●「洪水よ、安らかに治まれ!
」河村瑞賢の想いを託す安治川 |
トンネルの前から安治川に沿って北東に進むと、ひなびた港の風景が広がる。 |
川沿いの道から一筋南にある国津橋の交差点で立ち止まった師匠。 |
「国津橋は江戸時代からの橋名で、まさに摂津の国の入口というわけです」。 |
いまは交差点の名に残るのみだ。 |
その国津橋すぐ近くにある三角地の茂みに、安治川を開削した河村瑞賢の功績を称える大きな石碑がひっそりと佇んでいる。 |
「この石は大坂城築城のときに使われなかった残念石ですわ。運搬途中に重いので川に沈んだ石を拾い上げて利用したんです」。 |
河村瑞賢は、江戸初期の豪商で治水土木の祖といわれる。 |
「伊勢の貧しい家の子どもとして生まれた瑞賢は、14歳のときに上京して品川のほとりを通ったときに、盆供物のなすびや、きゅうりが流されているのを見つけて拾い集めて、漬物にするんです。そして漬物屋を始めるんですが、店頭売りより積極的に建築現場などに出向いて売り回るうちに大工さんに可愛がられて建設技術を学ぶんですね。 |
1650年、江戸の大火の時には、家をそっちのけで木曽まで行って材木を買い集めて土木や建築を請け負い、江戸のまちを再建して幕府の信頼を得ました」。 |
その後、瑞賢は大坂でも活躍して、曽根崎川や木津川の改修や堀江川の開削工事も任されるように。 |
安治川の開削工事は1684年(貞享元)。なんと瑞賢、67歳にしての偉業だ。 |
それにしても、今のように重機もない時代に、どうやって? |
「工法は、まず川に直径15mほどの溝を無数に掘って、淀川と大阪湾からの水流を防ぐため河口を残して土塀にするんです。湧き水は数百台の水車で汲み上げ、さらに1万ものハシゴを溝にかけ、土砂を人海戦術で運び出す。このような溝を順次掘り続け、長さ3km、幅90mの川幅に広げていきました」。 |
工事はわずか20日で完了したという。その記録が新井白石の「畿内治河記」という書物に残っている。 |
「陣頭指揮に長けた瑞賢は、加賀から人を呼び寄せたんです。加賀の人というのは、今でも豆腐屋さんとか風呂屋さんとかが多いんですけど、寒冷地やから忍耐強いんです」。 |
「完成時の瞬間は、のろしを合図に土塀を撤去。その瞬間、淀川の水流がドーっと大阪湾に流れ込みました。ほんまドラマチックですね。洪水よ、安らかに治まってほしい、それが安治川の語源ですわ。そんな願いをこめて、この河名はつけられたんです。この人たちのお陰で今がある、安治川は大阪人の誇りですね」。 |
いつもにも増して熱く語る師匠であった。 |
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