●水の神様を祀る野江水神社 |
「都島区の都島という地名。なんでついたか分かります?」 |
野江内代から京橋に向かう旧街道の道すがら、西俣師匠がいつものように地名にまつわるクイズを。 |
「ヒントははるか昔、この辺りは海やったんです」。 |
あ〜そうでした!
大阪は上町台地のあたりだけが陸で、あとは小さな島が点在していたんでしたね。だから島という名前が・・・でも、どうして都なのかは・・・
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「都島は、難波宮に向かう島、つまり宮向島(みやこうじま)が転訛したんですわ。そして島と島の間に土砂が積っていって徐々に陸地化していった。だからこのあたりも低湿地で大雨の度に何度も何度も水害を被ったんです」。 |
解説を聞くうちに、野江内代駅の東隣、榎並小学校の南側にある小さな神社に到着。見れば「野江水神社」とある。 |
「水難から逃れようとして水の神様を祀ったのが、この神社です。天文2年(1533)、三好政長という、この地の武将が榎並城を築くときに守護神として城内に祠(ほこら)を作って祀ったといわれています」。 |
祭神は水波女大神(みずはめのおおみかみ)。水にかかわる仕事関係者の参拝も多い。 |
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●榎並城と榎並猿楽 |
水神社の北隣にある榎並小学校の東門には、その三好政長・政勝親子が居城したといわれる「榎並城跡伝承地」の碑が立っている。 |
「榎並城は、天守閣も何もない竹薮に囲まれた城で、戦国時代には日本全国にこんな城がいっぱいあったんですね。大坂だけでも500、600あったようです。毛馬城とか十三にあった堀城、中島城なんかもその一つです。陸路や水路に恵まれた榎並城は防衛の要所やったのでしょう」。 |
一方、碑には榎並城跡伝承と並んで「榎並猿楽(えなみさるがく)発祥の地」の文字が刻まれている。 |
「この地域は、猿楽の盛んな場所でもあったんです。猿楽はご存知のように平安時代に登場した芸能の一つで、鎌倉から演劇の要素を含んで、能や狂言になったんですけど、ここで生まれた榎並の猿楽は、住吉大社に奉納するなどして活躍していたようですね」。 |
城東区の資料によれば、榎並の猿楽は、鎌倉時代末期に丹波猿楽の新座としてこのあたりに座を構え、一時は本座をしのぐ勢いだったとされる。能の観世座の始祖といわれる観阿弥との関わりも深く、後にはその観阿弥に楽頭職と呼ばれるトップの座を譲ったことや、応仁の乱の影響などを受けて次第に衰退したようだ。 |
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●風化に耐えて戦争の悲惨さを伝える都島第三小学校 |
京街道と並行するように、かつてこの辺りには「榎並川」が流れていた。 |
野江内代駅の南西、野江3西の交差点から南に伸びる車道の近くで足を止めた師匠。 |
「榎並川は寝屋川と大川をつなぐ川です。その川筋がここですわ。川にはいくつかの橋が架かっていたんですけど、その一つがこの野江橋です」 |
といっても橋なんてありませんが・・・。
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「よく見てください。ほらあのビル」。 |
見れば「野江橋不動産」の看板が。 |
「川も橋もなくなったけど、うれしいことに名前だけが脈々と残っているんです」。 |
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旧街道らしき細い道が、町の中に現れては消え、消えては現れるように京橋へと続いている。 |
「街道沿いではないけど、ちょっと寄り道します」。 |
街道から少し西にそれて都島公園の手前にあるモータープールへ。 |
広い駐車場の一角に「戦災者慰霊之碑」が立っている。 |
「ここは昭和20年6月の大阪大空襲でほぼ全焼した都島第三小学校(国民学校)の跡地です。約400人いた子どもたちは集団疎開などで助かったけど、学校を守っていた先生が爆撃で亡くなったんです。向こうに焼け残った正門棟だけが残っています」。
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都島区はこの空襲で戸数の9割が被災するという壊滅的な破壊を受けたといわれる。 |
建物の南側に回ると、老朽化した正門棟が唐突に残っている。焼け跡の残る壁面は今にも崩れ落ちそうで痛々しい。 |
「戦後、染色工場の倉庫やったようですけど、今は使われていません。何の説明板もなくポツンとこうして残っているんです。そのうちに取り壊されるでしょうが・・・」。
戦争遺跡として、きちんと残せないものだろうか。 |
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●豪商、淀屋辰五郎が財産没収の刑を受けた場所 |
再び京街道に戻って南に進む。 |
「この辺りは、淀屋橋を架けた豪商、淀屋常安から数えて5代目の商人、淀屋辰五郎が、諸大名たちにお金を貸しすぎたということで幕府の命により、元禄時代の宝永2年(1705)、闕所(けっしょ)といって財産没収の上、所払いの処分を受けた場所です」。 |
師匠の言葉に、あたりを見回すが、古い民家が経ち並ぶありふれた町の光景だ。 |
当時、上方以西の大名で淀屋から借金をしていない者はなかったといといわれ、その総額は、現在のお金に換算すると100兆円にものぼるとか。そこで幕府は、諸大名の窮迫状況を救うため淀屋を取りつぶそうとこの処分を下したと考えられている。近松門左衛門の「淀鯉出世滝徳(よどごいしゅっせのたきのぼり)」は、この事件を題材に書いた浄瑠璃だ。
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●道端に埋もれた「かもう」の親柱から浮かぶ鯰江(なまずえ)川の姿 |
京橋はもうすぐそこ。見上げると「桜小橋」の交差点表示が立っている。 |
「桜小橋は旧榎並川にかかっていた橋の中で、いまも交差点の名に唯一残って橋名です。小橋というからには、大橋があるわけで、私はこの西にある桜宮橋が大橋やと推測しているんです」。
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「そして橋といえば、もう一つ」と、ここから足早に京阪電車の高架をくぐって次の交差点の角で立ち止まった師匠。その視線の先を見やると、細い道の路肩に地面に埋もれた親柱のような石柱が・・・。側面には「かまう」と刻まれている。 |
「かまう、とは、蒲生(がもう)のこと。ここは江戸時代、蒲生村やったんです。この交差点の東西に通る道は鯰江(なまずえ)川跡で、ここに船着場があったんでしょうね。石柱は船着場の橋の欄干ですが、なぜか残っているんです」。
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ついでに鯰江川についての薀蓄も。 |
「鯰江川の語源については、鯰江備中守が開削したとか、また大坂冬の陣の戦死者の血が川に染まって生血川になってそれが訛ったとか、いろんな説がありますが、ナマズがたくさん採れたというのが一般的です」。 |
鯰江は、鯰江中学や鯰江公園にその名を残している。 |
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●蒲生墓地のお墓に刻まれた先人の教訓 |
「かもう」の親柱のある細い道を京橋に向かって進むと、ガードを越えたところに突如、墓地が現れる。歓楽街の一角にこんな墓地があったとは! |
「蒲生墓地です。江戸時代からのお墓で、梅田、葭原、小橋(おばせ)、高津、千日、飛田と並ぶ大坂七墓の一つに数えられます。1615年、大坂城代、松平忠明が、大坂市内に点在していたこれらの墓を市内に入る主要な街道沿いに移転したんです。戦時に墓石を利用して兵の隠れ場所にしたんですね」。
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墓地は都島区が管理しているそうだが、樹木がうっそうと茂る墓地には、無数の墓石が無造作に並んでいる。 |
その中で師匠が「珍しいお墓があるんです」と案内してくれたのは「大正3年建立 大笹吉五郎」と刻まれたお墓。側面を見ると「人ニハI一」と暗号のような文字が・・・。
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「この意味、分かります? I
の縦棒は「心棒」、つまり辛抱ですわ。人には辛抱が一番と読むんです。この大笹吉五郎さんは北浜の株相場師、あるいは今里の花火業といわれていますが、事業に失敗して没落するんですね。それで、人は金銭欲に走らず辛抱して勤勉に働くのが一番という教訓を子孫に残したんです。ところで、人ニハI一を一文字にすると・・・」 |
あ〜!!
金という字!! |
「そう、お金をバラバラにしたんです。発想もおもしろいけど、墓石にまで彫ってしまうとはほんまに感動します。これぞ大阪の誇るべき文化遺跡です」。 |
ちなみに師匠はこの墓石を見つけた後、大笹氏の子孫に会いたいと明治、大正時代の電話帳を繰って調べたそうだけど、みつからなかったとか。もし、手がかりをお持ちの方がありましたらぜひご連絡を。 |
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●目的地にたどりつかない道しるべ |
こうしてようやく到着した京橋。 |
「最後に笑うに笑えない京街道の歴史遺構を一つ」。 |
かく語る師匠の案内で向かった先は、JR京橋駅北改札の北西、京阪モール東北の歩道の植え込みに「右・大和 左・京」と刻まれた石の道標が立っている。 |
「これは1845年、文久の時代につくられた道標です。もともと京阪モールのある場所にあって建設時に移設されたんですけど、方向が反対なんです。無茶苦茶ですわ。なんでこうなったか。おそらく歩道に正面を見せようとした結果なんでしょうが、歴史学者などの間でも不評をかっています。まあ、これを見ても間違う人はないでしょうが」。
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いえいえ。方向音痴の私なら確実に間違います。なんとかならないものでしょうか・・・。
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※次号は堺市を歩きます。
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