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第三十話
大阪の街なかに残る、秀吉ゆかりの京街道を歩く
 
 
文/写真:池永美佐子
京料理に京菓子、京豆腐、京漬物・・・なんでも頭に「京」がつくと気品があって高級そうに聞こえるから不思議。
今回、ご案内するのは豊臣秀吉が伏見と大坂をつなぐ幹線道路として整備した「京街道」。その響きから、昔情緒あふれるのどかな風景を思い浮かべるが、戦国時代につくられたこの旧街道には武将が城を防衛するためにこしらえたさまざまな仕掛けが施されている。
起点となった京橋と防衛の要でもある関目の間を、大阪案内人の西俣稔さんの解説で歩いた。
 
●くねくね曲がった街道の秘密
京街道は、秀吉が伏見と大坂をつなぐため文禄年間(1592〜1597)に淀川左岸の堤防を改修し、堤防上に陸路を開いたことに始まる。
今回、西俣師匠が京街道のスタート地点に選んだのは地下鉄谷町線の「関目高殿」。ここから大阪城の京橋口まで約3.5キロの旧街道を歩くという。
地上に出て都島通(国道1号線)に沿って西へ進むと、右手に都島通と並行する形で、そう広くはないバイパス道路が現れる。道脇に目をやると確かに「京街道」の石碑が・・・。
「江戸時代にはこの道を参勤交代の大名行列や商人、旅人が行き交っていたんですね。秀吉が整備した当初、京街道の起点は京橋やったんですけど、徳川の時代になって高麗橋に移りました。では、ここで問題です。街道名はどうやって付けられたんでしょうか?」
え〜と・・・街道名は、確か起点ではなくて終点の地名が付くのでしたよね!
「合格です (笑)。京に向かうから京街道。要は京に通じる道は全て京街道です。だから奈良にも江戸にも、全国各地に京街道はあったんです」。
ということは、今回は京から大坂に向かって歩くわけだから「大坂街道」になりませんか? 同じ道でも、名前が違うと随分イメージが変わります。
「なかなか鋭い質問です。でも、大阪人から見るとやっぱり京街道です(笑)。ところで、この道、よく見てください。曲がってるでしょ」。
確かに道がくねくねとカーブしている。
「ここが七曲がりです。敵が攻めてきた時、大坂城から見て道が真っ直ぐやと敵兵が重なって何人いるか数えられないけど、蛇行させるとバラバラになって数えやすいでしょ。軍容や兵数を察知しようというわけです」。
う〜ん! さすが戦略家、秀吉ならではの発想ですね。
「京橋の近くにある片町。ここは大坂城のほぼ真下にあって、南側に家を建てたら攻め込まれ時に城から敵兵が見えないでしょ。だから北側にだけしか家を建てることを許さなかったんです。だから片町という地名なんです」。
 
京街道の石碑
「七曲がり」の道
●南北朝時代から「目で見る関所」があった関目
「関目神社に行きましょう」。
師匠が手にしているのは明治18年(1885)に作られた古地図。それを見ると、この辺りは「東成郡」で辺りは見事に田んぼばかり。人が住む集落といえば、京街道を挟んでわずかに「関目村」と「内代(うちんだい)村」「野江村」があるだけだ。
関目神社は、その関目村にあり七曲がりの東の入口からすぐ北東にある。
「大坂城に近いこの辺りは、防衛の要所やったんですけど、城から見て北東は鬼門とされていました。それで秀吉が大坂城築城の際に鬼門鎮護の神として祀ったのがこの神社です」。
正式名称は須佐之男尊(すさのおのみこと)神社。秀吉が鬼門鎮護の神として毘沙門天(びしゃもんてん)、牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったという。社殿は生徳年間(1712〜13年)の台風と明治18年(1885)の大水害で倒壊したが、明治21年(1888)に復興した。現在の神殿は昭和52年(1977)に建て直されたものだ。
境内には地元町内会によって建てられた「関目発祥之地の碑」がある。
それによれば、関目の地名は、南北朝時代に付けられたもので、榎並荘と呼ばれた荘園に「目で見る関所」、つまり見張り所があったことに由来する。
「それともう一つ、大事なことを」。師匠が付け加える。
「関目だけでなくこの先の守口とか門真、寝屋川など京阪沿線は、明治以降も大坂城の鬼門ということであんまり発展しなかったんです。しかし、そんな迷信を打ち破ったのが松下幸之助です。幸之助さんは非科学的なことを全く信じなかった。そして守口や門真の安い土地を買い取って天下の松下を築き上げたんです。以来、この辺りは急激に都市化していきました」。
「関目発祥之地」の碑
 
 
●街道沿いには水路が! 小さな橋が物語る街道の風景
再び旧京街道に戻って都島通を西に進むと「旭国道筋商店街」がある。
「この辺り、戦後は闇市があったところです。家を失った人たちが細い水路の上にバラック小屋を建てて住んでいたんです」。
安くておいしそうな食堂や飲み屋、電気店など個人経営の小さな店が並ぶが、老朽化してシャッターが閉じている店も多い。
「注目して欲しいのは、街道沿いには水路がつきものだったということです。その痕跡がここ」と、店と駐車場の間の隙間に回った師匠。
そこには地面に埋もれて長さ4mほどの小さな石橋が! 袂には「中橋」と刻まれた親柱も。
「昔はこの橋の下を流れていた水路を使って、農作物なんかを運んでいたんです。水路は埋められたけどなぜか、この橋だけが残っているんです」。
親柱には「大正3年」と架設の年度が刻まれている。街道ができた当時からすると新しいが、今は渡る人もないこの小さな橋は、100年近くもここにひっそりと佇んでいたのだ。でも、この商店街も府の整備でいつ撤去されるか分からない。そのときにはこの橋もなくなるだろう。近代化の陰でまた一つ、もの言わぬ歴史の証人が消えていくと思うとやりきれない。
再び表通りに出て商店街を進むとJR城東貨物線の高架をまたいで今度は「野江国道筋商店街」の看板に変わる。
「ガードのこっちは都島区で、向うの商店街は旭区です。昭和18年(1943)に大阪市は、河川か国道か国鉄線を市区の境界線と決めたんです」。
「ちょっと、道の向こうを見てください、あの建物、何やと思います?」
師匠が大通りをはさんで商店街の向こう側にある小さな平屋の建物を指差した。
さあ、公民館にしては狭すぎるし、交番?
「公衆トイレです(笑)。実は昭和6年(1931)に京阪電車が高架化されるまで野江駅があったんです。京阪電車は明治43年(1910)に創業されたとき、ここを通っていたんですね。当時は1両だけの路面電車でした」。
ひっそりと残る「中橋」
●自治防衛に徹した街道沿いの集落
「じゃあ、次は内代(うちんだい)村と野江村の集落の中に入ってみましょう」 。
ところで、内代(うちんだい)って、読めない地名ですね。地下鉄谷町線には「野江内代」という駅がありますけど。
「内代は、江戸時代は代官の領地の内にあるんで「うちだい」やったんです。それが訛って「うちんだい」になった。神戸(こうべ)も、もともとは「かんべ」です。三重県にある神戸は「かんべ」と読むでしょ。ついでに平野区にある喜連瓜破(きれうりわり)は「きれん」でなくて「きれ」。こっちにつくはずの「ん」が地下鉄谷町線に乗って、内代に飛んできたという話も(笑)」。
そんなアホな!
「都島通を挟んで北側は都島区内代町で、南側は城東区野江です。野江内代は、地下鉄が敷かれたときに二つの町がもめないように付けた駅名です。新しい町や駅でこういう付け方をすることは多いですよ。関目高殿駅も、城東区の関目と旭区の高殿が合体したんです」。
なんて話しているうちに、内代村のあったと思われる都島区内代町2丁目に。 一見、民家が密集したありふれた住宅地。
「何か気づきませんか? 道がみんな行き止まりになっている。つまり村のつくりが漢字の「五」のように鍵形や袋小路とかT字になっている。これもよそ者を入れないという町づくりの構造です。大坂城に通じる大手橋が、T字になっているのと同じですわ(→第二十話にリンク)」。
続いて、都島通をはさんで南にある城東区野江に向かう。この一角には、白壁に瓦屋根の蔵も残る古風な町並みが現れる。
「内代町の民家は戦後に建てられたものですが、こっちは戦災を受けていないから、昔の建物がまだ残っているんです」。
見慣れた風景も、目を凝らすと歴史の足跡が見えてくる。
不思議な町名「内代町」
袋小路になっている
内代町の町並み
 
 
京街道がつくられ約400年。すっかり様変わりしたかのように見える道筋や街角にも、先人たちの知恵や工夫がしっかりと残っている。
でも、目標の京橋までまだ半分も歩いていないのに、早くも記事スペースがいっぱいに! 続きは次号ということで・・・。
 
※次回は野江内代から京橋まで、引き続き大坂城に通じる京街道を歩きます。
 
戦火を免れた野江の町並み
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ユニークな大阪ガイドを引き受けている。
これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
 
サソ