FUJITSU ファミリ会 関西支部FUJITSUファミリ会関西支部

連載開始にあたり ―――
  平成19年4月からWEB連載「ガイドブックにのっていない"関西歴史散歩"」を開始致します。
  ガイドブックや教科書では紹介されない関西の歴史を「大阪案内人」・西俣稔氏もしくは、写真家・田辺聖浩氏のご案内により、ライターの池永美佐子氏が実際に、現地を歩いて歴史解説を致します。
  関西の知られざる歴史のエピソードや地元の雑学ネタを盛り込みながら、楽しく気軽なエッセイとしてお読み頂ける連載をめざします。
  更新は、毎月月初めに行い、平成20年3月までの1年間に12話の掲載を実施致します。
  ふらりと関西の歴史を散歩気分で、気の向くままにご案内致します。いつ、どこをご紹介するかは、毎回のお楽しみです。乞ご期待下さい。
 
ファミリ会関西支部事務局
遣唐使も出航した大阪の海の玄関口
「伝法」を訪ねて
 
 
文:池永美佐子
わたしたちにとって最も身近な郷土の歴史。でも、どこまで「知って」いるだろうか。
たとえば大阪城天守閣は、いつ、だれが作ったか。「もちろん、戦国の時代に豊臣秀吉が作ったお城で…」と大半の人は答えるだろう。
しかし、これだけでは不充分だ。実は、今の天守閣は1931年に市民の寄付によって再建されたものなのに、それはほとんど周知 されていない。知っていればもっと大阪城が身近なものになるだろう。
 気付かせてくれたのは、ボランティアで大阪を案内している「大阪案内人」の西俣稔さん。
「日本史のテキストやガイド書に書いてあることだけが歴史の勉強やない。現代につながる歴史を知り、先人に学ぶことこそ 大事なんや」。なーるほど! というわけで西俣さんの案内で、知られざる、生きた歴史をたどってみよう。
 
●尼崎から天満へと続く大坂街道を歩く
 水の都と称される大阪。かつては堀川が縦横に流れ、八百八橋のまちと言われた。
「その水は淀川をたどって大阪湾に流れ込むわけだけど、江戸時代まで海の玄関口だったのはどこか知っている?」。
のっけから西俣さんの質問が始まった。そして連られたのが、此花区にある伝法(でんぽう)の漁港だ。
 最寄駅の「伝法」は、西九条から阪神西大阪線で3つ目。南西にはユニバーサルスタジオジャパンがあるが、伝法周辺は住宅や工場が建ち並ぶ。観光客はまず降り立つことのない駅だ。
 駅を出て東西に伸びる細い道は、かつて「大坂道」と呼ばれた由緒ある街道。
西は尼崎、 東は天満宮につながっていて、江戸時代には参勤交代の大名行列が通ったという。
街道を 西に進み、途中で淀川の土手に上がって川沿いにさらに西に行くと漁港だ。
この辺りは1951年に防潮堤工事のため埋め立てられたが、西俣さんからもらった江戸時代の地図によると、「伝法川」が流れていて漁港はその河口になっている。
多くの寺院や神社が連なる
大坂道
 
 かすかに漂う磯の香りがなければ、通り過ぎてしまいそうな、ひっそりとした漁港。
「古来ここは、難波八十島<なんばやそじま>として風光明媚な場所で、ここから遣唐使、遣随使が出たんですよ。
海運の要の港として栄え、江戸時代には酒を江戸へ運ぶ樽回船や菱垣回船が出港していたんやね」という西俣さんの言葉に、何だか胸がじーんと熱くなる。
 河口の名残を残す入江に漁を終えて戻ってきた船が入ってきた。港には30艘ほどの漁船が停泊している。
ここは大阪市漁業協同組合の此花支部でも。漁師さんに尋ねると「高齢化しているけど、みんな現役でがんばってまっせ。今の季節ならシジミ、シラウオ、スズキ、チヌなどが獲れるよ」と。
浜にはたった一軒「克政」という「安くてめちゃうま」(西俣さん)のフグ料理店がある。
夜には遠方から食通がザクザク集まって来る。
伝法漁港。かつての伝法川の 河口の入江に、漁船が出入り する
●大阪市の市章、元祖「みおつくし」のある神社
 伝法が海運の要所として栄えた証拠に、漁港近くの大坂道沿いには、海にまつわる神社や寺院が残っている。
 伝法駅の東側にある「澪漂住吉神社」<みおつくしすみよし>もその一つ。
延暦23年(804年)に遣唐使一行の今後の長い航海の安全と無事を祈る住民たちが、島の一角に祭壇を設け、住吉大神をお祭したという。
住吉大神は、神道で最も重要な行事である「お祓い」を司る神である。
この祭壇跡に祠を建て、一行の帰路を迎えるのに便利なように「みおつくし」 を建てたのが始まりだという。
大阪市の市章としても知られる澪漂。もともと「澪の串」 という意味で、澪は水の流れや潮の流れ、串は目標を表す。
明治27年に大阪市会で「大阪の商業府たる根拠は港にあり」との理由で市章に決まった。
いまも、この神社は、海上全般を司るほか、陸空路や人生行路の守り神として、旅行者や受験生などがお参りに訪れる。
境内には、大きな澪標が立っている。
澪標住吉神社の本殿。
海神である「住吉大神」を祀る
 
●「伝法」の地名のルーツに迫る
ところで、「伝法」って変わった名前だけど、どんな意味が…?
「ええ質問やなあ」と、西俣さんに初めて誉められた。
「法とは仏法。つまり仏教伝来の地 なんですよ。
港町には花街がつきものなのに、ここにはない。これも仏教伝来の地である 所以ではないかと地の人は言うたはります」。 これまた、聞き捨てならない話。
仏教伝来には、いくつかの説があるが、伝法駅の西方にある「西念寺」は、インドから水神の案内により中国を経由して渡来した法道仙人が、大化元年(645年)に、わが国最初の民伝仏教寺院として開創されたという由緒のある寺院だ。
平安時代には唐に留学した空海が、中興し真言密教の根本道場を建立して鎌倉末期まで真言宗として栄えたという。
後世には、西念寺、長谷寺、根来寺を三兄弟と称した時代もあったらしい。
南北朝時代には、浄土宗となり、その後も四宗兼学<ししゅうけんがく>(天台、真言、禅、浄土)の寺院として発展した。
 江戸時代の初めには国際、国内の水運の物流拠点として、村には造り酒屋や油問屋、みりん問屋などが軒を連ねたという。
巨大な「みおつくし」が掲げられた澪標住吉神社。 大阪市章のルーツ
当時、西念寺は、寺領4万坪を有する大きな寺院で、船待ちの人たちで賑わったようだ。
また、幕府から十万石の格式を賜る「大名寺」として、定紋(梅鉢紋)入り、供侍付き、乗用駕篭使用が許されたという記録も残っている。
でも、それほどまでに栄えた寺や港が、今はどうして? ・・・そんな素朴な疑問に対して西俣さんはこう解説する。
「明治元年の廃仏毀釈令<はいぶつきしゃくれい>による廃仏運動をまともに受けたんやね。
伝法川が寂れたのは、1684年に川の南側に安治川が開削され、水運のルートが変わったから。
また1910年の新淀川の開削で伝法北側の福村などが水没し、さらに1950年のジェーン台風で伝法川は水害の原因になるからと埋め立てられてしまったんや」。
「仏教伝来の寺」と伝えられる 西念寺
知らなかった、では、あまりに勿体ない「民の歴史」。
これからも足で歩いて、この目と耳で探ってみたい。
 
 
[次回は、大阪の中之島界隈を歩きます。]
 
 
 
 
西念寺の前にある「大坂道」の道標。参勤交代の大名行列もここを通った
 
プロフィール
●文/フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
●案内人/西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
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サソ