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第二十話
今も残る大坂城の外堀、「東横堀川」の橋が語る歴史
 
 
文/写真:池永美佐子
かつて「天下の台所、大坂」の中心地として栄えた船場。そのエリアは広く、東は東横堀川から西は旧西横堀川、北は土佐堀川から南は旧長堀川の4つの川に囲まれた一帯だった。
前回は船場の中心地である淀屋橋から北浜に広がる北船場を歩いたが、今回はその続き。北浜を基点に、秀吉の時代に大坂城の外堀として開削された「東横堀川」の川筋へ。ナビゲーターは、わが街歩きの師匠、大阪案内人の西俣稔さん。
●銀行街に残る「旧鴻池家本宅跡」と「天五に平五十兵衛横丁」の碑
適塾を出て、今橋通りと難波橋筋の角に「旧鴻池家本宅跡」の碑がある。
「ここは徳川時代の豪商といわれた鴻池財閥の本宅の跡。東大阪市に鴻池新田という地名があるけど、鴻池家は、もともとは伊丹出身の造り酒屋。江戸時代、この豪商の娘に惚れた丁稚が振られた腹いせに作った酒樽に灰を投げたところ、濁り酒がなんと澄んだきれいな清酒になったともいわれているんです。これが清酒の始まり。鴻池家はこれで儲けたお金で新田を開発したり両替商をしたりして大豪商になっていったんですね」。
へ〜、鴻池といえばゼネコンさんかと思っていたけど。当時の鴻池財閥と現在の「鴻池組」とは直接の連続性はないとのこと。
三代目の鴻池善衛門の弟又四郎は、前回紹介した官許学問所「懐徳堂 」の設立にも尽力した人物。
それにしても、鴻池家のお嬢様が丁稚さんを袖にしなかったら、今頃も日本酒は濁り酒のままだったかもしれない。何が幸いするか分からないものだ。
ちなみに、鴻池銀行と山口銀行と第三十四銀行が合併してできたのが、かつての三和銀行。
「三つの銀行が仲良く調和するようにとの願いを込めて付けられた名前ですわ。せっかくのいい名前が今はなくなってしまって、ほんま残念」。
鴻池家本宅跡に建つ鉄筋4階建ての「大阪美術倶楽部」は、美術品の取引市場を兼ねた貸しホールになっている。
堺筋を越えて北浜1丁目に出る。この辺りは、江戸時代から両替商など金融街として栄えてきたところ。
今橋通りと八百屋町筋の角にある開平小学校の脇で師匠が立ち止まった。路上に「天五に平五十兵衛横丁」という、意味不明な石碑がある。
「天五に平五は、両替商の天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛のこと。つまり、二人とも当時の有力な両替商やったんです。向かい合わせに店を構えていたんで、足して十兵衛横丁ですわ」。
なんと粋な! やっぱり大阪人の遊び心は光っている。
 
 
旧鴻池家本宅跡に建つ
「大阪美術倶楽部」
 
「天五に平五十兵衛
横丁」の碑
●東横堀川の東の地名に「内」がつくワケは?
十兵衛横丁の角を東に進むと堺筋と並行して東横堀川が流れる。
「東横堀川は1585年、秀吉によって大坂城の外堀として開削された人工の川です。川の東に並ぶ一帯は、内平野町、内淡路町、内本町、内久宝寺町と、みんな内がついています。それは、東横堀川をはさんで東側はみんな大坂城の城内やったから」と、師匠が話す。
川の上には、阪神高速道路環状線が覆うように走っている。
「高速道路を作るときに川なら国の所有やし、用地確保もし易く、建物を壊す必要がない。大阪市内の高速道路の多くが堀川の上にあるのはこのためなんです」という。
東横堀川には、八百八橋といわれた大阪の橋の中でも知られざる秘密を持った橋が多い。師匠に解説してもらった。
 
東横堀川
 
●花街に通じる橋だった「葭屋橋」と料亭「花外楼」
まず、東横堀川の北端、土佐堀通の一部として大川からの分流点に架かっているのが「葭屋橋(よしやばし)」。
「名前の由来は、1784年(天明4)、この橋の西詰めにあった築地、蟹島の開発者、葭屋庄七にちなんでいるんです」。
築地は埋立地で、江戸時代はこの辺りは旅館や料亭が立ち並ぶ花街だったという。葭屋橋は花街に通じる橋だった。
時代を経て、いまも葭屋橋のすぐ西、土佐堀通の北側に残る高級料亭の「花外楼(かがいろう)」が残る。
「加賀の国から出てきた伊介という人がこの地で開いたのが始まりで、開店当初の屋号は、「加賀井」という字やったんです。1875年(明治8)には、大久保利通、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文、井上馨がここに集まって立憲政治の改革を話し合う、いわゆる大阪会議が開かれたんです。この会議の成功を祝って木戸孝允から贈られた屋号が「花外楼」なんですね」。大阪は政治の中心地でもあった。
建物の外壁には、5人のレリーフ像が掲げられている。
 
花外楼の外壁にある
5人のレリーフ像
●今、できたから「今橋」
葭屋橋のすぐ南にあって、葭屋橋に対してV字型に架かっているのは「今橋」。
「この橋、なんで今橋と言うか、知ってます?」
師匠の質問に間髪をはさむ余地なく、説明が続く。
「今、まさに橋ができた、という意味ですわ」。
もぅ、冗談はいいから…。
「いや、ほんま。その喜びをこめて付けたんです。ちなみに西淀川区にある出来島も、江戸時代の新田開発でよう出来た、その嬉しさをそのまま表現したもの。昨今の意味不明な言葉と違て、ほんま昔の人が付けた名前は素直でええねぇ」と、しみじみ師匠が言う。
今橋の西の地区は、ずばり「今橋」の地名が付けられている。
 
親柱がつながってV字に
架かる今橋(左)と葭屋橋(右)
●多くの街道の起点だった「高麗橋」
南に進むと、擬宝珠(ぎぼし)のある欄干に四角い塔のような建物を乗せた親柱をもつ橋が現れる。この橋は「高麗橋」。
「橋名の由来は、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館、難波高麗館があったから。日本と朝鮮半島の友好のシンボルの橋やったんです」。
高麗とは古代の朝鮮王朝だが、「コリア」の語源でもある。師匠によると「日本では「こま」とも読み、平野区を流れる駒川も高麗に起因する」という。
ところで、この風変わりな親柱は何なんですか?
「見張り櫓(やぐら)やね。江戸時代、ここは東海道五十七次の一部である京街道の起点で、中国街道、紀州街道、亀岡街道の起点でもあったんです。船賃や馬賃も、ここから距離計算していた。それで橋の袂には、通行人を監視する見張り櫓があったんです。橋の東詰めには里程元標(りていげんぴょう)の碑も残っています」。
里程元標とは、道路の起終点を示す工作物のこと。
もちろん最初の橋からは何度も架け替えられている。現在のアーチ型をした鉄筋コンクリート製橋は、明治4年(1871)大阪初の鉄橋に架け替えられた後、昭和4年(1929年)に生まれ変わったもの。
橋の周辺地域も「高麗橋」の地名が付いている。
高麗橋の親柱と
里程元標碑(右)
 
●大塩平八郎と因縁の深い「平野橋」
その南に架かる「平野橋」は、この東西の平野町に由来する。
「平野町は、ここに秀吉が城下町をつくる際に平野郷(平野区)の商人を移り住ませたことに起因する地名です。平野郷はもともと大勢の商人や文化人を輩出した土地。そして平野橋は大塩平八郎ゆかりの橋でもあるんです」。
大塩平八郎といえば、天保の大飢饉で苦しむ農民を救おう立ち上がった江戸期の英雄。この歴史散歩でも何度も登場している。
「その大塩が鎮圧する幕府軍と交戦したのが、まさにこの橋の東詰めの場所。でも、残念ながら奉行所の兵に追い詰められ、橋を渡った大塩が敗れたのがここです」。 と、師匠が立ち止まったのは平野橋の東詰めの角。
「そこから逃亡した大塩は仲間の民家に匿われるんやけど、そうとは知らない女中さんが、平野にある実家に帰った折に、最近なぜかご飯の減る量が多いと話したのがきっかけで隠れているのがお上にバレて、捉えられるんです」。
しかし、大塩平八郎の乱がきっかけで庶民の怒りは農民一揆へと広がり、30年後には維新を迎えることになる。路上では、170年前のそんな大事件の痕跡もなく、人や車が忙しそうに行き交っている。
 
 
●別名「思案橋」。行き止まりの大手橋のナゾ。
次に架かる大手橋は、「東横堀川にかかる橋の中で、ちょっと他にはない特徴を持っている」という。
それは、他の橋は、渡ると道が十字路になっていて、東西の道に真っ直ぐつながるのに、この橋は西詰めで行き止まりになっていること。なぜか?
「ヒントは橋名。大手とは大坂城の大手門のこと。つまり、この橋は大坂城に通じているんですけど、それでは敵に城への道を教えるようなもの。敵を欺くために戦術的に橋の西の道をT字型にして直に入れないようにしているんです。城下町の道がT路や袋小路になっている基本的なつくりです」。
ちなみに、大手橋の名は大正時代から。それまでは右か左か迷うので「思案橋」と言ったそうだ。
大手橋
 
●太閤さんが曲げた?!阪神高速道路
大手橋の南にあるのは「本町橋」。
「本町という地名は、全国の城下町にある地名で、まさに商人の中心の町という意味」。 船場の中心地にある本町橋は、北御堂の参道でもあった。
現在の橋は、今から95年前の1913年(大正2)に築造されたもので、市内に現存する橋としては最古のもの。
「ここで、ぜひ見といてほしいものがあるんです」と、師匠が指差したのは、本町橋から少し南に下った東横堀川の川筋。「ほら見て、川が左に曲がっている」。
「ここは、江戸時代から本町の曲がりと呼ばれていたところ。おもしろいのは、それに合わせて川の上を走る阪神高速道路も曲がっていることですわ」。
確かに、川を覆って走る高速道路の橋脚を見上げると、まっすぐだった道路が川筋に沿ってキューンとカーブしているのが分かる。けど???
「東横堀川は秀吉の命で作った人工の川やけど、何で真っ直ぐに作らんかったのか。それは、ここに浄国寺という寺があったからですわ。信心深い秀吉は、寺まで潰すなとこの寺を避けて開削したんですね。その川の上に作った高速道路が曲がるのは必然。このせいで毎日、何万人というドライバーがここでカーブを切っているんです」。
確かに。さすがの太閤さんも、まさか400年以上も後の世に、自分が開削した川の上に道路が走るとはゆめゆめ想像もしなかったに違いない。
現場には今や浄国寺はなく、地元の人たちが奉っているお地蔵さんに、かろうじて「曲がり」の由来が記されている。
曲り渕地蔵尊
 
普段はあわただしく通過するだけのビジネス街や高速道路の下を流れる川に、先人たちの知恵やこんな壮大なドラマが隠されていたとは!
謎解きをしながら歩く道は、過去と未来をつなぐタイムトンネルでもある。
 
 
*次回は、大阪文明開化の地、川口(西九条)を歩きます。
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
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