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第十三話
日本の近代化を担った大阪偉人ゆかりの地
〜天満宮かいわいを歩く
 
 
文/写真:池永美佐子
「住みたい地域ランキングで大阪は何位やと思う?なんと全国47都道府県中47位! なんでやねん」。大阪を愛する街歩き師匠、西俣稔さんがいつもにも増して憤っている。
「大阪の人間はがめつい、マナーが悪い、こわい。大阪の文化といえばたこ焼きだけ・・・メディアが作りあげたこんなイメージが浸透してしまったせいや。毎日毎日テレビから垂れ流される汚い大阪弁。しかし実際にはあんな大阪弁は使いませんわな。あんさん、しっかりしぃやぁとか。きれいな言葉があるのに。ホンマの大阪は、もっといろんな多様性があって豊か。何より日本の文化や近代化を担ってきた要の地なんやから」。
今年度最初の歴史散歩は、こう話す西俣さんの案内で、大阪文化のヘソともいえる天満かいわいを歩いた。
●秀吉が造った今はなき天満堀川の遺構を求めて
今回は師匠の持参した1800年の地図を片手に、地下鉄淀屋橋駅の北詰にある大阪市役所前からスタート。第2話ではこの橋の下に広がる中之島公園と淀屋橋の南側を歩いたので今回は中之島公園の北岸を東に歩く。
天満警察署の前に大きな鳥居がある。天神祭りで舟入りに通るために造られたものだが、現在の鳥居は明治43年の築造。
「その以前にあった鳥居は前年の明治42年、北の大火で焼けてしもたんやけど、なんと1年後にはこんな立派な鳥居が再建されたんや。そういうところに街の誇り、祭りを大事にする大阪人の心意気を感じてほしい」と師匠。
ライオン像の難波橋を越え、淀川に沿ってさらに東へ進むと、高速道路の高架下に出る。淀川(大川)と交わるこの地点は、古地図を見ると北へ流れる「天満堀川」の河口になっていて「大平橋」が架かっている。
「天満堀川は豊臣秀吉が乾物や醤油や酒などを運ぶ水運のために掘削した人工の川やね。昭和30年代になって埋め立てられたので今は道路になったけど」。
見れば、金属の柵で囲まれた高架の下に、なんと大平橋の橋柱が無造作に!
かつての天満堀川に沿って東に広がる菅原町は、第二次大戦で戦火を免れた数少ない場所。いまも残る乾物商や白壁の土蔵が当時の面影を伝えている。

天満署の前の大鳥居。
右下の人が米粒ぐらいに

 
空き地に置かれた
大平橋の橋柱
●道真公の怒りが天まで満ちたから「天満橋」
先月最終回を迎えたNHKの朝のドラマ「ちりとてちん」。女流落語家をめざすヒロインを描いたこのドラマの舞台となったのが大阪天満宮、俗称「天神さん」だ。
天満宮はご存知のとおり、菅原道真を祀る神社。
「道真が没した903年以降、洪水や地震、火災とかいろんな災害が起こったことから『これは道真の怒りが天まで満ちた』と。天の神様やから天神さんや。その怒りを静めるために全国に天満宮ができたんやね」。
大阪天満宮は949年、京都の北野天満宮に続いて2番目に建立された。ちなみに
「和泉市にある桑原荘は、道真の荘園だったことから、ここだけは道真に守られて落雷しないといわれてきたんや。雷が落ちないようにクワバラ、クワバラと唱えるのもそのためなんや」。師匠の薀蓄。
この辺りには元禄時代の俳人、西山宗因の庵があったといわれ、神社の正面に碑が立っている。
「井原西鶴は宗因の弟子で、西鶴という名前も西山の一文字をもらったんやな」。
天満宮正面の斜め前にある料亭は、もと川端康成の生家。医者の家庭に生まれたが、文豪がここで過ごしたのは子供時代のごくわずかな時期。早くに両親と死に別れ、祖父母や親戚の家を転転とするなど淋しい子供時代を送ったという。入口には碑が作られている。
川端康成の生家。
現在は料亭に

 

昔、天満宮はお見合いスポットでもあったという。とくに境内奥の通称「亀の池」にかかる小橋は、女性が可愛くみえるようにと「愛嬌橋」と呼ばれたそうだ。
池の岸になぜか「天神橋」と書かれた飾板がある。
「天神橋は明治18年まで木やったんやけど、大洪水で流されて鉄の橋になったんや。明治21年に架け替えられ昭和5年まで使われた、その橋の橋頭飾板やね。大阪は水害との闘った歴史を物語っているんや」。
北側、天満宮裏門の前には、落語ファン念願の落語演芸場「繁昌亭」が街の人たちの力を借りて2007年に完成し、名のとおり繁昌している。 もともとこの辺りは昭和初期までは演芸場が並んでいたという。
「天満八軒といわれ、漫才、講談、寄席、歌舞伎などを上演する小屋で、周囲には寿司やうなぎ、すき焼き、カレー、ぜんざいの店もあったようやね」。
その中でいまの駐車場のあたりにあったのが第二文芸館。
「吉本せいという女主人が作った演芸小屋で吉本興業の発祥の地なんや。せいさんは、借金まみれの桂春団治を月給制で雇うたりして、他の芸人さんからも母親のように慕われたらしい。商売上手で小屋の前ではラムネが飛ぶように売れたそうや。それもそのはず、中で辛いおかきを売ったから(笑)。その上、お客さんが捨てていったミカンの皮を集めて漢方薬屋に売りに行ったとか」。
天満宮亀の池にある
天神橋の飾版
 
繁昌亭
●門前町の面影を残す天満宮と消えた町名
昔の地図を見ると、旅籠町、大工町、市之町、地下(ぢげ)町などの町名が門前町の面影を残している。その西、現在の西天満には真砂町、老松町も「きれいな砂浜が残っていたから真砂、若松町があるから反対の老松。みんな昭和53年の町名変更でなくなってしもた。郵便業務の合理化ということやけど。町名は街の遺産、みんな意味があるのに」。師匠が悔しがる。天満宮の裏には、かろうじて米屋に大工町の名が残る。
もっとも江戸時代まで、このあたりは天神さんを囲んで森だったという。近松作品に出てくる曽根崎心中の徳兵衛さんとお初さんが心中場所に選んだお初天神の「天神の森」も、その名残りだ。
「南森町も南の森という意味。今はなくなったけど昔は北森町もあった」という。
天満宮を出て最初の信号が1号線。江戸時代は道幅が6mだったが、明治42年の北の大火で焼け跡地を拡張して市電を通した道でもある。この道の2筋北で師匠が「ほら」と指差す、その先を見ると確かに「北森町ビル」が。しかも道を挟んで北側に「南森町ビル」がある。「何か気付かへん? 南北の方角が逆や」。????
「これは北森町があった時代に北森町ビルができて、その後町名が南森町に変わってから北側にビルがつくられたから。町名改悪がなせるワザやね」と師匠。
反対の方角にある南森町
ビル(左) と北森町ビル
●日本の近代化に貢献した大阪の偉人たちが眠る寺町
この通りには東西にずらりと寺が並んでいる。
「これは江戸初期、大坂城主、松平忠明が北からの敵に備え市内に点在する寺を移転させて城壁や兵の駐屯地にしたんや。ぼくも高校時代、この辺りで新聞配達をしていて何でこんなに寺が並んでんねん、て驚いた」。
通りには、日本や大阪の近代化に貢献した人々の墓が多くある。
筆頭が「龍海禅寺」にある緒方洪庵の墓だ。ここから少し南の北浜には緒方洪庵が開いた「適塾」がある。洪庵は、ここで2千人とも3千人ともいわれる塾生たちに蘭学や医学を教え、福沢諭吉や大村益次郎など明治維新に活躍した人材を多数輩出した。
「善導寺」には町人学問所「懐徳堂」を開いた山片蟠桃(やまがたばんとう)の墓がある。 「蟠桃は米商の番頭やったけど、天文や地理、経済、哲学を学んだんやね。著書「夢の代」には、神仏化物もなし、この世に奇妙不思議なことなしと記されている。封建体制のあの時代に徹底した合理主義や科学第一主義を貫いたんや。その志は見上げたもの」。
この精神は船場商人に受け継がれている。
東の扇町総合高校の近くには、明治初期、日本で初めて青少年の更生施設を作った池上雪枝の碑もある。武道家で神道家でもあった雪枝は、「手に職と誇りを持て」と道を外した少年たちに説き、更生させたという。
緒方洪庵の墓のある
龍海禅寺
●大塩平八郎と格之助の墓
通りの西にある成正(じょうしょう)寺には、天保の飢饉で一揆を起した大塩平八郎と養子、格之助の墓が1本の梅の木をはさんで並んでいる。
「東町奉行所の与力(よりき=今でいうなら係長職)やった平八郎は、奉行所を退任後、現造幣局の中に洗心洞という陽明学を教える私塾を作ったんやけど、天保の飢饉で人が何百人と死んでいく時世に役人が賄賂政治を行っていることに憤って一大決起したんやね。決起を呼びかける檄文を作る際、当時は木版印刷するんやけど、印刷屋に発注するとバレるというので、原文を16に分割して別々の業者に発注してつなぎ合わせたそうや。
そこまで周到な準備をしたのに、途中で怖くなった2人の同士が奉行所に密告されるんや。早朝の挙兵となって少人数しか集まらずに鎮圧されてしもた。結局、平八郎は捕まり1837年、42歳の若さで自害した。当時、謀反人に墓を作ることなんか許されるわけがない。この墓がつくられたのは後々のことや」。
そんな歴史を知る由もなく、2羽のウグイスが梅の木に止ってのどかにさえずっている。先人のご苦労にそっと掌を合わせた。
大塩平八郎と格之助の墓
●ストライキ発祥の地、天満紡績跡
天神橋三丁目と四丁目の間を東西に通る高速道路の下の道もかつての「天満堀川跡」。「大塩の乱によって庶民救済策を余儀なくされた幕府が、翌年(1838年)失業対策として延伸したんやね。大塩の痕跡がこんな所にも残っている」と師匠。
環状線「天満駅」のすぐ北東にある赤レンガの建物は、明治20年(1887年)に造られた天満紡績工場跡。現在は中西金属工業になっている。当時の大阪は大阪城内にアジア最大の軍需工場や敷島紡績や鐘淵紡績など多くの紡績工場があって、大阪は東京を抜いて日本一の人口を誇る大都会だったという。師匠の解説。
「紡績工場の女工たちは安い賃金で過酷な労働に就かされて、まさに女工哀史の世界やね。そんな中で明治22年9月、天満紡績に勤務する500人の女子工員が会社側に賃上げを突きつけて結集したんや。給料上げてくれるまで働きません、て。その後女子工員全員に男子工員も加わりすさまじい闘いになって要求を勝ち取った。ストライキ発祥の地なんや。大阪の誇り」。
天満紡績工場跡
●末広町とセットで名づけられる扇町の謎に迫る!
扇町公園は明治12年から大正9年まで「堀川監獄」だった場所。
「監獄の敷地は扇町公園より広くて南は水道局、西は*山西福祉会館(YWCA)までの巨大な監獄やった。滑稽新聞で有名な、反骨の筆人、宮武外骨も入獄していたんや。ところで何で扇町というか知っている?」。
*[堀川監獄のあった場所について掲載当初「YMCA会館」と誤って記載していましたが、正しくは、 「山西福祉会館(YWCA)」でした。お詫びして訂正いたします。]
こんな師匠の質問に「う〜ん、地形が扇の形をしていたとか」と答えたら、なんと大正解。
「大正13年についた町名やけど、江戸時代に扇橋という橋が天満堀川に架かっていたんや。名前はここから来たんやね。でも、何で橋に扇という名前がついたのかずっと分らんかった。そうしたらあるとき、地図を逆さにしたらなぞが解けた。東西に弧を描いて流れる淀川(大川)と天満堀川の川筋が扇になっていたんや。これはぼくの推測やけど」。
なるほど、古地図を見るとくっきり扇の形になっている!
ちなみに扇町の名は、今も町名のみならず交差点や地下鉄の駅名として広く使われているが、扇町の南には「末広町」の町名も。
「末広町は明治6年につけられた町名やけど、扇は末広がりで縁起がいいと、末広町とセットで使われることが多い。尼崎や大東市にも、これらの町名がある」。
町名は街の遺産、という言葉が実感として伝わってくる。
1845年の大坂図。湾曲した淀川と堀川に囲まれて扇型に
環状線や地下鉄の駅数にすればほんの1〜2駅。この小さなエリアの中でもこんなにぎっしり歴史が詰まっている。
「そぅ、知れば知るほど愛せる大阪やなぁ」。師匠がしみじみつぶやいた。
 
 
次回は大阪の平野を歩きます。お楽しみに!!
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
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