橋イラスト

昔から「難波(なにわ)八百八橋」と謳われた大阪の橋。橋の数は今でこそ800以上あるが、江戸時代には200ほどだったようだ。その中から島本貴子さんが「いろはかるた」に描いた48の選りすぐりの名橋の中でひときわ異彩を放っているのが、この安治川橋。
明治6年(1873)に架設された安治川橋は、西欧から輸入された材料と技術で造られた旋回式の可動橋で、旋回橋としては日本初だった。幅4.1m、全長81.8m。高いマストの船が航行すると、中央の切石積み円形橋脚の上にある旋回機構が回転して橋の一部もクルッと90度旋回する。橋が方向磁石の針のように回転する様を見た人々は、どんなに驚いたことだろう。その様子から「磁石橋」と呼ばれ大阪名物になった。ところが、鮮烈なデビューからわずか12年で安治川橋は姿を消してしまう。理由は明治18年(1885)の大阪大洪水。洪水で橋が流されたのではない。鋼鉄製の橋はびくともしなかったのだが、上流の大川や堂島川から流れてきた壊れた市内中の橋の残骸をこの安治川橋が一手に受け止めた。その結果、川を堰き止めることになり、さらなる被害を回避するため橋は軍隊によってダイナマイトで爆破されたという。壮絶な運命を辿った悲劇のヒーロー橋なのだ。

磁石橋が架かっていたのは大川下流の堂島川と土佐堀川がYの字に合流して安治川が始まる辺り。この場所にこんなにカッコいい橋がなぜつくられたのだろう。その謎を解くためには安治川の歴史を知る必要がある。
安治川に初めて木桁の橋が架けられたのは元禄11年(1698)。安治川の名前は「安けく治むる」、つまり「安らかに治まるように」との願いに由来する。 それ以前は橋おろか川もなく、九条島という大坂の中心部を流れる淀川の河口部にできた三角州だった。九条島は淀川の流れを遮る場所に位置し、洪水が頻繁に発生した。そこで幕府の命を受けて治水工事に乗り出したのが、江戸時代の商人、河村瑞賢(かわむらずいけん)。

瑞賢(元和4年〜元禄12年・瑞軒とも書く)は卓越した起業家だ。伊勢(現在の三重県)の貧しい農家に生まれ13歳の時に江戸に出た。車夫や人夫頭などを経て材木商となり、明暦の大火に木曽の山林の木材を買い占めて巨富を築いたといわれる。さらに海運や土木業に進出し、幕府や諸大名の工事を請け負った。瑞賢の二大功績として東廻り、西廻りの廻米航路と、淀川治水が挙げられる。
貞享元年(1684)、頻発する洪水の原因が九条島にあると見た瑞賢は、九条島を真二つに分ける開削工事に乗り出し、わずか20日間でやり遂げた。完成した新川は長さ約3km、幅約90m。開削工事に続き、周辺にある富島、古川の新地開発も進めた。開削から14年経った元禄11年(1698)、安治川橋が架設され、新川は初めて「安治川」と命名された。
それまで伝法口から中津川を経由して市中に入っていた船は、安治川の完成で直接堂島川や土佐堀川に入れるようになり、沿岸には各藩の蔵屋敷が立ち並んだ。大坂が「天下の台所」として発展した要因として河村瑞賢の安治川開削によるところが大きい。
幕末から明治にかけて大阪は外国との貿易が栄えた。幕府は開国に備え、安治川橋の南に広がる川口周辺を外国人居留地として準備を進めた。明治元年(1868)大阪港が開港すると、川口居留地は明治新政府によって外国人に競売された。居留地には洋館や舗装道路が造られ、文明開化の拠点となった。「これからの大阪の中心は西だ」と予想した大阪府も明治7年(1874)、本町近くにあった庁舎を川口居留地近くの江之子島に移転。日本でいち早くこの旋回式の橋が建設されたのもその一環だ。安治川橋は川口居留地への入り口として賑わった。

明治18年の大阪大洪水の後、消失した安治川橋は普通の木橋として再建されたが、その橋もいつの間にか消えてしまった。大正時代の地図に安治川橋の名は見当たらない。橋が架けられなかったのは、川口居領地が寂れてしまったからだ。水深の浅い大阪港は大型船が入港できないことで関西圏の貿易港は神戸に移り、大阪大洪水の翌年に居留地は撤廃された。府庁も大正15年(1926)に現在の大阪阪城付近へ移転している。
その後、橋なきこの地で対岸を結ぶ手段として活躍したのが渡し船。橋のあった場所から少し下流に「富島の渡し船」が運航された。昭和6年(1931)に中央卸売市場が開設されると市場で働く人たちが乗船して賑わったが、クルマの普及で昭和57年(1982)には廃止された。一方、その間に登場したのが「安治川トンネル(安治川河底隧道)」だ。河底につくられたトンネルへはエレベーターで移動する。昭和19年(1944)の開設から74年。老朽化したとはいえ、今も住民の足として活躍している。完成当時、エレベーターは歩行者用と車両用を備えていたが、現在は歩行者・自転車用のみが稼働している。

大阪の栄枯盛衰を象徴するような安治川橋。地下鉄阿波座駅10番出口から安治川の方向に10分ほど歩くと、河岸に向かって「安治川橋跡碑」がひっそり建っている。かつてここに華やかな磁石橋が架かっていたことを知る人はどれくらいあるだろう。碑に足を止める人もなく寂しい。
その一方、同じ安治川の河口では広大なテーマパーク「ユニバーサルスタジオジャパン(USJ)」が広がる。世界中から人が押し寄せるアジア切っての人気スポットだ。ならばUSJの一角にハイテクを駆使して旋回する安治川橋を再現してはどうだろう。欧風レトロなその姿は、中世的な町並みが並ぶ「ハリーポッターの魔法の世界」ともマッチしそうだ。さらに、2025年にはこの先にある大阪湾の人工島・夢洲での万博が開催されるし。
いま一度、人々に愛された安治川橋の物語を語り継ぎたい。

安治川橋
安治川橋
安治川橋跡碑
安治川橋
碑には「浪花安治川 新橋之景」の絵が
安治川橋
かつて橋が架かっていた西区
川口の河岸から対岸を臨む
安治川橋
河村瑞賢紀功碑
(写真撮影=池永美佐子)


安治川橋の位置
地図_肥後橋

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、2015年、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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