●シャッター1枚にも込められた歴史。生きるパワーみなぎる国際マーケット |
鶴橋駅の高架下には、迷路のように延びるアーケード街が広がる。ここ国際マーケットは、約14万人という生野区の人口4分の1を占める在日コリアンの胃袋を支える台所でも。幅2mほどの道の両側には真っ赤なキムチや、カラフルな民族衣装を売る店が、所狭しとひしめき合っている。店頭に並ぶお惣菜の色香に心を奪われていると「この幅に注目して」と師匠が、シャッターの下りた店の前で両手を広げて立ち止まった。 |
「1間180センチ、これが大事なんや。戦後闇市の跡が陣取り合戦になったときに、日本に渡ってきたオモニたちが警察の弾圧にも屈せず、絶対に渡すまいとバラックを立てて守り抜いた、その寝床のスペースなんやね。この幅に歴史の足跡がある」。 |
マーケットを通り抜けると、道幅の広い鶴橋本通に出る。
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そこで師匠がまた1軒の建物を指差した。見れば、香港映画に出てくる九龍城みたいな恐ろしく古びた建物。レンガ塀に取り囲まれ、中庭にも家が増築されている。 |
「キョンチャルアパート、地元の人はこう呼んではる。1年ほど前からもう誰も住んでいないけど。キョンチャルとはハングルで警察。つまり警察アパートやな。なんでこんな名前がついてのか、誰に聞いても分らへん。ところが」。
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師匠がおもむろに鞄から取り出したのは、大正14年に作られた古地図。 |
「ここに載っていたんやね。なんと戦前まで鶴橋警察やった」。 |
いつからかは定かではないが、警察跡に人々が住み始め、民間アパートになったという。築100年以上のアパートの正式名称は「新共栄荘」。間口は狭いが、奥行きが長く、2階建ての建物の中には、なんと4畳半と10畳の部屋が55室も! これは、取材に同行させてもらった毎日新聞・松井宏員記者のその後の取材成果だ。 |
「動乱期を生き抜いてきた人たちのパワーを感じる」と師匠。近く取り壊されるそうだが、激動の時代の生き証人のようなこの建物に、思わず"お疲れ様でした!"と頭を下げた |
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●今はなき旧平野川を挟んで栄えた、木野村と猪飼野村 |
鶴橋本通の商店街を突きぬけ車道を越えると、辺りは一転して白壁板塀の民家が連なる和風情緒漂う街並みに。 |
師匠が手にする明治時代の地図によれば、ここは東成郡「木野村(このむら)」と呼ばれたところ。川をはさんですぐ横に「猪飼野村(いかいのむら)」が控えている。猪飼野の地名は、昭和48年の町名変更で消されたが、もともとイノシシを飼育する猪飼部が住む地という由緒ある地名で、日本書紀にも記されている「猪甘津(いかいつ)」がルーツ。 |
「明治時代には、まだまだ在日コリアンは少なかった。ところが旧平野川はくねくねと蛇行して何度も洪水があったために、大正8年(1919年)から新しい川が開削されたんや。それが今の平野川。明治43年(1910年)から始まった日韓併合という名の朝鮮半島支配とあいまって、この工事に多くのコリアンが半島からやってきて日本人の半分の賃金で過酷な労働に就いたんや。生野区に在日コリアンが爆発的に増えた理由の一つに、このことがある」。 |
いま私たちが享受している平和で安全で豊かな暮らし。この時代の後ろにあるものに、私たちはもっと目を向けなければいけない。
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かいわいには二つの神社がある。旧木野村の氏神「弥栄(やえ)神社」と、旧猪飼野村の氏神「御幸森(みゆきのもり)天神社」だ。明治以降、村に神社は一つと定められたにもかかわらず二つあるのは、今はなき旧平野川をはさんで二つの村があった証しでもある。
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御幸森天神社に掲げられた略記には、「仁徳天皇は鷹狩の折、我国に渡来し先進文化を伝えた百済の人々の状態をご見聞になる道すがら度々当地の森でご休憩された」とある。
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「仁徳天皇の存在については議論されるけど、先進技術を伝えた百済の人々に対して敬意の念をもたれたと神社の歴史に記されているわけや。すばらしいことやね」と師匠。
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