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第二十六話
大仏建立時の都のにぎわいに思いを馳せて
平城京のメインストリート、一条通りを歩く
 
 
文/写真:池永美佐子
まもなく遷都1300年を迎える平城の都、奈良。しかも、今年3月には、阪神電車と近鉄電車の相互乗り入れにより、三宮から近鉄奈良まで大阪難波を経由して乗り換えなしに一直線で行けるようになって、ますます便利に!
スペシャル連休が待ち構える今月は、話題満載の観光都市、奈良の知られざる歴史スポットを紹介したい。案内人は京都在住のカメラマン、田辺聖浩さん。
 
●奈良格子と庚申さん
近鉄奈良駅で待ち合わせた田辺さん。
「奈良は久しぶりです。わが師、(写真家の)入江泰吉先生がおられた頃はよく来たけど。昔とは随分様変わりしているでしょうね、楽しみです」。
奈良駅周辺には世界遺産が目白押しだ。東大寺大仏殿、五重塔や阿修羅像のある興福寺、春日大社の神殿、若草山・・・観光に訪れる人の多くは、それらがある東の奈良公園方面に向かって歩き出すけど、田辺さんはあえてそのコースを外し、近鉄奈良駅の北側、奈良女子大のある方向に向かって歩き出した。
奈良県庁前の大通りをはさんで南側の商店街から続く北の道は、入口こそ商店街風情だが、少し行くと人通りがぱたっと途絶えて住宅街に一転する。奈良女子大の前の道を進み、道路を渡るとさらに道幅は狭くなる。
「よかった、まだこのへんは昔の家が残っていますね」。
路地のところどころに瓦屋根に格子や虫子窓を設えた古い民家が現れる。
「奈良格子ですね。奈良格子は、京都祇園なんかにある紅柄格子よりも桟が太いんです。また、同じ奈良格子でも、酒屋とか米屋など商家の格子は町家よりもさらに太くて短いんです。なぜというと、酒とか米とか重いものを支えるためなんです」。
へぇ〜、そんなものかと感心しながら私もキョロキョロ。
「あれは何か知っていますか」。
見れば、軒先に赤い服を着て手足を縛られた人形が連なってぶら下がっている。
「庚申(こうしん)さんの猿ですよね。確か人の体には3匹の虫がいて庚申の日に出てくるんですよね・・・」。庚申信仰については、以前四天王寺を歩いた時に聞いたはずなのに、あれれ、後が続かない・・・。
「庚申の日にその虫が、その人の行った悪行を神様に告げ口するんです。で、神様に告げ口されたときに自分に代って天罰を受けてくれるのがこの猿人形です」。
ああ、そうやったわ! 
 
 
奈良格子の民家。
軒先に庚申さんが
 
 
幅の広い格子が
かかる商家
●平城京の都大路「一条通り」と水運の要「佐保川」
細い路地を抜けると、車やバスが行き交う、やや広い道路に出る。
「東西に伸びるこの道は、一条通りといって、昔は大宮通りと並ぶ平城京のメインストリートでした。大極殿のあった平城宮から法華寺、総国分寺を経て東大寺へ至る幹線道路ですね。唐の長安をモデルにした平城京では、すでに坊条制を取り入れて碁盤の目のような都市整備が行われていたんです」。
かつては、貴族たちの乗った牛車(ぎっしゃ)や東大寺建立に使われる木材や資材を載せた荷車が行き交ったのだろうか。
「奈良時代からこの一帯には刀鍛冶もたくさん住んでいたようです。京都もですが、都では必ず武器作りが基幹産業になったんです。すぐれた刀が製造されただけでなく海外からも集まってきました。日本刀の名門とされる大和伝五派の一つ「手掻派」は、この地域が産んだ刀工集団です。鎌倉時代の刀工「手掻包永(てがいかねなが)」もここの出身者です。今も残る手貝(てがい)町、西包永町、東包永町といった町名は、この辺りが刀作りの地であったことを物語っています」。
 この道のすぐ左手に、石造りの古い橋が架っている。
「法連橋です。下を流れるのは佐保川です。佐保川の水量は今でこそ少ないけど、昔は水運に利用されるほど豊かだったんです。これは、法蓮橋のすぐ東にある佐保川天満宮の祭神が佐保姫という竜神だったことからもうかがえます」。
春日山から注ぐ佐保川は、奈良の市街地や奈良盆地を経て、初瀬(はせ)川と大和郡山市で合流、大和川につながっていく。
「この川は多くの和歌にも詠まれています。奈良時代、法蓮橋のこの辺りは高級官僚の屋敷街で左大臣、長屋王の自宅「作宝楼」があったといわれています。江戸時代にはホタルの名所として知られ、奈良八景の一つに数えられました」。
法連橋と佐保川
 
 
 
●「転害門」は、東大寺創設当時の姿を唯一留める国宝の門
一条通りを東に進むと、切妻造り本瓦葺きの大屋根が付いた巨大な門が現れる。
「東大寺の西北を守る転害門(てがいもん)です。平城京から続く一条通の終点で、東大寺の入口でもあったんです。東大寺は何度も焼失して建て直されていますが、この門は度重なる兵火や地震にも耐えて建立当時の姿を留めているんですよ。私がよく奈良に通った頃は、もっとぼろぼろだったんですけど、さすがに補修されたんですね」。
天平時代の東大寺の伽藍建築をそのまま残すこの門は、三間一戸八脚門の形式をもち、なんと国宝だ。観光地図やガイド書には名前は出ているのに詳しい解説文がないのが不思議。すぐ前に手貝町のバス停があるせいか、国宝だとは知らずに通過していく人も多い。
それにしても、転害門なんて、へんてこりんな名前ですねぇ。
「名前の由来については諸説ありますが、もともとは東大寺にあった食堂(じきどう)院附属の「碾磑(てがい)亭」にちなんで「碾磑門」という字だったんです。それからいつしか災害を転じて福を与える、といった意味のこの字が当てられたようです。一条通りの別称である「佐保路」にちなんで「佐保門」とも呼ばれました。また、大仏殿の鎌倉再建の際に、源頼朝を討とうとこの門に隠れて捉えられた平景清にちなんで「景清門」とも呼ばれているんです。これは歌舞伎の演目にもなっています」。
不思議なことに気が付いた。お寺なのに大きな注連縄(しめなわ)が飾ってあるのだ。
「東大寺の守護神である手向山(たむけやま)八幡宮のお旅所だからです。門の真ん中に4個石があるでしょう、これはお神輿を置くためなんです」。
「門を通して東側と西側からでは、見える風景がまるで違う」という田辺さんのアドバイスで、門をくぐってみる。
確かに一条通から門の向こうを見れば、神鹿が草を食むのどかな天平の森が広がるのに、門をくぐって東大寺側から一条通りを眺めると、車や人や自転車がひっきりなしに行きかう平成の奈良のまちが見える。まるでタイムトンネルのようだ!
転害門
 
転害門から
一条通を臨む
●近代城郭のモデルとなった美しい城「多聞城」
「次は多聞城跡に行ってみましょう」。
転害門の北側に見えるこんもりとした森を指して地図を取り出した田辺さん。森は聖武天皇陵のある佐保山だ。でも地図には城跡なんて載っていませんけど。
「今は若草中学校になっているんです」。
ルートはいくつかあるが、転害門をUターンして一条通りを西に行き、鍼灸院の脇の細い道から、なだらかな坂を登る。
玉鎧稲荷神社の前の木々が茂るうっそうとした小道をさらに進むと、急な石段が見えてきた。すでに若草中学校に敷地だ。石段の脇には「多聞城跡」の石碑が。
「多聞城は、戦国武将、松永弾正(だんじょう)久秀が永禄3年(1560)に築いた城です。久秀は信貴山城の次にこの城を築きました。その城は4層の櫓(やぐら)がそびえ、天守をもつ近代城郭のモデルになったといわれます。ルイス・デ・アルメイダという宣教師が「こんな美しい城はみたことがない」と絶賛して報告書に記したそうです。でも、この城も織田信長によって攻め落とされました。あまりの美しさに信長が嫉妬したと言われています」。
三好長慶の家臣、松永久秀は大変な野心家だったといわれる。三好家の重臣でつくる「三好三人衆」と共謀して当時大和国で勢力を持っていた筒井順慶を追いやっただけでなく、主家の実権を握ろうと策略。後に筒井軍と組んだ三人衆の軍勢との間で闘いが勃発する中、久秀は永禄10年(1567)10月10日、東大寺に火を放って大仏殿を焼失させたとされる。
石段を登って中学校の校舎のある丘の頂に立ってみた。遠方に東大寺大仏殿の大屋根も見える。戦国武将はここで何を考えたのだろうか。
若草中学校の敷地にある
多聞城跡
 
多聞城跡から
奈良の町を望む
●慈悲の心が息づく「北山十八間戸」と「夕日地蔵」
校舎の横を回って北東側にある階段から下に降りると般若寺につながる三叉路に出る。その角に白壁が清清しい瓦屋根の長屋がある。「北山十八間戸」と呼ばれる史跡だ。
「これは鎌倉時代に忍性上人が、当時不治の病として疎外されたハンセン氏病患者のために建てた慈善療養施設です。忍性上人は真言律宗の開祖、與正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)の弟子で、鎌倉にある極楽寺を興した僧です。極楽寺やその他の所にもこうした人たちを救済する療養所を設けています。ここも、昔はもっと老朽化して傷んでいたんですけど、きれいになりましたね」。
創設当初は般若寺の北東にあったが、松永久秀の放った兵火で般若寺と共に焼失。1世紀を経て江戸時代に奈良奉行、中坊時祐によってこの場所に再建されたという。
建物には18枚の扉があり、中は板間になっているらしい。敷地には供養塔も見える。病いと貧困、差別という三重苦を負わされた人たちの苦難を思うと胸が詰まる。
建物は柵で囲まれていて普段は入れないが、隣のお好み焼き店の人にお願いすれば、敷地には入れてもらえる。
それにしても今から700年以上も前の話。おそらく人権という言葉も概念もなかっただろう。権力争いに加担する僧侶が多かった戦国の世で、こうした人たちに救いの手を差し伸べた僧侶がいたことに感銘を受ける。
「確か、この近くにお地蔵さんがあったはずですが」。
田辺さんの後をついていくと、北山十八間戸のすぐ北、般若寺に向かう道すがら身の丈2mほどもある大きなお地蔵さんが立っていた。
「夕日が当たるといっそう慈悲深い顔をされるというので、地域の人たちから夕日地蔵呼ばれているようです。でも、お地蔵さんは夜になると閻魔(えんま)さんになるんですよ」
そ、そうなんですか・・・
下からそ〜っと、お地蔵さんのお顔を見上げたけど、やっぱり優しいお顔をしておられる。これからは欲張らず、ズルせず、ウソをつかずに生きていきますので・・・と、思わず手を合わせた。
北山十八間戸
夕日地蔵
取材に訪れたのは、まだ桜が残る4月半ばの日曜日。駅周辺や奈良県庁前のメインストリートはどこもかしこも人でいっぱいだったけど、私たちが歩いたコースは観光客もなく、ひっそりとしていた。静かに佇む街角にも、人々の営みがあり、数知れない歴史ドラマが息づいている。そんな昔の人たちの人生や出会いに思いを馳せて街をゆっくりと歩くのもいいものだ。
*次号は大阪市平野区を歩きます。
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:田辺聖浩
京都は西陣の生まれ。写真家、入江泰吉氏に師事。
以降商業カメラマンとして活動する傍ら、文化財や仏像の写真撮影に力を入れている。趣味はクルマと星の観察。只今「神様がつくった絵」と題して空や雲を撮っている。
 
 
サソ