FUJITSU ファミリ会 関西支部FUJITSUファミリ会関西支部

第二話
食い倒れ大阪のルーツは「橋」にあり
天満橋と中之島界隈の橋を訪ねて
 
 
文/写真:池永美佐子
京の着倒れ、大阪の食い倒れ。
「ほんなら、なんで食い倒れっていうか知ってる?」 今回も大阪案内人・西俣稔さんの質問からスタートした。
「もちろん食べ物が美味しすぎて…」なんて、ありきたりの答えではないだろうなぁ…。
「ハズレではないけどね、水の都、大阪は八百八橋というやろ。 昔は木の橋が多く度重なる洪水で橋の杭が倒れて、その度に膨大な費用を民衆が捻出したんやな。杭倒れが転じて食い倒れ」…ナルホド。
というわけで、江戸時代の古地図を元に、天満橋を起点にして大阪のど真ん中を流れる淀川とその支流である大川、堂島川、江戸堀川にかかる橋の歴史をたどってみた。
●あみだくじのようにチグハグに架かる橋のナゾ
西俣師匠によれば、天満橋が鉄橋に架け替えられたのは明治21年。以前は木橋で幅も当時の道幅と同じく6mほどだったが、やはり洪水で流されたという。
現在は谷町筋につながっているが、古地図ではもう1筋東にある。「谷町筋は大坂城の大手門につながる重要な道路やから、敵を撹乱するために、あえて隣の筋に作らせたんや」。
古地図を見ると、その西にある中之島をまたいで土佐堀川と堂島川にかかる橋は、どれも南北一直線につながらずに、あみだくじのようにかかっている。
これらも二重の川(=外堀)を挟んで城内に簡単には攻め入らないようにという戦略だ。師匠の解説が続く。
「今の淀川は天満橋から枚方まで13の橋が架かるけど、江戸時代は天満橋より東にはなく、上流は渡し舟で川を渡っていたんや。大坂夏の陣で秀吉の城が消失後も、江戸時代初期に初代城主松平忠明によってもさらに巨大な城が築かれたんやけど、なんでこんなにも厳重体制をとっていたのか。 一説では諸大名の反乱から守るどころか、スペインの侵攻まで想定していたとか。事実、1640年代にフィリピンはスペインの侵攻を受けて、60年代には領地になっている。次は日本やったんやね」。
へぇ〜、学校では習わなかった……。
天神橋から西を臨む。左手に見える東横堀川は大坂城の外堀として開削された人工の川。
 
●道真公の怒りが天まで満ちたから「天満橋」
天満橋もその西にある天神橋も、名前の由来は双方の橋の北にある天満宮から。
「天満宮といえば、天神さん。菅原道真を祀る神社やけど、道真が没した903年以降、洪水や火災やさまざまな災害が起こったことから『これは道真の怒りが天まで満ちた』と言われたんやね。その怒りを静めるために全国に天満宮ができたんや」。
大阪には180ほどの天神さんがあり、在阪の神社の7分の一は道真ゆかりの神社だ。
天満橋の下の河原では南北朝時代の1347年、楠正行(まさつら)と山名時氏・細川顕氏(あきうじ)の両氏を総帥とする軍との合戦が行われた。
楠正行の軍勢に追い詰められた山名軍は行き場をなくし、500名もの兵士が次々とこの淀川に飛び込んだが、楠正行はそれを見殺しにはせず、敵兵を川から救い衣類や食料を与えたという。
しかも、この話は500年後におまけが付く。
明治に入り日本赤十字の国際赤十字への加盟をめぐって「日本の武士道は野蛮」とする欧米諸国が反対した際に、この美談が日本赤十字の創始者でもあった医師の高松凌雲によって紹介され、諸国の要人に感銘を与えたことで加盟が認められたというエピソードが残っている。
 
中之島公園の一角にある第一次大戦に巡航した巡洋船「最上」のマスト。 こんな戦争遺跡が標識もなくひっそりと…。
●淀川のルーツをたどる
ところで淀川の名前は、上流の「淀」に由来する。宇治川、桂川、木津川が合流する淀では、水が澱んだからこの名がついたとされる。
さらに時代をさかのぼって5世紀の頃には、大阪の市街地を横断する川は存在せず、この辺りは上町台地の岩盤だったというから驚きだ。
当時、淀川はその東を南北に流れる川幅の超広い大和川(平野川)につながっていたが、岩盤が邪魔してこの辺りで何度も何度も大洪水が起こった。そこで、渡来人たちの手によって人工の川が開削されたという。これが、目の前を流れる今の淀川だ。
その後も大雨の度に決壊したこの川は、何度も何度も姿を変えた。大正時代までは、川幅が今よりも広く中央には「将棋島」という、細長い人工の築地があったという。
「現在のOMMビルの辺りはまさに川の中で、それが昭和初期に埋め立てられたわけやけど、埋め立てに使った土はどこから運んできたと思う? 
なんと地下鉄の御堂筋線工事で掘った土なんやね。六甲山を削ってポートアイランドを作った神戸市よりもずっと以前の話や」と師匠。
まさに、大阪の川や橋は、洪水と戦った民衆の歴史でもある。
中之島バラ公園。大正時代に築地された。
 
●中之島にあった「風邪ひき新地」
「次は風邪ひき新地に行こか」。そんな師匠の後ろについて、天神橋のたもとから中之島に降りてみる。
江戸時代の古地図によれば、当時の中之島は公園ではなく、諸藩の蔵屋敷がずらりと並んでいる。諸藩は年貢米の換金や産物の売りさばきのため、ここに蔵屋敷を建てた。
最盛期にはその数135にも及んだと言われるが、明治4年、廃藩置県で払い下げられたという。ちなみに御堂筋にかかる淀屋橋は、戦国時代から江戸時代にかけて栄えた豪商、淀屋が築造したのでこの名があるとか。
「ここ、ここ」と師匠が立ち止まったのは、中央公会堂前。
「いま中之島の東端は天神橋の向こうまであるけど、明和4年(1767年)まではこの辺りまでで、山崎の鼻と呼ばれていたんや。なぜかというと、島の先端のことを鼻といい、ここに山崎主税助厚義の屋敷があったから。ところがこの年に、さらに新地を延ばしたもんで、鼻の先からハナが出てきたということで風邪ひき新地と呼んだんやな」。
恐るべし、大阪人のユーモアセンス!
 
中之島にある中央公会堂。この辺りは江戸の中期まで「風邪ひき新地」と呼ばれた。
 
●難波橋にライオンの像があるわけは?
堺筋につながる難波橋((なにわばし)は、通称「ライオン橋」ともいわれ、橋の欄干に巨大なライオンの石像が鎮座している。
こちらもかつては木橋で、一筋西の難波橋筋にあったが、大正4年に市電を走らせることになった堺筋に移設された。
当時、市電開通に際しては立ち退きが伴い、どの筋の町会も受け入れに反対する中、唯一堺筋の町会が涙を飲んで引き受けたのだという。
これが幸いして堺筋は、西に御堂筋ができるまで大阪のメインストリートとして賑わった。
中之島がバラ園のある美しい公園に生まれ変わったのも大正時代。パリのシテ島を模して作られた。難波橋のライオンも、シテ島にあるアレクサンダー橋のコピーだという。
難波橋。いまは「ライオン橋」でおなじみ。
 
 

しかし、ライオン橋の名前の由来については他にも諸説ある。師匠曰く。
「この橋が完成した年に天王寺動物園ができてライオンがやって来たからという説。もう一つは、難波橋に立つと、橋が16見えることから4×4=16(ししじゅうろく)、つまり獅子やからライオンを作ったという説もある。いや、ホンマ。ぼくの勝手な推測と違うで(笑)」
いやいや歴史の謎解きは、本当におもしろい。
 
 
[次回は淀川の支流で、今はなき「蜆(しじみ)川」をたどります。]
 
 
 
プロフィール
●文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
●案内人:西俣稔
3歳から大阪育ち。ボランティアでユニークな大阪ガイドを引き受けている。これまでに延べ1万人を案内。
ガイドブックにはない情報と独自の語り口にファンが急増。只今、三線と韓国の打楽器「長鼓」(チャング)に熱中。
 
 
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