橋イラスト

土佐堀川をまたいで御堂筋と並ぶ大動脈、四つ橋筋にある「肥後橋」。橋名のルーツをたどると「くまモン」のいる熊本県に由来する。というのも江戸時代、肥後橋の北詰の中之島に肥後熊本藩の蔵屋敷があり、この辺りは「肥後島町」と呼ばれた。諸藩によって建てられた蔵屋敷は年貢米を保管する倉庫や宿舎というだけでなく、米や産物を売り捌いて藩の財政を支える役割も担っていた。水運の便がいい中之島周辺には天保年間、官民合わせて130近い蔵屋敷があったといわれる。肥後橋の架設年は不明だが、明暦3年(1657)の「新板大坂之図」に「肥後殿橋」という名の橋が描かれている。当時の橋は、四つ橋筋にある現在の肥後橋より一筋西にあった「西横堀川」の東岸に架かっていた。

藩の蔵屋敷に先駆けて肥後島町に屋敷を構えたのは、肥後守(ひごのかみ)加藤清正。農民出身で羽柴秀吉の小姓から一躍、肥後一国の大名へとのし上がった勇猛果敢な戦国武将だ。母親が秀吉の母、大政所といとこ同志でもあったことから豊臣の家臣となり、数々の武功をあげた。「賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)」の一人に数えられる。秀吉の九州平定に従った後、肥後国の北半分を与えられた。築城の名手とも呼ばれた清正は、「隈本(くまもと)城」のある茶臼山に新城建設を進めた。15年の年月をかけて慶長11年(1606)に落成した城は力強く優美な外観に加えて「武者返し」と呼ばれる、上に行くほど急勾配になる壮大な石垣の構造が特徴だ。一方、その間に秀吉が死去。東軍(徳川家康)に付いた清正は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの行賞により肥後一国52万石の領主となった。
ところで、清正は髭面で長身190cm。トレードマークの長烏帽子(ながえぼし)型の変わり兜を被ったので超大男に見えた。その風貌に合わせたのか落成した城を「隈本」ではなく、勇ましい「熊本」城と改めた。当時、熊本の地名は「隈本」だったが、清正が改名しなければ「熊本」の地名もなく「くまモン」も生まれなかったかもしれない。

慶長16年(1611)二条城で行われた徳川家康と豊臣秀頼との会見では、両者の間を取り持ち、和解を斡旋したことでも知られる。清正はその直後に病死した。没後の寛文年間に書かれた加藤清正の伝記「続撰清正記」には二条城会見の様子が細かく描かれている。その中で清正は会見の帰路、屋敷の前の「肥後殿橋」から川下まで三町(約330m)ほどの川面に船を浮かべ、外から船中を見られないように金屏風を置いて秀頼一行に食事でもてなしたという話が出てくる。場面は講談や歌舞伎の演目にしばしば取り上げられたようだ。

清正の死後、忠広が跡を継ぐが加藤家による熊本藩は二代で取り潰され、細川忠利に引き継がれた。以降、明治維新に至るまで熊本藩は細川家が十二代にわたって藩主を務めた。54万石の大藩だった細川熊本藩の蔵屋敷は、敷地858坪と各藩の中でも最大級だったといわれる。熊本藩の蔵屋敷は元禄年間、土佐堀川下流の中之島西部(大阪市北区中之島5丁目)にある「越中(えっちゅう)橋」北詰へ移転した。この越中橋も熊本藩主、細川氏の官位を表す称号「越中守」にちなんで付けられたと思われる。
しかし、こうした蔵屋敷はすべて明治の廃藩置県で大阪府に没収された。熊本藩の蔵屋敷は土佐出身の政治家、後藤象二郎が経営する会社に払い下げられ、跡地には製紙工場がつくられた。現在グランキューブ大阪(大阪国際会議場)に変わった敷地の一角には「近代製紙業発祥の地」の碑と、熊本藩の蔵屋敷があったことを記す説明板が建てられている。

肥後橋が四つ橋筋に移ったのは明治21年(1888)。18年の洪水で流され、同じ直線上にある堂島川の渡辺橋と共に英国製の鉄橋に架け替えられた。その後、明治41年(1908)の架け替えを経て、大正15年(1926)には第一次都市計画事業で重厚な飾塔を持つネオルネッサンス様式のゴージャスな橋に変わったが、昭和41年(1966)に一新。地下鉄四つ橋線の建設と高潮対策でモダンな橋に生まれ変わった。
現在の肥後橋は長さ45m、幅29m。平成6年(1994)に橋面と欄干が改修され、さらに躍動感あふれる若々しい姿になった。曲線と直線を組み合わせたコンテンポラリーな橋は、バックの高層ビルや川の上でカーブを描いて交差する高速道路と調和して新しい「水都大阪」の景観をつくっている。橋の南詰め東側にはアフリカ産の御影石を使った昭和時代の親橋が、さらに渡辺橋の袂には、両橋を合わせた顕彰碑が設置されている。

肥後橋
肥後橋
オフィス街に調和するモダンな橋
肥後橋
高速道路との対比が美しい
肥後橋
橋の南詰にある昭和時代の親柱
肥後橋
渡辺橋の袂にある顕彰碑
(写真撮影=池永美佐子 )


肥後橋の位置
地図_肥後橋

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、2015年、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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