FUJITSU ファミリ会 関西支部FUJITSUファミリ会関西支部

第十二話
戦国武将が注目した軍事の要衝・男山と、発明のまち・八幡を歩く
 
 
文/写真:池永美佐子
忍び寄る春の気配を肌で感じながら花便りが楽しみなこの季節。「花見を兼ねて歴史散策するならここも穴場ですよ」と、写真家の田辺聖浩さんに先導されて訪れたのが、京都と大阪のちょうど中間地点にある八幡市。中でもその北西にあって、木津川・宇治川・桂川の合流点を見下ろす男山は、対岸の北天王山と対峙して、昔から交通・軍事の要衝の地だったところ。
山頂には石清水八幡宮があり、木津川の河川敷に伸びる背割堤とともに桜の名所として知られる。田辺さんの案内で男山と石清水八幡宮界わいを散策した。
●春は桜のトンネルが1.4km続く背割堤
始発点は京阪八幡駅。まずは駅の北側にある背割堤(せわりてい)を歩いてみる。木津川と宇治川を隔てて河川敷に広がる背割堤は、約250本のソメイヨシノの桜並木が約1.4kmにわたって続く国営の河川公園になっている。
堤が完成したのは大正時代だが、桜が植栽されたのは昭和53年のこと。田辺さんが話す。
「背割とは、木津川と宇治川の瀬を割るという意味。昔は瀬割でした。木津川が決壊して細い宇治川が巻き込まれることを防ぐために土手の一部を広げ、後に桜が植えられたんです。拡幅に使われた土は隣接する大山崎の山を削って運ばれました。当初は立入り禁止区域でしたが、桜並木の美しさが評判になり後に開放されたんです」。
シーズン中は花見客でごったがえす並木道だが、いまは人影もまばら。しかし、木々に目をやれば、開花を待つ薄紅色の小さな蕾が枝にぎっしり付いている。
「訪れるなら絶対に早朝がいい。ピンク色の朝靄に包まれ、桜の木々があたかも囁いているような幻想的な風景に出会えます」。田辺さんがこっそり教えてくれた。
 
●緑豊かな見晴らしの御山、男山と航海祈念塔
駅の南側に回って男山(142.5m)へ向う。

この辺りはもともと砂地や芦原が広がる低湿地帯だったという。しかし、男山だけは豊かな緑で覆われていたらしい。頂上には「石清水八幡宮」が鎮座し、春には桜で満開に。社号は山腹の霊泉・石清水に因む。石清水八幡宮へは八幡駅前からケーブルカーが便利だが、徒歩で登っても20分少々。九十九折の雑木林の参道を歩くのも赴きがある。

駅近く、頓宮の西側に「航海記念塔」という巨大な石の五輪塔がある。
「鎌倉時代後期のもので、石塔では日本一の高さです。石清水八幡宮を創祀した奈良・大安寺の高層、行教(ぎょうきょう)律師の墓との説もありますが、摂津尼崎の豪商が日宋貿易の帰り路、石清水八幡宮で祈って海難を逃れた、その恩返しのために建立したものと伝えられています」。
いまも海運業の人たちや安全な航海を祈念する人が訪れるという。
 
●武門の神を祀る石清水八幡宮とエジソン記念碑
石清水八幡宮は貞観2年(860)、朝廷によって創建された神社で八幡大神、比淘蜷_、神功皇后の三神を祀っている。その前年、宇佐八幡宮に参籠した行教が、八幡大神より「都近く移座して国家を鎮護せん」との神託を受けたことに端を発する。
八幡大神は武門の神様。鎌倉時代に奥州を征服した源義家は、男山八幡宮で元服式を挙げて「八幡太郎義家」と名乗ったとされ、この神社を源氏一門の氏神として祀った。以降、足利、豊臣、徳川の各一族も石清水八幡宮を武門の神として崇めたといわれる。
社殿は3度消失し、現在のものは徳川家光が営造したもの。
「八幡造りの様式で重文です。本殿や楼門は日光東照宮と同じ豪華絢爛な造りです。石畳の参道に並ぶ石灯籠の数や種類は日本有数。歴史的価値のあるものが多く、灯籠を研究している学者さんも訪れます」と田辺さんはいう。
境内にはエジソン記念碑がある。エジソンが白熱電灯を発明した際、石清水八幡宮の真竹をフィラメントの材料に使ったことに因んで昭和9年(1934)に建立された。現在の碑は昭和59年(1984)に再建されたもの。
では、地球の裏側にいたエジソンがどうやって八幡の竹を見つけたのか? こんな疑問に田辺さんは次のように答える。
「1879年にエジソンは光電球の実験に成功しました。でも、このときのフィラメントは木綿糸にススとタールを塗り付けて炭化させたもので長持ちしなかったんです。そして色んな植物繊維で試していたんですが、あるとき実験室にあった日本の扇子が目に止まったんですね。縁取りの竹を細く裂いて使ってみたら大成功。エジソンはすぐに助手を日本に送って八幡の真竹にたどりついたというわけです」。
八幡の真竹はその後タングステンフィラメントが作られるまでの間、アメリカに輸出され電球の材料になったという。八幡市とエジソンの生誕地であるマイランとは友好都市になっている。
 
●松花堂昭乗の絵の具箱をヒントに生まれた松花堂弁当
一方、「八幡大神は神であると同時に、八幡大菩薩とも呼ばれる仏でもあったんです。明治時代の神仏分離まで石清水八幡宮は神仏習合が続き、山中には男山48坊と言われる多数の僧坊がありました」と田辺さん。
松花堂昭乗は、そんな僧坊で修行した社僧の一人。
「江戸初期、寛永の文人として知られる昭乗は、真言密教を学び、やがて阿闍梨(あじゃり)になりました。堺の生まれで書や画、茶の湯でも優れた才能を発揮し、住職となった滝本坊近くに松花堂という茶室を建てました」。
男山の南にある市立松花堂庭園には、その茶室が復元されている。茅葺きの宝形造の松花堂は茶室というより小さなお堂のよう。天井には極彩色の日輪と2羽の鳳凰が描かれている。
「有名な松花堂弁当は、昭乗が愛用した四つに仕切られた絵具箱がルーツです。昭和の初期に料亭「吉兆」の創始者、湯木貞一氏が松花堂を訪れたときにこの箱を見て懐石料理を盛りつけることを思いついたのがそもそもの始まりです」。
庭園内にある吉兆・松花堂店では、予約すれば松花堂弁当を賞味することができる。
 
●戦国武将ゆかりの寺、善法律寺と正法寺
男山の山麓、南北に続く東高野街道には、戦国武将にまつわる寺社が多い。
善法律寺は、足利義満の母、良子がモミジを寺に寄付したことから「紅葉寺」と呼ばれる。そのすぐ南にある「正法寺」は江戸時代以降、徳川家康の側室で、尾張藩祖、義直の母でもあるお亀(相応院)の菩提寺になっている。こちらは「知る人ぞ知る桜の寺」だ。
正法寺では最近、本堂の横に新たに展示スペースを備えた法雲殿(収蔵庫)が完成し、高さ4.8メートルもある鎌倉時代の阿弥陀如来坐像(重文)などが納められた。普段、公開はしていないが4月4日〜6日と5月9日〜11日に特別公開される。
また、ここから南へ1kmほど離れた西車塚古墳に、八角形の珍しいお堂がひっそりと佇んでいる。豊臣秀頼が寄進した建築物で「八角堂」と呼ばれ、正法寺の境外にあるお堂の一つ。阿弥陀如来坐像はもともとここに祀られていたという。
●山崎の合戦の舞台になった「洞ヶ峠」
「洞ヶ峠を決め込む、という諺、知っていますか?」。突然田辺さんが問いかけてきた。
「さあ、平成生まれの私にはさっぱり・・・」。(ああ、何という大洞吹き!)
すると「日和見する、という意味だけど、その諺の発祥になった洞ヶ峠がすぐそこにあるんです」。
向った先は、松花堂庭園の南、円福寺付近を走る枚方バイパス(国道1号線)の交差点。見れば確かに「八幡洞ヶ峠交差点」とある。田辺さんの解説が続く。
「山崎の合戦なら知っているでしょう。光秀が信長を謀殺した本能寺の変のあと、天正10 年に秀吉が仇討ちのために天王山で光秀を打った。このときに洞ヶ峠で待機していた郡山城主の筒井順慶は、秀吉軍が優勢と見るやただちに山を下って、光秀軍を攻撃したんです。それ以来、この地名は日和見の代名詞になっています」。
車がビュンビュン通る道に当時を思わせる風情はないが、唯一「洞ヶ峠茶屋」と書かれた茅葺屋根のうどん屋の看板が歴史の痕跡を留めている。
●ライト兄弟より先に飛行機の設計を試みた二宮忠八が創建した航空神社
再び、駅付近。男山の山麓を流れる放生川に美しい太鼓橋が架かる。その「安居橋」の北東にある「航空神社」は、大正4年(1915)、航空界の先覚者、二宮忠八が創建した神社。
「二宮忠八は明治24年(1891)に日本人で初めて和算で割り出して設計したカラス型飛行機というプロペラ式の模型飛行機を発明した人です。さらに2年後には玉虫をヒントに人を乗せて飛べる玉虫型飛行機を設計し、模型を作って陸軍に資金援助を申し出たのですが却下されてしまいます。ライト兄弟が有人飛行を達成したのが明治36年(1903)ですから、もし陸軍が資金を出していたら忠八が世界初の飛行機の発明家になっていたでしょう」。
以降、忠八は飛行機の研究から離れ、世界で航空事故が多発することに心を痛めて神職となり、自宅に航空受難者を祀るこの神社を建立した。
現在の社殿は平成元年に建て直さたもの。神社という言葉が当てはまらないような洋館が目を引く。社殿には、カラス型、玉虫型などの模型飛行機が展示され、境内には零式艦上戦闘機の機首部分が置かれていて興味深い。

●壁に書いた願いを大国さんが叶えてくれる「らくがき寺」
航空神社のすぐ南東に「らくがき寺」と呼ばれる小さなお寺がある。正式には「臨済宗妙心寺派単伝寺」というが、本殿の壁に自由に落書きできるのでこの名がある。
「荒れ寺をいまの住職が復興し、昭和32年(1957)に新しいお堂を建立されたのです。落書きは、みんなの願い事が大黒さんに見えるようということで始まったそうです」。
「走り大黒堂」と呼ばれるお堂には、油性ペンとお参りした人の名前を書く紙が用意されている。壁には、家内安全や病気平癒、入学祈願、恋の成就など願い事をしたためた落書きでぎっしり。まるでマラソンランナーのような格好の「走り大黒天」が、その願いを叶えてくれるという。ちなみにこの壁は毎年大晦日に塗り替えられるそうだ。

●川が増水すると流れるように作られた橋
「ちょっと遠いけど足を伸ばしてみますか」という田辺さんに誘われて最後に訪れたのが、市民スポーツ公園の東側、木津川にかかる「流れ橋」(上津屋橋)だ。
長さ356m、幅3.3m。日本最長級のこの木橋は、芦原や砂地の河岸に調和し、独特の風情をかもし出しているところから、時代劇の映画撮影にもよく利用される。
そのひなびた外観からてっきり昔の時代のものと思いきや、作られたのは昭和28年。 「この橋のおもしろいのは、川が増水すると橋の床板が浮き上がって流れるように作られていること。板が流れることで逆に橋が壊れることを防いでいるのです。流れに対抗するのではなく、逆に流れに任せることで橋を守ろうという発想ですね。床板はワイヤーで繋がっているので流されてなくなることはありません」。
本当に先人たちの知恵とアイデアには感服してしまう。
 
素朴でのどかな田園風景を残すこのまちには、コラムで紹介できなかったユニークな歴史エッセスがまだまだいっぱい。駅前にはレンタサイクルもあり、自転車で回るのもおすすめだ。
2008年度も「関西歴史散歩」は続きます。お楽しみに!!
天王山より
男山と背割堤を臨む
(写真提供=田辺聖浩)
背割堤の桜
(写真提供=田辺聖浩)
航海祈念塔。
高さはなんと6m!
石清水八幡宮
(写真提供=田辺聖浩)
茶室「松花堂」
(写真提供=田辺聖浩)
善法律寺
(写真提供=田辺聖浩)
正法寺
(写真提供=田辺聖浩)
店の看板に名を留める
「洞ヶ峠」
航空神社。
手前は零式
艦上戦闘機の機首
流れ橋
(写真提供=田辺聖浩)
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
案内人:田辺聖浩
京都は西陣の生まれ。写真家、入江泰吉氏に師事。
以降商業カメラマンとして活動する傍ら、文化財や仏像の写真撮影に力を入れている。趣味はクルマと星の観察。只今「神様がつくった絵」と題して空や雲を撮っている。
 
 
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