FUJITSU ファミリ会 関西支部関西支部FUJITSUファミリ会  
関西支部トップ > WEB連載>第一話>第二話>第三話>第四話>第五話>第六話>第七話>第八話
  >第九話>第十話>第十一話>第十二話>第十三話>第十四話>第十五話>
第十六話>第十七話>第十八話>第十九話 >第二十話 >第二十一話 >第二十二話 >第二十三話
第二十四話 >第二十五話 >第二十六話 >第二十七話 >第二十八話 >第二十九話 >第三十話
第三十一話 >第三十二話>第三十三話
第三十四話
渡し舟で向かう大正区
〜昭和山とリトル沖縄に秘められた歴史〜
 
 
文/写真:池永美佐子
大阪市内の西に位置し大阪湾に面する大正区は、江戸初期から新田開発によって開かれた土地。また区内人口の4分の1を越す沖縄県出身者が暮らし、「リトル沖縄」と呼ばれる町でもある。
そんな大正区の知られざる歴史に触れる街歩きの後編。前号では三軒家から大正橋を渡って東側にある南海汐見橋駅(浪速区)に向かったが、今号はここから電車で津守駅(西成区)まで行き、渡し舟で再び大正区に入る。解説は大阪案内人の西俣稔さん。
●日本初の私鉄電車、南海電車
南海汐見橋線の始発駅「汐見橋」から「津守」までは駅3つ。古い民家や工場などが入り混じった下町をすり抜けるように電車が進む。さっそく師匠の講義が始まった。
「南海電車は日本で一番古い私鉄電車なんです」。
へぇ〜! 恥ずかしながら南海沿線の住民なのに知りませんでした・・・。
「その電車もまだなかった時代の話です。住吉大社の前の紀州街道に大黒さんのように肩に大きな袋をかついだ人が立っていたんです。袋には豆が入っていて、人が通ると小さな豆を一粒、人力車やと大きな豆を1粒渡したんです。この人こそ南海電鉄の創始者、松本重太郎ですわ」。
で、重太郎さん何をしてはったんですか?
「交通量調査です。袋の中に残った豆を数えることで紀州街道を通る人や車の交通量を調べていたんです。その結果、これは行けるということで紀州街道に走らせたのが、南海電車の流れを組む阪堺鉄道です」。
調べてみると、「大阪堺間鉄道(阪堺鉄道)」が設立されたのは明治17年(1884)。重太郎はそれから11年後の明治28年(1895)、さらに堺から和歌山までの南海鉄道を設立し、その社長となったとされる。
南海汐見橋駅
 
●由緒ある地名「津守」と「西成」
5分ほどで電車が津守の駅に到着した。
「津守という地名は奈良時代からある由緒ある地名なんです。昔は摂津国西成郡津守郷と呼ばれていました。もともと「津守」とは難波津(なにわづ)を守る任務を受けた人の職名やったんです。職名から姓を授かった津守氏は後に住吉大社の神主を担っていきます」。
駅の前には津守公園が広がるが、フェンスが張られて駅前からは入れないようになっている。
「ホームレスの人が進入しないようにしているんでしょう。その是非は別として、この広大な土地は大日本紡績西成工場の跡地です。大正時代には、隣にある西成高校の敷地と合わせて全部工場で4000人の人たちが働いていたんですけど、昭和20年の大空襲で焼けてしまったんです。明治以降、大大阪 (だいおおさか)が発展していく中で紡績工場は非常に重要な役割を担ってきました。以前行った天満の天満紡績跡(→13号にリンク)や平野紡績跡(→27号にリンク)も同じですわ。都島区のベルパークシティは鐘淵紡績の跡地です。
現在、その大半が公園や高層住宅に変わっています」。
 
「私は西成という地名にも深い思い入れがあって、ここを通るときにいつも話すんです」。
公園の隣にある西成高校の正門の前で師匠が立ち止まった。
「西成も奈良時代から続く地名で、もともと上町台地の尾根の西に生まれた、つまり成ったという意味です。東は東成郡ですね。西成郡はものすごく広域で、大正14年まで現在の東淀川区も西淀川区も此花区も全部西成郡やったんです。それが人口増加でどんどん新しい区ができていって現在に至ったんですね」。
南海津守駅
由緒ある地名を残す
「西成高校」
●いまも7つの渡し舟が大正区に
西成高校の校舎の北側の道を西に進むと、木津川の堤防に出る。
堤防を上がると、幅の広い川に巨大なアーチ型水門がかかる港町の風景が現れた。
「ここは落合上渡。渡し舟の船着場ですわ。大阪には現在8つの渡し船着場があって、その7つが大正区にあるんです」。
大阪市内にこんな風流な乗り物があったとは!  でもこの時代になんで渡し舟?
「大型船が通れるように橋が架けられないんです。橋の代りなんで料金は無料です。大阪市がお金を出して民間委託しているんです」。
はしけで待っていると、小型の渡し舟がやってきた。下船する人は20人ほどいるだろうか。自転車を押している人もいる。入れ替わりに乗り込むとすぐ舟が出た。
「落合の由来は川の合流点ということ。木津川と三軒家川が落ち合うところです」
師匠の言葉通り、川幅の広い2本の川がこのあたりで合流している。
「北に見える難波島跡は1699年に河村瑞賢が木津川の水を直に流すために切り開き、東半分は月正(がっしょう)島と呼ばれていました」。
そんな話に聞き入りながら、寒風すらも心地よく感じるのどかな船旅。でもたった40秒で対岸に到着。向こう岸に渡るのに電車やバスに乗り継ぐと1時間近くかかるらしいけど。
「ありがとうございました」「お世話様でした」。
降りる際に船員さんと笑顔で交わす何気ない挨拶が心を温かくしてくれる。
舟は1時間に4便。ここだけでも1日に500〜600人が利用しているそうだ。
 
「落合上渡」の船着場
船上からアーチ水門を臨む
●標高33m! 地下鉄工事で出現した昭和山
渡し舟で再び大正区に渡るやいなや「さあ、今度は登山です」と師匠。
ひぇ〜! 船旅の次は登山ですか?
山があるという千島公園に向かう道中、再び大正区にある地名の由来について解説を。
「このあたりの新田開発をした人が岡島嘉平次です。現旭区の千林村の出身で、千林の千と岡島の島を合わせて「千島」になったんです。「北村」は北村六右衛門、「平尾」は平尾与左衛門に因みます。「泉尾」という地名は、北村六右衛門の出身地である和泉国踞尾(つくお)村の泉と尾を合わせたものです。ちなみに堺市津久野は「踞」の字が常用漢字になくて当てた字です。この先にある「恩加島(おかじま)」は、岡島嘉平次の功績を幕府が称え、名が代々残って恩が加わりますように、との願いをこめて付けられた地名です。本当にすばらしい地名です」。
千鳥公園は、公園というよりも森のようだ。面積は約11万uあるという。木々に覆われた坂登っていくと鳥の鳴き声がいっそうにぎやかになる。息切れがし始めた辺りで、いきなり視界が開けた。
「標高33mの昭和山の頂上です。北海道の昭和新山と違ってこの山は噴火しないから大丈夫ですよ(笑)。大阪市内では鶴見緑地にある鶴見山に次いで2番目に高い人工の山です。もともとは大正時代に貯木場や製材工場が建設された場所で、昭和44年の地下鉄谷町線工事の際に上町台地を掘り出した土を積み上げたんです。その土は、なんとダンプカー57万台分! 今ではこんなに木々が茂り、鳥も宿る小さな森林になっています」。
昭和の名は、天保の初めに安治川川浚えの土砂で築いた天保山にちなんで、こちらは昭和にできたので付いたという。
「港の見える丘」と呼ばれる山頂からは、生駒山や金剛山から六甲山までがパノラマ状に広がり、大阪湾にかかる「なみはや大橋」や「港大橋」も見える。
 
昭和山山頂
●大正区に沖縄出身者が多いわけ
昭和山を下山して大正区役所横にある千島グランドにたどり着く。
「ここでは毎年9月の中旬にエイサー祭りが開かれるんです」。
エイサーって、あの沖縄の?
「そうです。三線(さんしん)に合わせて太鼓を叩く、力強い琉球舞踊です。関西からエイサー隊が集まり、朝から延々と鳴り響いています。会場には泡盛やゴーヤチャンプルーとか沖縄料理が並んで夕暮れには数千人の参加者と一体となって盛り上がります。区内人口の4分の1が沖縄出身者ならではの光景ですわ」。
でも、大正区はどうしてそんなに沖縄の人が多いのですか?
「第一次大戦終結の1918年頃、世界的な大恐慌の中で産業が少ない沖縄では深刻な経済状態が続いていたんです。『ソテツ地獄』って聞いたことありませんか? 食べるものがないんで猛毒といわれるソテツを食べていた人もいました。前借金と引き換えに子どもを糸満の漁港に働きにやる「糸満売り」というのもありました。一方、大阪の湾岸では重化学など工場地帯が発展して労働力を必要として、とくに大正区は那覇から大正港の航路ができたことで紡績や造船、製材、運河開削などに多くの沖縄出身者が出稼ぎに出たんですね」。
そういえば、公園の樹木もソテツだ。街角を歩くと、ここそこに「沖縄」が息づいている。玄関に置かれている勇ましい置物は、沖縄に伝わる厄除けシーサー。どこからか三線の音も聞こえてくる。
千鳥公園前で1階に沖縄ツーリストがある建物は「大阪沖縄会館」。館内では民芸品や物産も販売していて琉球舞踊や民謡の会などもある。この会館の南にあるのは「関西沖縄文庫」。エイサー祭り実行委員会があり、沖縄のみならず奄美諸島の文化や歴史の情報拠点として6千冊に及ぶ図書を置いて貸し出ししているほか、三線教室や講演会も開いている。
「リトル沖縄」と呼ばれる平尾商店街の南には、師匠おすすめの沖縄民謡酒場「うるま御殿」がある。沖縄料理や泡盛とともに沖縄民謡や宮中舞踊、琉球の獅子舞などのライブで盛り上がる。
うるま御殿の東側にある亥開公園(旧南恩加島東公園)には、前号で紹介した「大阪俘虜収容所」(→前号にリンク)の説明板があり、収容所全景とドイツ兵捕虜のオーケストラの写真プレートが展示されている。
「沖縄といえばリゾートや癒しといった面ばかりが注目されるけど、いつも本土の捨石になっている苦難の歴史を忘れたらいけません。歴史を知り、いろいろなことに目を向けてほしいですね」と師匠が締めくくった。
 
平尾商店街
亥開公園(上)と大阪俘虜収容所のオーケストラ(下)
路面電車や渡し舟に乗り、挙句は登山まで!  大阪でこんなにローカル色豊かな街歩きができることを驚かずにはいられない。
それにしてもこの街を歩いて感じたのは、歴史を学ぶことの意味。先人たちの知恵や苦難の上に「今」があるということ。そして、その教訓を活かし、平和で一人ひとりの命や尊厳を大切にする世の中をつくっていくことが大切なんだということをあらためて思う・・・。
 
※次号は大阪市中央区から浪速区にかけて、難波界隈を歩きます。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ユニークな大阪ガイドを引き受けている。
これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
 
サソ