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第二十二話
国際港として栄えた安治川と川底トンネルを歩く
 
 
文/写真:池永美佐子
明けましておめでとうございます。一昨年4月からスタートしたこの歴史散歩も読者の皆様からいただく多数のアクセスやご声援のお陰で2回目のお正月を迎えました。今年も頼もしいナビゲーターの協力を得て、秘蔵ネタを携えはりきってルポしますのでよろしくお願いします。
さて、2009年最初のご案内スポットは、近代大阪の基礎を築いた文明開化の地、西区。前回に続いて国際港として栄えた安治川とその周辺を、大阪案内人・西俣稔さんのナビで散策しました。
●半世紀も前から計画されていた「阪神なんば線」
今回のスタートは、阪神西大阪線と合流するJR環状線西九条駅。阪神西九条駅は、来る3月20日、ここから新たに近鉄難波駅までつながる「阪神なんば線」の延伸始発駅として、いま大阪で一番注目度の高いスポットだ。
駅舎の前に降り立った師匠。JR線と阪神線の高架を指差して早速、歴史クイズを。
「JRの高架は高さ10mやけど、阪神は初めから15mと高かったんです。何でJRと同じ高さにしなかったかわかる?」
見上げれば確かに阪神線がJRの上をまたいで交差している。
「阪神西大阪線ができたのは1924年(大正13)。 最初は伝法〜大物間で、その後延伸されて1964年(昭和39)に大阪環状線開通に伴い西九条まで延びたんですけど、その時点ですでに、阪神西大阪線の難波延伸が計画されてJRをまたいで5m高く作られたんです。ところが、延伸する尻無川までは高架の設計で九条商店街に沿うため、高架によってまちが分断され客の流れが悪くなる、といって地元商店街が反対したんでその計画は頓挫したんです」。
変化の激しい時代に、こんな壮大な鉄道計画が半世紀近くも眠っていたとは!
歴史を紐解けば、線路ひとつにもいろんな人々の夢やご苦労が見え隠れする。
 
JR西九条駅。線路の上を
阪神線がまたいで交差する
 
●安治川の開削で2つに分断された九条。「西」があって「東」がないわけは?
師匠が持参の江戸時代の古地図を手に高架沿いを南へ。安治川に向かって歩く道中、この古地図を見ていて、はたと気付いた。
「西九条があるのに、なんで東九条がないんですか?」
「ええ質問やねぇ! もともと九条は南浦と呼ばれる島やったんです。それを江戸時代の初めに儒教学者の林羅山が、土地が栄えるという意味で衢壌(くじょう)島と名付けたんやけど、書きづらいんでいつしか九条島になったんですね。
その島が分断されたのは、今から300年以上も前のこと。安治川を河村瑞賢が開削したから。大阪の歴史はこれまで見てきた通り水害との闘いで、この川もその一つです。
島は淀川の河口で水流の妨げになって何度も何度も洪水の被害を受けたんです。それで開削した後、川の西側を西九条にしたんですね。川の東側が同面積なら東九条になっていたはずですが、もともと東側は面積が広く、さらに新田開発で巨大になったんで、本体という意味で東が付かずに、九条なんです」。
「ところで、西の漢字の成り立ち、わかる?」と師匠。
西区や西九条にからんで漢字のお勉強も少し。
「西の字を分解すると、口は海で、一は太陽の残像、八は海にす〜っと沈む太陽の様です。ちなみに南の∩は温室で、十は草木、¥は手で、草木を温かい温室へ引き込む様。北は、寒い中国では南に登る太陽を崇めると北に背中が向くので背中の様が北です。だから逃げる時に背中を向けるので敗北なんです」。
漢字って、本当に奥深い。
話しているうちに安治川の北岸にある川底トンネルの入口に到着する。
世界でも珍しい川底を通るこの珍しいトンネルは、河の堤防にあるエレベーターを使って深さ15mの川底に降り、安治川の下を通って対岸のエレベーターを上がるという構造。人だけでなく自転車も通れて、料金は無料だ。
トンネルは大阪市建設局が管理していて、職員のおじさんが安全などのために巡回している。
はやる気持ちを胸に、エレベーターは川底へ。この上を川が流れていると思うと、何だかドキドキする。西九条と西区や港区を結ぶこのトンネルは、1日4000〜5000人が利用するといわれるのに、トンネル内はゴミ一つ落ちていないし、利用者はきちんと片側通行を守っている。大阪にもこんなところがあったんだ。
 
この川の下にトンネルが!
左手建物がエレベーター乗場
 
安治川トンネル
●軍用道路のルートだった安治川トンネル
2,3分歩いてエレベーターで上がって対岸に出る。師匠の解説。
「トンネルは昭和10年から工事を始め、できたのは昭和19年です。国際港として栄えた安治川は船の往来が多くて橋が架けられないので、対岸へは渡し舟で渡っていたんですね。ここは源兵衛渡と呼ばれていたんです。ところが、明治中期から大正にかけて大大阪と言われた時代には、この辺りから此花区にかけて造船工場などが発展して通勤者が増大し、渡し船では追いつかなくなったんです」。
確かにトンネル前の道の交差点は「源兵衛渡」という名前だ。
「それと、もう一つ。これ大事なんですが、昭和19年、つまり終戦の1年前にできたということに注目してほしいんです。実は、エレベーターはもう一つあって」。
師匠の指差す方を見れば、降り立ったエレベーターの右手に、もう一つ、扉の高さが2倍ほどある錆付いた巨大なエレベーターが・・・。
「こっちの扉は自動車用です。今は使われていないけど昭和52年まで使われていたんです。で、見てほしいのはその高さ。もともと軍用トラックのために作られたんです。この前の道をまっすぐに行くと、九条新道から、アメリカ村、谷町7丁目、真田山公園を通ってJRの玉造駅に到着します。
反対にトンネルの対岸に出ると桜島の埠頭まで行くんです。何でか。つまり、この道路は戦前、兵器など軍事物資を運ぶために軍用道路として通されたんです。森ノ宮の砲兵工廠から貨車で玉造駅まで運び、桜島の埠頭から戦地へ運ぶ計画やったんですけど、すべての道路がつながるまでに終戦になってこの計画はなくなってしまったんです」。
そんな歴史があったとは!  目の前の源兵衛渡の交差点から、阪神なんば線のシェルターつきの高架と平行して南東方向に道路が延びている。
この道はまた、戦前、軍用道路整備のなかで、寺は立ち退いたが切られずに残った谷町7丁目の交差点近くにある元本照寺の楠にもつながっている。(→第五話にリンク)
 
自動車用エレベーター
の巨大なボタン
JR玉造駅につながるトンネル前の道路。左は阪神なんば線
●「洪水よ、安らかに治まれ! 」河村瑞賢の想いを託す安治川
トンネルの前から安治川に沿って北東に進むと、ひなびた港の風景が広がる。
川沿いの道から一筋南にある国津橋の交差点で立ち止まった師匠。
「国津橋は江戸時代からの橋名で、まさに摂津の国の入口というわけです」。
いまは交差点の名に残るのみだ。
その国津橋すぐ近くにある三角地の茂みに、安治川を開削した河村瑞賢の功績を称える大きな石碑がひっそりと佇んでいる。
「この石は大坂城築城のときに使われなかった残念石ですわ。運搬途中に重いので川に沈んだ石を拾い上げて利用したんです」。
河村瑞賢は、江戸初期の豪商で治水土木の祖といわれる。
「伊勢の貧しい家の子どもとして生まれた瑞賢は、14歳のときに上京して品川のほとりを通ったときに、盆供物のなすびや、きゅうりが流されているのを見つけて拾い集めて、漬物にするんです。そして漬物屋を始めるんですが、店頭売りより積極的に建築現場などに出向いて売り回るうちに大工さんに可愛がられて建設技術を学ぶんですね。
1650年、江戸の大火の時には、家をそっちのけで木曽まで行って材木を買い集めて土木や建築を請け負い、江戸のまちを再建して幕府の信頼を得ました」。
その後、瑞賢は大坂でも活躍して、曽根崎川や木津川の改修や堀江川の開削工事も任されるように。
安治川の開削工事は1684年(貞享元)。なんと瑞賢、67歳にしての偉業だ。
それにしても、今のように重機もない時代に、どうやって?
「工法は、まず川に直径15mほどの溝を無数に掘って、淀川と大阪湾からの水流を防ぐため河口を残して土塀にするんです。湧き水は数百台の水車で汲み上げ、さらに1万ものハシゴを溝にかけ、土砂を人海戦術で運び出す。このような溝を順次掘り続け、長さ3km、幅90mの川幅に広げていきました」。
工事はわずか20日で完了したという。その記録が新井白石の「畿内治河記」という書物に残っている。
「陣頭指揮に長けた瑞賢は、加賀から人を呼び寄せたんです。加賀の人というのは、今でも豆腐屋さんとか風呂屋さんとかが多いんですけど、寒冷地やから忍耐強いんです」。
「完成時の瞬間は、のろしを合図に土塀を撤去。その瞬間、淀川の水流がドーっと大阪湾に流れ込みました。ほんまドラマチックですね。洪水よ、安らかに治まってほしい、それが安治川の語源ですわ。そんな願いをこめて、この河名はつけられたんです。この人たちのお陰で今がある、安治川は大阪人の誇りですね」。
いつもにも増して熱く語る師匠であった。
 
河村瑞賢紀功碑
●奈良の大仏さんの再建を支えた富島
瑞賢の碑からさらに東に歩くと、前号の川口外国人居留地へとつながる。この辺りにはレンガ造りの建物がチラホラと残っている。
「レンガ造りの建物が多いのは、淡路島で作られる良質のレンガがここに運ばれてきたから。この辺りは昔、富島と呼ばれていて、もっと昔は大仏島と呼ばれていたんです」。
江戸時代の古地図を見れば、九条村の北に「大仏シマ」という小さな島がある。
「この地名は、瑞賢が安治川の開削工事を行った1684年、安治川から入ってくる廻船に対して、火災で焼失した奈良東大寺の大仏を再建するために寄付を集める庵が建ったことに由来します。その後、お金がたくさん集まったので富島と呼ばれるようになったんです」。
地名一つにも温かい逸話がある。でも、そんな地名も今はなく、前号でも紹介した赤レンガの「富島倉庫」などにその名をとどめるのみ。かろうじて残っていた「大阪税関富島出張所」も、昨年6月に閉鎖されたという。
富島倉庫
   
 
安治川トンネルを歩いたのは今回が初めて。トンネルがあることは知っていても、こんな歴史が秘められていたことは知らなかった。
歴史を知れば、わが町や郷土に誇りがもてるし、今こうしてあることに感謝ができるというもの。先人たちの苦難を知れば苦境に立たされても生きる勇気や知恵が湧いてくるのではないだろうか。
先行き不安で暗い話題ばかりがクローズアップされる昨今、ピンチをチャンスに変える瑞賢さんら先人に学びたいものだ。
 
 
*次回は、歴史の宝庫、西区の第3弾!! 安治川トンネルの南に位置する九条新道から市岡を歩きます。
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
 
サソ