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第三十一話
第三十二話
文明開化の光と陰。維新前後の堺にタイムトリップ
 
 
文/写真:池永美佐子
今回は大阪市内を離れ、府内2番目の人口をもつ堺市へ。政令指定都市の堺は、戦国時代から明や南蛮との貿易港として栄え、環濠に囲まれた自治都市でもあった。史跡や歴史遺構が数多く残る旧市街地の寺町を、大阪案内人の西俣稔さんの案内で歩いた。
 
●昔は馬車だった堺電気軌道鉄道上町線
「ほな、待ち合わせは天王寺で」。
行先が堺と聞いて、てっきり南海線かJR線に乗るのかと思いきや、西俣師匠が指定したのは近鉄百貨店の西にある阪堺(はんかい)電気軌道鉄道上町線の天王寺駅。地上に敷かれたレールを走る現役のチンチン電車だ。
民家や商店街の通りをすり抜けるように走る1両ばかりのレトロな電車に揺られていると、ますます遠足気分が盛り上がる。
「上町線は明治33年(1900)に開通したんです。当時は大阪馬車鉄道といって、45頭の馬が7両の客車を引っ張っていたらしいですよ」。
へ〜、この大阪の街を馬車が! 1900年といえば、たかが100年前のことなのに。
「開業当時は、東天下茶屋に遊園地ができて天王寺からそこまで走っていたんですけど、その後住吉神社まで延びました。四天王寺さんとか住吉さんとか、当時は神社めぐりをすることが一つの楽しみやったんですね」。
 
阪堺電車
●水路で囲まれた環濠の自治都市、堺
ガタンゴトン・・・電車は我孫子道から大和川を越えて堺市内へ。
乗車して約30分、18駅目の妙国寺で下車。
師匠が手にするのは文久3年(1863)の古地図だ。堺の市街地が碁盤の目のように描かれている。
「今きた阪堺線の軌道は、この地図でいうと中央を南北に縦貫する紀州街道です。まっすぐ進むと紀州、和歌山ですわ。ところで昔は何で和歌山を紀州と言ったか。紀州の紀は木、山林ばかりで木の国やったからです。それが713年、日本も中国と同じように地名は二文字にしろという国のお触れで、「木」に美しい漢字の「紀」を当てて紀州にしたんですね」。
なるほど、いつも聞いている「漢字の二文字化」ですね! 美しい日本語を変幻自在に操って新言を作り出した昔の人の感性。なんてみずみずしいのだろう・・・。
「地図でもう一つ、注目してほしいのは、堺のまちは西の大阪湾のほか他の三方も水路で囲まれた環濠の自治組織やったということです。環濠都市といえば、去年歩いた平野郷とともに、無理難題を持ちかけて町人勢力を抑えようとする織田信長に対抗し、連帯して闘ったという記録が残っています。昔、NHKの大河ドラマでやっていた黄金の日々は、当時の堺を描いたものです」。
ちょっと堺の歴史の付け足しを。漁港として発達した堺は、安土桃山時代に入って西日本の海運の拠点となり明や南蛮との貿易港として黄金期を迎えた。力を持った町人たちによって環濠都市として栄えたのもこの頃だが、1568年 織田信長から軍用金二万貫が課せられ、町人たちは抵抗するもののついには屈服した。
ちなみに「黄金の日々」は、豪商、呂宗助佐衛門の活躍を描いた城山三郎原作の歴史小説。それをドラマ化して1978年に放映された番組は高視聴率を獲得した。もっとも私は当時、まだ歴史に目覚めてなくて見ていなかったけど!
のどかな佇まいの
妙国寺界隈
 
●堺県庁が置かれた西本願寺堺別院
妙国寺駅の周辺には、戦前からの古い民家や寺院がいまなお残る。駅名になっている妙国寺は、駅前の道を東に進むと目と鼻の先にあるけど、ちょっと回り道して、北方向にある西本願寺堺別院へ。歩いているとどこからか「カンカン」というドラの音色が聞こえる。
漆喰壁の民家の前で立ち止った師匠。
「あの窓、細いでしょ。何でかというと、大名行列の時に窓から首を出さして覗かせないようにするためです。「下に〜、下に〜」。あれは顔を伏せろということです」。
寺院の大きな山門をくぐると、市街地にあるとは思えないほど静かさに満ちた大きな屋根のある木造建築が現れた。「京都の西本願寺と同じ作りなんです」。
西本願寺堺別院。正面の建物は「北の御坊」と呼ばれ、堺市内で最大の木造建築という。
「このお寺は1399年の応永の乱から1615年の大坂夏の陣までなんと13回も戦災で焼失しているんです。しかし、そのたびに町民の力で再建した。その結束はどんどん強くなっていったんですね」。
寺院は足利義氏の四男、道祐(どうゆう)が、南北朝時代に建立したのが始まり。その後、明応5年(1496)本願寺八世、蓮如(れんにょ)上人が寺院に招かれ、この北の御坊を建立したとされる。寛文3年(1663)には、十三世乗珍が寺地を西本願寺に寄進し、以来別院となった。現在の本堂は、文政8年(1825)に再建されたものだ。
師匠の解説が続く。
「廃藩置県に伴って明治4年(1871)から10年間、堺が大阪府に編入されるまで、なんとここに堺県庁が置かれたんです」。
えっ、堺県庁? 堺って県だったんですか?
「廃藩置県は基本的に藩がそのまま県になったので、当初304もの県が置かれたんです」。
堺県は最初、岸和田や和泉、松原を含む地域だったが、合併を繰り返し最も大きな時は、現在の大阪府東・南部と奈良県のほぼ全域を含む広さだったというから驚きだ。
「堺の地名の語源、知ってます?この地が摂津・河内・和泉の三国の境に位置しているところから平安時代に付けられたんです。堺市内にある三国ヶ丘は、この三国が見渡せる丘という意味」。
ついでに、大阪府にまつわる解説も。
「大阪と京都だけ府が付いているのは、明治政府が特別視したんです。京都は天皇さんがいてはったんで付いたんですけど、大阪は日本一の経済の中心地ということで。当初は東京も東京府でした」。
へ〜、知らなかったわ。そんな歴史を知れば大阪府民としてもっと胸が張れるのに。 境内には堺出身の歌人・与謝野晶子の歌碑や、高さ20m・周囲3.65mもあるイチョウの巨木がある。今月の終わり頃には見事な黄色に色づくだろう。
西本願寺堺別院
境内にある
イチョウの巨木
●堺の町名の番号に目がない理由は・・・
堺分院を出たところで建物の壁を指差して足を止めた師匠。
「ほら、これ。堺の町名には丁目の目がないんです」。
見れば「神明町東三丁1」と書かれた表示板が。
堺の町名の番号に目が付かないことは知っていたけど、さぁ理由までは・・・
「一番目、二番目・・・目があると優劣が付くからです。そんな優劣はいらんと目を取っ払ったんですね。さすが自治意識の強い土地柄だけあります」。
う〜ん! 堺人の粋な発想に脱帽する・・・
「目」のない堺の
住所表示板
●堺事件ゆかりの妙国寺
再び駅前の通りに出て妙国寺へ。
入口に「とさのさむらいはらきりのはか」と呪文のような文字が刻まれた大きな碑が立っている。何ですか、これ?
「土佐の侍、腹切りの墓、と読むんです。幕末の慶応4年(1868 )2月15日、日本が開国してアメリカやロシアとか外国軍の水兵が続々上陸してきた頃です。フランス軍の水兵100人が上陸して市内を闊歩し、土足で家に上がるなど傍若無人に振舞ったんです。で、当時、堺の警備に当たっていた土佐藩士が応対するんですけど、言葉が通じない。土佐藩は藩旗まで奪われてしまい、怒った藩士が発砲したところフランス兵11名が死傷したんですね。けど開国したばかりの日本は立場が弱い。政府はフランス軍から莫大な賠償金に加えて土佐藩士20名の切腹をつきつけられ、結局その要求を飲むことになったんです」。
これが有名な「堺事件」。森鴎外の小説にも描かれている。
「土佐藩は大阪市西区にある土佐稲荷神社で、なんと切腹する藩士を決める抽選会を行うんですね。死にたくないから抽選にしたのと違うんです。当時、土佐藩は貧しい武士の子弟が多く、武士ならば切腹で死ぬことは奇特だということで我を競って手を上げたんですね。そして、この妙國寺においてフランス軍立会いの元に無残な切腹が行われた。切腹の場で藩士たちは自らの腸を掴んで、居並ぶフランスの軍人たちに次々と投げつけたんです。その凄惨極まりない光景にフランス軍も見るに忍びがたく、もう止めてくれといって切腹は中止になって残り9名は助かるんですね」。
隊長の箕浦猪之吉はわずか25歳だったという。どんなに無念だったことだろう・・・。境内にある資料室には、藩士たちの遺髪の束や、割腹に使われた三方、ピストル、藩旗、それに藩士たちが書いた辞世の句などが展示保管されている。血糊のべっとりついた三方などを目の当たりにすると、事件は書物の中のものではなく実際に行われたのだという実感が伝わってくる。
庭園には「英士割腹跡」の碑が建てられている。
妙国寺の前の碑
●信長に切られて血を流した「夜鳴きの蘇鉄」
日蓮宗の堺区の本山でもある妙国寺は、永禄5年(1562)、日b上人が、当時堺を支配していた三好之康から土地を寄進されて開山。上人の父でもある堺の豪商、油屋常言と兄の常祐が協力して伽藍を建立した。元和元年(1615)の大坂夏の陣では、大坂城落城に際し、徳川家康がこのお寺にいる聞きつけた豊臣方の将、大野道犬が、諸堂に火を放ち全焼させたという史実もある。その後、寛永5年(1628)に本堂を再建。しかし、昭和20年7月、堺大空襲による戦火で再び大半を焼失した。現在の建物は昭和48年(1973)に再々建された。
この妙国寺には、もう一つ、見どころがある。庭園にある樹齢1100年余という国指定の天然記念物、大蘇鉄(そてつ)だ。
ここからは、師匠に代わって、堺市の観光ボランティアの女性に解説してもらう。
「天正7年、妙国寺を訪れた織田信長がこの蘇鉄に感動して安土城に移植させました。ところが、夜な夜なこの蘇鉄から「堺に帰りたい」という声が聞こえるんですね。信長が怒って蘇鉄を切ったところ、切り口から鮮血がドクドクと流れ、大蛇のようにのたうち回ったそうです。
さすがの信長も怖れてこの蘇鉄を妙国寺に返しました。その枯れ死寸前の蘇鉄を日b上人が飢え直して法華経一千巻を唱えたところ、蘇鉄が蘇り、夢枕に人面蛇身の神様が現れて「お礼に堺の人たちの安産子育て、災厄、福寿を授ける」との誓願をしたそうです。上人はここにお堂を立てて、守護神として宇賀徳正竜神を祀りました」。
白砂を敷き詰めた枯山水の庭園には見事な蘇鉄が群生している。その一角にある蘇鉄は「夜鳴きの蘇鉄」と呼ばれ、手厚く祭られている。ちなみに蘇鉄の茎にある樹液は、鉄分を含んでいて切った直後だと透明だけど空気に触れると酸化して赤い色になるそうだ。
夜鳴きの蘇鉄
 (妙国寺)
●土佐藩士11人が眠る宝珠院
妙国寺を出て道路を隔てた向かいの宝珠院へ。ここには土佐藩士を手厚く葬った「十一烈士の墓」がある。
「彼らは罪人だということで皇室の勅願所である妙国寺には奉られず、こちらのお寺に埋葬されたんです。この事件を皮切りに、風習や言葉の違う日本人と外国人が同じ場所で暮らすのは問題が多いということで大阪や神戸に外国人居留地ができていったたんですね(→第二十一話)」。
師匠の解説を聞きながら、ずらりと並んだ11基のお墓の前でそっと手を合わせた。
十一烈士の墓
(宝珠院)
 
戦争や紛争は、いまなおこの記事を書いている瞬間も地球のどこかで勃発している。そしてその火種をたどれば宗教や民族の違いだ。平和の基盤には言葉によるコミュニケーションが不可欠なのだとあらためて思う。
ところで、堺事件のもう一方の犠牲者、つまり、はるばる海を渡って異国の地で命を落としてしまったフランス水兵たちは、どうなったんだろう?
気になって調べてみたら、彼ら11人の亡骸は神戸市北区にある神戸市立外国人墓地に埋葬されていた。現地には碑も建っているようだ。少しだけ救われた気がした。
 
※次号は大阪市大正区を歩きます。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ユニークな大阪ガイドを引き受けている。
これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
 
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