして出されたのが、岡田家にある台柿(だいがき)でした。当時は冷蔵庫もなくおそらく酔い醒ましに冷たくてシャーベットのように美味しかったんでしょう。山陽はこの柿を絶賛し、もう一つと所望したそうですが、岡田家に一本あるだけの柿なのであきらめてほしいと言われ、その心境を漢詩に残しました。この木は、その柿の二代目です」。
3本ある柿の木のうち真ん中の1本が柿衞文庫の名前の由来となった台柿の2世で、他の2本は、それから接ぎ木した3世とか。そもそも「柿衞」というのは、岡田利兵衞さんの雅号でもある。
館内には、頼山陽が詠んだ漢詩と、その詩に添えて画家、田能村竹田が描いた柿の絵による「柿記」が保管されている。
頼山陽が食した
台柿の子孫の木
(提供=荒西完治)
●「東の芭蕉、西の鬼貫」と称された俳句界のスーパースター、上島鬼貫
「にょっぽりと秋の空なる富士の山」
みやのまえ文化の郷から2ブロック南、三井住友銀行の前に、こんな句が刻まれた、おむすび形の歌碑がある。
「これは上島鬼貫(おにつら)の句です。ここは鬼貫の生家のあった場所です」。
す、すみません、オニツラさんって誰ですか? 恥ずかしながら始めて耳にする名前で・・・
「伊丹出身の俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫と並んで称された人物です。伊丹の酒造家の三男として生れた鬼貫は、わずか8歳で「こいこいといへど蛍がとんでゆく」という句を詠みました。風流遊びの域を出ない伊丹風の俳諧に飽き足らず、25歳にして、ありのままの心を尊ぶ、という独自の思想を作り上げたんですが、彼のことは、私よりも専門家に話してもらいましょう」。
というわけで、柿衞文庫の館長で学芸員の今井美紀さんに話を聞くことに。
「若くして才能を見出された鬼貫は、西鶴の師の宗因にも将来を嘱望されるほどの才能の持ち主だったんですけど、俳諧を職とすることを潔(いさぎよ)しとせず、江戸に出て武家修業をして経済官僚をめざすんです。でも、そういうポストは人間の幅がいるし、目をつぶらないといけないこともある。生真面目な鬼貫は、そんな官僚の世界についていけなかったんですね」。
「真山青果が戯曲「俳諧師」で「鬼貫貧困説」というのを打ち出しているんです。生活に困窮した鬼貫は、芭蕉の名で詠んだ偽の句をつくるか、娘を売るかという瀬戸際に立たされたエピソードも伝えられます。でも、彼の情の厚い優しい句を見れば、作り話だとわかるでしょう。「この秋は膝に子のない月見かな」は、鬼貫が7歳で亡くした息子を偲んで詠んだ月見の句です」。
みやのまえ文化の郷より3ブロックほど南にある墨染寺には、鬼貫の句碑とともに7歳で亡くしたという鬼貫父子が仲良く眠る墓がある。
伊丹市では、鬼貫は超有名人。この名を知らない子どもたちはいないという。毎年8月の鬼貫忌には柿衞文庫の主催で小中高生を対象にした俳句のコンテストが行われるが、毎回2万句を超える作品が集まるほど反響があるそうだ。
三井銀行前にある
鬼貫の句碑
鬼貫父子の墓と句碑
(墨染寺)
酒造発展の中で旦那衆によって花開いた伊丹文化。天保期以降、江戸積み酒造業の中心地は伊丹から西宮や灘へと移っていったが、伊丹酒で培われた文化は、いまもなお伊丹のまちにしっかりと息づいている。
ワシントンの桜のルーツを求めて出発した伊丹のまち歩きは、清酒のルーツへとつながり、俳諧文化でゴール・・・。春にふさわしく、なんとも粋で風雅なコースだが、歩き疲れた心と体をほぐすのはやっぱり美味しい「この一献」のようで!
 
*次号は大阪市平野区を歩きます。
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:荒西完治さん
伊丹市職員。 生れも育ちも伊丹市。 「団塊の世代」昭和23年生まれ。
わが町伊丹を国内外に紹介するため、日・英語版のホームページを開設。
伊丹にちなんだ様々な話題を通じて「一期一会」の出会いを大切にしている。
今も休日はボーイスカウト活動に没頭中。
 
 
 
サソ