FUJITSU ファミリ会 関西支部FUJITSUファミリ会関西支部

第六話
■寺と坂のまち「谷町かいわい」を歩く[2]
  名水あり、夕陽の名所あり、舞楽奏者屋敷跡あり・・・
  オダサクがこよなく愛した七坂をめぐる
 
 
文/写真:池永美佐子
「ええ雰囲気やなぁ・・・」。大阪案内人の西俣稔さんがしみじみと。え〜っ、私と歩いているから? と、一瞬ペンを落としそうになったが、とんだ早とちり。師匠がうっとりしたのは、暮れなずむ夕陽と情緒あふれる街並みだった。
地下鉄、夕陽丘駅から天王寺方面に向って谷町筋と松屋町筋にはさまれたかいわいには、寺がぎっしり詰まり、その隙間を縫うように坂道が現れる。うっそうと繁る古木の緑も彩りを添えて、ここが大阪かと思うほど静寂で情緒あふれる町並みだ。そんな上町台地で生まれた作家、織田作之助は「木の都」の文頭で、次のように記している。
「大阪は木のない都だと思われているが、しかし私の幼児の記憶は不思議と木と結びついている」・・・。
今回は前号に続き、西俣師匠の案内で天王寺七坂を中心に上町台地を歩いた。
●新撰組や近松門左衛門も往来した真言坂
前回紹介した「真言坂」を通って、生国魂(いくたま)神社を通り抜け、松屋町筋を南下すると、二つ目の坂が現れる。登り口にある寺名をとって「源聖寺坂」と名付けられたこの坂は、織田作之助の代表作「夫婦善哉」の舞台となったところ。寺の土塀に沿って石畳のなだらかな坂を上っていくと徐々に勾配が急になり、途中から階段になっている。
「坂の上にある銀山寺には近松門左衛門の"心中宵庚申"に出てくるお千代さん、半兵衛さんの墓が建てられているんや。この心中事件は享保年間の1720年に実在した話。近松さんの作品は当時の実話を元にしている。昔のことを今に伝えるのは大事なこと」と西俣師匠。
源聖寺の南、松屋町筋に面して建つ「万福寺」は、幕末に暗躍した新撰組の大坂屯所でもあった寺。
「新撰組ゆかりの地は大阪にもたくさんある。長州藩と謀議していると疑われた藤井藍田(らんでん)はここで新撰組に16日間幽閉されて数々の拷問を受け、惨殺されたんや。NHKの大河ドラマでは取り上げられないけど、こうした人たちの犠牲の上に今の日本がある」。 血なまぐさい幕末の出来事。

●口縄坂で女学生との出会いに胸躍らせたオダサク
源聖寺坂から松屋町筋を南へ下ると、木々の間に溶け込んだ趣のある坂道が現れる。ここが「口縄(くちなわ)坂」。源聖寺坂と同じく上町台地の坂を代表する坂で、織田作之助の「木の都」の舞台になっている。
「口縄とは大坂城築城のとき、縄打ちを始めた場所だからという説もあるけど、泉州弁では、朽ちた縄が蛇に似ているので口縄と言うんやね。つまり、坂道の起伏が蛇に似ているところからこの名が付いたという説が僕は当たっていると思う。かつて心斎橋にあった鰻谷(うなぎだに)の町名も同じ。船場にある道修町(どしょうまち)は、どしょう谷と呼ばれていたんやけど、ドジョウがなまってついたと確信しているんや」。
現在、坂は凹凸なしに改修され、手すりなどもついているが、覆い繁る木々や石畳に昔の面影を残している。
坂を登っていくと、夕陽丘かいわいを描いた織田作之助の「木の都」の最終節を刻んだ文学碑が建っている。
「上町台地(上汐町)で育ったオダサクは、この坂に足しげく通ったんやね。この界隈の高津中学(現・高津高校)から京大に進学するんやけど、この坂を通ったのは夕陽丘女学校(現・夕陽丘高校)があったから。女学生見たさに通ったんや。本人が本の中でそう書いているんやから間違いない(笑)」。
知られざる文豪のエピソード。女学校はその後移転したが、坂の途中に小さな夕陽丘女学校跡の遺跡が立っている。
●夕日が美しいから「夕陽丘」。名付け親は藤原家隆
このあたりの坂は、とりわけ夕陽が美しい。もともと坂は岩盤の上町台地から海岸線に通じる場所に位置し、大阪湾に沈む夕陽が一望できたようだ。夕陽丘という地名も、新古今和歌集の選者、藤原家隆が、上町台地から見える夕陽に感嘆し、詠んだ句からこの地名が付けられたという。その家隆の墓が、口縄坂のすぐ南にある。
口縄坂から下がって南に進むと大江神社の石段の横にあるのが「愛染坂」だ。下り口坂の横に建つ勝鬘(しょうまん)院愛染堂は、「愛染さん」で親しまれ、聖徳太子が建てたといわれる四天王寺の別院。もともと四天王寺は、「敬田院」「施薬院」「療病院」「悲田院」の4つからなり、このうちの「施薬院」が現在の愛染さんだ。聖徳太子はいろいろな薬草をここに植えて、病気の人に分け与えたといわれる。社会救済事業発祥の地ともいわれる所以。
その一筋南にある「清水(きよみず)坂」は、坂の上の清水寺にちなんで名づけられた坂。広くてなだらかな石畳の坂の上の高台には京都の清水寺を模してつくった清水の舞台もあり、通天閣などが一望できる。南側のがけから流れ出る玉出の滝は、小さいながら大阪市内唯一の滝として知られ、滝修行をしている人も。
●四天王寺舞楽の演奏家が住んだまち、伶人町
「天神坂」は、そのまま南に下ったところにある石畳のなだらかな坂だ。菅原道真ゆかりの安居天神に通じることからこの名がついた。安居天神には天王寺七名水の1つ、「安井の清水」があるところから、坂の途中にはその湧き水をイメージした小さな井戸のモニュメントがつくられ、さらさらと涼やかな水音を立てている。
「清水谷高校のある清水谷町も、上町台地の湧き水に由来するんやね。清水谷は心斎橋の近くにある清水町と上町台地の地下でつながっていて、心斎橋にある風呂屋"清水湯"の起源もここから」。
安居天神の境内には、大坂夏の陣で戦死した真田幸村の碑がある。
かいわいで天神坂の解説をしていた師匠が「これ、なんて読むか分かる?」と立ち止まった。見れば「伶人町」の町名案内板。
れいにんちょう、というんやけど。伶人とは、古来の四天王寺舞楽の演奏家のこと。明治維新までここに伶人が住む八人屋敷があったんやね。伶人は明治天皇の東幸とともに東京へ移動して宮内省に配属されたんや。実は君が代を作曲した林広守も、ここ出身。いわば君が代のルーツがここにあるんや。歴史ある町名やねぇ」。
初めて聞く耳より情報。これぞ大阪人なら絶対押さえておきたい歴史ネタだ。
七坂のいよいよ最後は、松屋町筋の南端と四天王寺西門を結ぶ「逢坂」。現在は国道25号線になっている。
「昔は合坂とも書かれ、坂下の辻を合邦(合法=がっぽう)の辻といって、聖徳太子と物部守屋が仏教を論じ合い、法を並べて比べ合わせたところに由来するんや」。
昔はかなりの急坂で大坂から大和へ通じる要路だったらしいが、残念ながら、いまは車の往来が激しい幹線道路になっており、昔の面影はない。
●天王寺で世界平和を祈るベルリンの壁に遭遇
ルートは再び谷町筋を南下して天王寺へ。今回の歴史散歩のトリは、「統国寺」。境内に入と1×3mほどの大きさのコンクリート製の壁が二枚目に飛び込んでくる。これが、なんとベルリンの壁。両面にそれぞれ雰囲気の違う東西ドイツの落書きがスプレーペイントされている。
「統国寺は朝鮮人仏教連盟が維持していて、寺名に祖国統一の願いが込められているんやね。ベルリンの壁は、国籍や民族を越えた人類の友好を願うこの寺に保存するのが最適やと、コレクションした方が寄贈されたそうや」。
もとは四天王寺と同じく聖徳太子が建立したといわれる歴史ある寺で、601年に百済から渡来した観勒(かんろく)という僧が営んだのをきっかけに朝鮮寺になった。しかし、大坂夏の陣で徳川勢についたため豊臣勢に焼かれて全焼し、以降70年ほど廃寺に。その後「邦福寺」の名で日本の寺として運営されていたが、1964年に再び朝鮮寺として復興。
「大阪にこんな寺院があることと、世界平和への熱い息吹を感じてもらえたら」と師匠。 ♪想像してごらん、国境なんて存在しない世界を。そんなに難しいことじゃない♪・・・
壁に触れてみると、ジョンレノンの「イマジン」のメロディーと歌詞が浮かんできた。 寺院の西側には、見晴らしの舞台があり、真正面には茶臼山と和気清麻呂が行った治水工事跡といわれる河底池をはじめ、通天閣などすばらしい景色が一望できる。
[※次回は、鶴橋のコリアンタウンを歩きます。お楽しみに!!
 
 
夫婦善哉の舞台になった源聖寺坂
 
 
 
 
 
 
口縄坂はよき大阪の隠れ撮影スポットでも
 
 
 
 
夕陽の美しさで知られる愛染坂
 
清水坂 坂上に玉出の滝がある
 
安井天神ゆかりの天神坂。途中に井戸のモニュメントがある。
 
 
ベルリンの壁(西側)
 
 
ベルリンの壁(東側)
 
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
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