FUJITSU ファミリ会 関西支部関西支部FUJITSUファミリ会  
関西支部トップ > WEB連載>第一話>第二話>第三話>第四話>第五話>第六話>第七話>第八話
  >第九話>第十話>第十一話>第十二話>第十三話>第十四話>第十五話>
第十六話>第十七話>第十八話>第十九話 >第二十話 >第二十一話 >第二十二話 >第二十三話
第二十四話 >第二十五話 >第二十六話 >第二十七話
第二十八話
町人文化と大坂商人の心意気が色濃く残るまち、平野 (その2)
 
 
 
文/写真:池永美佐子
大阪市内のなかでも、もっとも早く開けた町、平野。戦国時代には町人たちが築いた環濠で自衛し、自治都市として発展。江戸時代には財を貯えた商人たちによって町のなかに連歌や茶道、能楽が普及し、全国に先駆けて町人私塾が登場した。
そんな町人パワーに満ちた平野の町を、前号に続いて大阪案内人、西俣稔さんのガイドで回った。
 
●不法侵入者や伝染病から町の人を守ったお地蔵さん
町人私塾「含翠堂(がんすいどう)」の碑がある宮前東交差点からUターして西へ。再び杭全神社の大鳥居を右手に見ながら、かつての奈良街道である国道25号線沿いに大念仏寺(だいねんぶつじ)へと向かう。
道すがら山門の手前にある地蔵堂の前で西俣師匠が足を止めた。傍らに「馬場口地蔵」の碑が立っている。
「環濠都市であった平野郷には、この奈良街道のほかにも高野街道とか大和道とかたくさんの街道が放射状に伸びていたんです。そして、そんな街道を結ぶ出入口には、木戸があってよそ者をチェックする門番やお地蔵さんが置かれていた。木戸口は13カ所あって、この馬場口は大坂方面から続く奈良街道の入口やったんですね。お地蔵さんを祀ったのは、不審者だけでなく伝染病の侵入を防ぐという意味合いもあったようです」。
何百年も町の人たちの手によって大切にされてきたお地蔵さん。地蔵堂は何度も建替えられたのだろうけど、今ある祠(ほこら)の立派なこと! ガラスの入った格子の扉から 覗くと、中はきれいに整えられた3畳ほどの板間で人が住めそうな空間だ。奥に赤い頭巾を被ったお地蔵さんが穏やかなお顔で鎮座されている。
平野郷には、このほか数箇所に地蔵堂さんが残っている。馬場口地蔵のすぐ東の道辻には「泥堂口地蔵」が祀られている。
 
馬場口地蔵
泥堂口地蔵
●日本最初の念仏道場、大念沸寺
山門をくぐって大念沸寺の境内に入ると、広々とした空間に美しい曲線をもつ銅板葺きの大屋根の木造本堂が現れた。大念仏寺は、融通念仏宗総本山で日本最初の念仏道場として知られる。
「大念沸寺は比叡山の良忍聖人が大治2年(1127)に開いたと言われます。声がよくて念仏が遠くまで響き渡るのでものすごく信者が増えたという話もあります。本堂は大坂夏の陣で焼失した後、30年後に再建され、さらに明治31年(1898)にも火事で焼けて無くなったんですけど、昭和13年(1938)にこの本堂が建てられました」。
それにしても大きなお寺。大阪市内にこんな巨大なお寺があるなんて! 約7300坪あるという敷地には本堂のほか30余りの諸堂が建っている。師匠の話が続く。
「注目したいのは本堂の大きさです。東西約50m、南北約40m、高さは約23m、寺院の木造建築としては府下最大です。ところが平成になってこの本殿よりも高いマンションが建った。それで町の人たちがこの本堂よりも高い建物は建てられないようにと行政に働きかけて、高さ規定の条例ができたんです。まさに町を愛する人たちの力です」。
本堂は平成15年(2003)に国の登録有形文化財指定になっている。
大念沸寺は、毎年5月1日から5日に行われる「万部おねり」でも有名。来迎の世界を体現して菩薩の格好をした25人の僧が極楽浄土に見立てた本堂を練り歩くさまは荘厳だ。大阪市の無形民俗文化財に指定され、多くの参詣客でにぎわう。
また、このお寺では、幽霊が残していったという言い伝えのある「亡女の片袖」を収蔵し、身の毛もよだつさまざまな幽霊の掛軸とともに「幽霊博物館」として毎年8月第4日曜日に開館している。以前に私も見たことがあるけど、思い出すだけでも背筋がぞ〜っと・・・。今年は8月23日に公開される。
大念仏寺
 
 
●商都大阪の町づくりの礎を築いた七名家の人たち
大念沸寺を出て、民家が軒を連ねるお寺の前の平野上町を歩く。大戦の戦火を免れたこの町には、江戸時代に完成した碁盤目の町割りがそのまま残っている。
「ここが七名家(しちみょうけ)の一つ、末吉家の子孫の方のお宅ですわ」。
大きなお屋敷の前で師匠が立ち止まった。見れば確かにその名前の表札が・・・。
前回からたびたび出てくる七名家。平野を開拓した坂上広野麿呂(さかのうえのひろのまろ)の子孫で、戦国時代には環濠都市としての機能を固めつつ、江戸時代には町人学舎の含翠堂を作ったり、明治時代には平野紡績をつくったりと町づくりに貢献した一族だ。ちなみにその姓は、黒瀬(井上)、末吉、成安、三上、土橋、西村、辻葩(つじはな)の各家。
「こちらのお宅のご先祖の末吉勘兵衛利方さんは、秀吉の許可をもらってアジアとの朱印船貿易で財を成した人です。ちなみに東横堀川にかかる「末吉橋」も末吉家の屋敷があったから付けられた名前。ミナミの「道頓堀」は、一族の成安道頓が開削した堀川ですわ。そもそも中央区にある平野町は、秀吉が七名家をはじめとする平野の商人を本町界隈に移住させて作った町なんです」。
次々と明かされる事実! この平野から出た商人たちが、商都大阪の町づくりの礎を築いたことに感銘を受ける。
七名家が残る町並み
●人々の記憶の中で走り続けるチンチン電車
「次は南海平野駅に行きます」。あれれ? 南海電車? 平野に南海なんかあるんかい? 
・・・なんて寒〜いダジャレは心に封印して師匠について歩く。大念仏寺より一本東にある筋を南へ進むと、商店街の通りを越えたところに小さな駅舎風の広場が見えてきた。 「ここが南海平野駅ですわ」。
といってもそこには電車はなく、信号機と地面にタイルで描かれた線路と枕木が・・・。
「29年前まで通天閣の南からここまでチンチン電車が走っていて、ここに八角形の平野駅と構内線路があったんです。ところが昭和55年に地下鉄谷町線が八尾南まで延長されてこの電車は廃止になって。それで地元の人たちが八角形の洒落た駅舎を残してくれと嘆願したんですけど、資金の関係で結局は実らなかったんです。後に平野の町づくりを考える会ができて、ようやくこのプロムナードが完成しました」。
「平野の町づくりを考える会」といえば、杭全神社の連歌会を再現した人たちでも。平野を愛する人たちの思いが、町のあちこちに息づいている。
南海平野駅跡地の
プロムナード
 
●おもしろすぎるお寺「全興寺」と「町ぐるみ博物館」
商店街に戻ってアーケードを東へ。この平野本町商店街には、昔ながらのお茶屋さんや平野酒で作った酒饅頭を売る和菓子屋さん、手作り飴を売る飴屋さん、大阪でもっとも古い朝日新聞の販売店などが軒を連ねる。
商店街の中ほど、南北に交差する旧高野街道を左折すると、右手に呉服悉皆(しっかい)店の「まつや」がある。こちらの建物は築約150年。店主の松村長次郎さんは、40数年にわたって平野の風物や行事を映像に取り続け、月1回「平野映像資料館」を開いている。
その一筋東の筋の角にある「福本商店」は、創業300年の和菓子店。風情ある店構えに吸い込まれるように入ると、色とりどりの季節の和菓子と並んで木製の陳列ケースに「亀乃饅頭」なる銘菓が。聞けば大念仏寺ゆかりの秘宝、亀鐘にちなんだお饅頭で創業以来同じ型で焼いているとか。思わず買い求めた。
界隈で師匠のお勧めスポットは全興寺(せんこうじ)。寺伝によれば、今から1300年前、聖徳太子が平野の野中の地に小宇を建立して薬師如来の像を安置されたことに起源する由緒あるお寺というが、境内に入ってびっくり。そこには大坂夏の陣で焼失した後、寛文1年(1661)に再建されたという本堂のほかに、「小さな駄菓子屋さん博物館」や「地獄堂」「ほとけのくに」など遊園地さながらの体験型施設が設けられている。
「小さな駄菓子屋さん博物館」は、昭和20〜30年代の駄菓子屋さんを再現したミニミニ博物館。壁面のケースには400種類以上もの駄菓子のおまけや玩具などがぎっしり。その館内には、昭和どっぷり世代には懐かしい手絞りの電気洗濯機や白黒テレビ、手打ちのパチンコ台などもあって、思わず触ってしまう。
「全興寺のご住職、川口良仁さんは、平野の町づくりを考える会を呼びかけた発起人の中心人物です。この会では、平成5年から平野の全体を博物館にしようと取り組んで、この博物館の他、さっき通った新聞屋さん博物館や幽霊博物館、和菓子屋さん博物館、平野映像資料館とか15館のミニ博物館を開いたんです」。師匠が解説してくれた。
●平野公園にある「樋ノ尻口地蔵」と「赤留比売命神社」
商店街を突ききってバス通りを越えると平野公園に出る。その入口にある交番の横もお地蔵さんの祠が。
「13の木戸口の一つで樋ノ尻口(ひのしりぐち)地蔵です。ここは八尾久宝寺への出入口やったんですね。大坂夏の陣では、平野に一時、陣を置いた徳川家康を打ち落とそうと真田幸村がこの地蔵堂に地雷を仕掛けるんです。それで予測通りに家康がやって来るんやけど、ちょうど厠(かわや)に行っている間に爆発して助かったという話が残っています。また、そのときに吹っ飛んだお地蔵さんの首が、さっきの全興寺の境内に飛び込んだという説もあって、その首が全興寺に収蔵されています」。
公園の西側一帯にこんもり盛り上がった場所は、かつての環濠の土居の名残だ。
すぐ後ろに鳥居がある。神社の前には「杭全神社飛地境内・式内赤留比売(あかるひめ)命神社」と刻まれた大きな石柱が立っている。
「またの名を、三十歩(さんじゅうぶ)神社。境内が三十歩で歩けるから、という説もあります。祭神の赤留比売(あかるひめ)は、朝鮮半島の新羅の女神で夫から逃れて日本にやってきたといわれています」。
師匠によれば、そんな赤留比売を祀る神社は他にもあるという。たとえば大阪市西淀川区にある姫島神社の祭神は、同じ読み方の阿加流比売(あかるひめ)。また、大分県の国東半島沖にある姫島の比売許曽(ひめこそ)社や大阪市東成区にある比売許曽神社にも同じような神話が伝えられている。
「諸説ありますが、私は鉄器をつくる技術をもって新羅から渡ってきた鍛冶職人が西から東へと移動していった証やと推測しているんです」。
 
 
「おもしろすぎる」という形容詞がぴったりの平野。前回歩いたコースを含めてJR平野駅を起点に、さっさと歩けば1時間あまりで回れる狭いエリアだけど、お宝のような史跡や歴史秘話がザクザク出てくる。師匠と一緒に1度歩いただけではもの足りなくて、その後さらに一人で2度も訪れてしまった。先人たちの生きる知恵やご苦労に思いを馳せて町を歩けば、見慣れた街角もいきいきと輝いてみえる。
 
※次号は大阪城公園の周辺を歩きます。
 
小林新聞舗
まつや
福本商店
福本商店の「亀乃饅頭」
小さな駄菓子屋さん
博物館(全興寺)
赤留比売命神社
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ユニークな大阪ガイドを引き受けている。
これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
 
サソ