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第二十七話
町人文化と大坂商人の心意気が色濃く残るまち、平野 (その1)
 
 
 
文/写真:池永美佐子
天王寺駅からJR関西本線で「平野駅」まで普通電車でたった2駅・・・なのに、手前の大阪東部市場を過ぎた辺りから、活気ある繁華街の景色が一転、高い建物はほとんど見られなくなり、ローカルな下町の風情に変わる。
意外なのは、それだけではない。この駅がある大阪市平野区は、なんと人口が20万人と大阪市内で最も人口の多い区(しかも市内で20万人を超える区はここだけ!)なんだとか。
「あんまり知られていませんが、実は船場商人のルーツもここにあるんです」------大阪案内人、西俣稔さんに、そんな平野のまちを案内してもらった。
 
●河内木綿の産地だった平野。近代の紡績工場の変遷がここに
今回の出発点は、このJR平野駅からスタート。
お久しぶりですね、師匠。
挨拶もそこそこに、駅の南口から東へ、杭全神社に向かう。
「このマンションのあるところ、明治から大正時代にかけては平野紡績の工場やったんです。ほんの14、15年前まではまだレンガの建物が残っていたんですけど」。
途中、1階にスーパー「イズミヤ」のあるマンションの前で足を止めた西俣師匠が、愛用の黒い鞄から1枚のコピー資料を取り出した。そこには田園地帯の真ん中で煙突からもくもくと煙を上げる巨大な工場の写真が。
「もともとここは平野郷と呼ばれて江戸時代には全国に名を馳せる河内木綿の産地やったんです。明治20年(1887)には、平野郷の坂上七名家(さかのうえのしちみょうけ)〜これは後で説明しますが〜その中心的な家筋に当たる末吉家が中心となって平野紡績をつくったんですね。平野紡績は、後に大日本紡績平野工場になりました」。
そういえば、平野区の花も、ワタの花だ。
大日本紡績の社史などの記録によれば、平野紡績は、創業時、造幣局から英語の堪能な菊池恭三技師を引き抜いて、当時、世界最先端の紡績技術を持つマンチェスターで研修させるなど先進的な経営を行ったとされる。しかし、経営不振になり摂津紡績と合併、さらに大正7年(1918)、紡績に吸収合併され、大日本紡績(後のユニチカ)となるが、戦後の繊維不況でこの工場は閉鎖されたという。
 
 
平野紡績跡に建つ
マンション。
前に鎮守の森が広がる
 
 
●「ひろの」が訛って「ひらの」に! 開拓者、坂上広野麿の功績が息づくまち
マンションを通り抜けるとすぐ前には、みずみずしい新緑に覆われた杭全(くまた)神社が広がる。まさに鎮守の森だ。
「杭全神社と呼ばれるようになったのは、明治時代から。それまでは平野郷社とか、高野街道に通じるということで熊野権現社と呼ばれていたんです」。
「ところで平野という地名の語源は知ってます?」
う〜ん、それはやっぱり平べったい台地やからと・・・。
「諸説あるけど、平安時代初期にこの領地を開墾した渡来系の領主、坂上広野麿(さかのうえのひろのまろ)の広野が訛って平野になったといわれているんです。広野麿の父親は平安時代の征夷大将軍、坂上田村麿(たむらまろ)です」。
坂上田村麿は、現在の東北地方にあたる陸奥国で勢力を持っていた蝦夷を倒して、桓武天皇の側近として名をあげたとされる人物だ。
それにしても杭全(くまた)なんて、放出(はなてん)や柴島 (くにじま)と並ぶ解読不能な大阪地名ですね〜!
「当て字なんです、杭全は。平野より前からあった名前で、この辺りは杭全荘と呼ばれていたんです。川の分岐点を杭とか川俣と言いますね。それで大和川の支流が多いこの辺りを「杭俣(くいまた)」としたのが、いつの間にか「俣」が「全」に当て字されたんやと思うんです。全は「まったく」とも読むから。僕も西俣やから「西全」に変えようかと(笑)」。
樹齢千年という杭全神社の
クスノキ
 
 
 
●江戸時代から残る連歌所と、平野で復活した連歌会
杭全神社は、坂上広野麿の子孫、坂上当直(とうどう)が、素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祭神として862年に創建したとされる。
境内に入ると拝殿の後ろに、三本殿がある。
「本殿が3つあるんです。もともとは春日大社を移設した建物といわれ、神社の原型ですわ。向かって一番左が第一殿で素盞嗚尊を祀っています。第二殿、第三殿の祭神は、熊野権現です。どの本殿も何べんも焼失して室町から江戸時代に再建されています」。
これらの三本殿は建物は国の指定重要文化財になっている。
「この神社で、もう一つ見てほしいのが、ここなんです」。
師匠について拝殿手前にある社務所の横を曲がると、社務所と棟続きになった瓦屋根に白壁の風流な建物が現れた。
「これは全国で唯一現存する、江戸時代の連歌所です。室町時代に建てられたものは大坂の陣で焼かれて、今あるのは宝永5年(1708)に再建されたものです。複数の参加者で一句をひねる連歌は、しりとりゲームみたいな粋な遊びやけど。「あげくの果て」という言葉ありますね、これも連歌の最後の句「挙句」を指す言葉から生れたんです」。
中世から近代にかけて庶民の文芸として流行した連歌。江戸時代までは各地の神社で連歌会が催されていたが、明治以降は衰退し、近年は見かけられなくなっていた。そんな中、平野では昭和62年(1987)に町の人たちによって「平野法楽連歌会」が結成され、この連歌所で毎月1回定期的に連歌会が開かれている。この建物は大阪市指定文化財になっている。
杭全神社の本殿
 
今も残る連歌所
●信長に抵抗した平野の人々。平野は環濠都市だった!
樹木が生い茂る杭全神社の境内には「平野環濠跡」の石碑がある。
「堺と同様に町民が運営する自治都市の平野郷は、水路と土塁で囲まれた環濠都市やったんです」。
確かに碑のある付近は、土が盛り上がっている。
「平野郷は交通の要で、南北朝から戦国時代にかけて何度も戦禍に巻き込まれるんですね。それで、この土地を仕切っていた坂上広野麿の子孫の七名家(しちみょうけ)が中心となって環濠をつくって町を敵から守ろうとしたんです。とくに織田信長は巨額の軍資金を堺と平野と石山本願寺に要求するんですけど、石山寺が十年戦争の後で権力に屈して要求に応じてしまう中で、堺と平野は手を組んで戦おうとしたんやね。結局は折れて信長の直轄地になってしまったけど」。
「次は水路を」と、今度は一旦境内を出て神社の東側へ。そこには、幅3mほどの堀あって水が流れている。このすぐ東側には環濠と並行するように平野川が流れている。
灌漑や洪水の調節池も兼ねていたようだ。
「長い間放置されてひと昔前までドロドロに汚れていたけど、神社さんや町の人たちの町おこしの活動によってきれいな川に蘇りました。今では魚も住むほど」と師匠。
桜の並木に覆われた水路は300mほど続き、さらさらと清流が流れている。
神社の周辺では、白衣に浅黄色の袴をつけた若い神官が、竹箒で静かに道を掃いておられる。
清清しい気持ちになった。
「平野環濠跡」の石碑
 
杭全神社に残る環濠
●日本で最初にできた町人私塾「含翠堂(がんすいどう)」
杭全神社を出て参道を南に下ると大鳥居があり、国道25号線の宮前交差点に出る。
「この道は、かつての奈良街道ですわ。南北朝時代から交通の要衝であるとともに、楠木正成の合戦とか、さらに飛鳥時代まで遡れば物部守屋と蘇我馬子の戦いとか、たびたび戦いの舞台になったところです」。
ちなみに、奈良街道と交差して大鳥居の前から南に伸びる道は、高野街道。国道を渡って少し南に入った所にところに、右・「かうや山(高野山)・大峯山上・ふぢゐ寺(藤井寺)」と刻まれた道標が立っている。このほか大和河内信貴山道、大和街道、住吉堺道など多くの街道が平野郷から放射状に伸びている。
宮前交差点から国道沿いに少し東へ行くと、宮前東交差点の脇に「含翠堂(がんすいどう)跡」と書かれた石碑が立っている。
「含翠堂は享保2年(1717)につくられた町人学舎です。創設したのは平野に住む好学の同志で、その中心となった土橋友直もまた、広野麿の子孫である七名家の一人ですわ。身分の隔たりなく勉学ができるようにと算術や天文学、医学なんかを教えていたんですね」。
とくに師匠が注目するのは、創設の時期。大坂の私塾としては緒方洪庵がつくった「適塾」や、大坂商人たちが開いた「懐徳堂」が知られるが、その懐徳堂よりも7年早く日本初の町人私塾とされる。含翠堂はその後、明治5年(1872)学制公布で閉校されるまで約150年もの間、続いたというから驚く。
「それと、何がすごいかというと、ちょくちょくみんなでお金を集めたり米を貯えたりして、災害や飢饉のときに一斉に放出して人助けをしたことです。単に学ぶだけの場所ではなくて、人を救済するための学びの場所やった。ここに自治組織をつくった平野の町人たちのすばらしい精神が脈々と生きているんです」。
一方、この宮前東交差点の北西角を少し北に入った民家の角には「含翠堂址」の碑が。
「さっきは大阪市ですが、こっちは大阪府が建てたもので、その玄関があった場所ですわ」。
平野では、現在、町おこしの活動をする人たちの間で「含翠堂講座」が開かれている。
大鳥居の近くにある道標
「含翠堂跡」の碑
「含翠堂址」の碑
町人たちによって脈々と伝承されてきた自治の精神と、商いや勉学にかける心意気。まさに「船場のルーツの一つは平野にあり」という感じだ。
やっぱり、歩いてみなければ分からないことって、いっぱいある!
*次号はこの続き、平野から加美の界隈を歩きます。
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。
これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
 
サソ