●神戸よりも早く、西洋文明を開花させた川口外国人居留地
|
ここから北西方向にある木津川橋を渡って、木津川と安治川の間に挟まれた三角地帯が「川口地区」。明治元年の大阪開港に伴い、新たに作られた治外法権の外国人居留地で、イギリス人、アメリカ人、オランダ人などの欧米系の商人やキリスト教関係者が定住した。 |
「外国人居留地ができたのは、堺事件がきっかけです。堺事件は慶応4年(1868)、土佐藩士が堺港に上陸したフランス兵十数名を言葉の行き違いから殺傷してしまうんです。これに対してフランス側は、高額な賠償金と土佐藩士20人の切腹を求めてくる。それで11人が切腹したところで、あまりにもむごたらしいその光景にフランス側がもういいと切腹を中断させた事件なんですけど。風習や言葉の違いが国際問題に発展するなら、外国人と生活の場を分けたほうがいいということでできたんです」。 |
居留地にはレンガ造りの洋館が並び、牛乳、パン、ラムネ、メリヤス、マッチ、洋傘、洋服、靴、オルガン、クリーニング、精肉などを売る店や、洋食、中華の食堂、カフェなど、あらゆるハイカラな店が次々と現れた。 |
「この地から西洋文化が大阪各地に広がっていったんですね。まさに文明開化発祥の地なんです。また、キリスト教宣教師たちの努力によって、私立のミッションスクールが作られた、私学の発祥地でもあるんです。プール学院、梅花学園、大阪女学院、大阪信愛女学院、桃山学院、平安女学院・・・ちなみにプールという校名は、人名に因んだもの。プール付きの学校とかいうのとは違いまっせ(笑)」。 |
へ〜、伝統校なのにほとんど伝えられていない真実が、こんなところで明らかに! |
でも、そんな居留地が、いまほとんど消えてしまっているのはどうして? |
「昭和20年の空襲で焼けてしまったから。しかし、それ以前にも理由がある。安治川の川幅が狭く大型船が入港できないので国際港が神戸に移っていったんですね。居留地の制度は、明治32年(1899)の不平等条約改正によって廃止されて衰退していきました」。 |
一方、外国人居留地として区切られたこの一角のほかにも、日本人も一緒に住むことが認められていた「川口雑居地」があったという。外国人居留地から少し西にある川口聖マリア幼稚園の横に「川口雑居地跡」の案内板が立っている。 |
「ここは主に中国人が住む中華街ですね。中国人が経営する理髪店やおいしい中国料理店も多く、理髪店はここが発祥の地といわれています。でも、ここも空襲で無くなってしまって・・・」。 |
どちらの居留地も、戦後再建していれば神戸に負けない観光地になっただろうに・・・。 |
|