大正橋イラスト

師走の風物詩の一つになっている「第九」。
ベートーベンの交響曲第九番合唱付き第4楽章の主題である「喜びの歌」を年末に歌う風習は、世界でも日本だけだとか。日本でこの曲がオーケストラの演奏付きでプロ・アマの合唱団によって歌われ始めたのは、太平洋戦争の敗戦後、世界平和と希望を高らかに歌い上げる曲調が、新年を迎える喜びと復興を目指す国民心情にマッチしたところが大きい。

そんな第九の楽曲を欄干にデザインした橋が大阪市内にある。木津川をまたいで大正区と浪速区をつなぐ大正橋だ。橋長約80m、幅員41mの大きな橋だが、よく見ると五線譜状の欄干の真ん中に四角形のアルミ板の音符が付いている。「喜びの歌」の楽譜だ。足元を見ると白と黒のタイルも鍵盤、車道との境目にある縁石はなんとメトロノームになっている。

この橋は2代目だが、初代大正橋は大正4年(1915)、市電の開通とともに架けられた。大正区という地名も実はこの大正橋に由来している。初代の橋は下を船が航行できるように橋脚のないアーチ橋で支間長91.4m。当時日本最長だった。地域の人たちは、この橋が誇らしく橋の名をそのまま区の名前にしたという。
その後、度重なる台風や地盤沈下で疲弊する中で、交通混雑緩和のために広い橋が必要となったことから架け替え工事が行われ、昭和49年(1974)3月に新大正橋が完成した。

それにしても新しい橋になぜ第九が? 橋の袂にある説明版を見てもその解説はない。
と、思いきや謎を紐解く鍵が、大正区の南東端に位置する位置する平尾亥開(いびらき)公園にあった。

公園内に日本語とドイツ語で書かれた「対処絵ドイツ友好史跡碑」が建っている。
それによると、今から約100年前の大正3年(1914)11月から大正6年2月のまでの間、この近くに「大阪俘虜(ふりょ)収容所」があったという。
俘虜とは捕虜。第一次世界大戦で日本は連合国軍として参戦。青島(中国)から送られてきた敵国であるドイツ兵など約4,700人の捕虜を収容するため国内12カ所に収容所を設置した。「大阪俘虜収容所」もその一つで760人を収容したとされる。この建物はぺストの流行に備えてつくられた隔離施設だったが、本来の目的で使ったことは一度もなかった。
収容所といっても捕虜たちは「ハーグ陸戦条約」により人道的に扱われ、朝夕2回の点呼を受ける以外の労働は特になく、娯楽として読書や絵画、演劇、音楽、サッカーや体操などのスポーツを楽しんでいたようだ。史跡碑には、収容所の建物の写真と共にここで音楽を楽しんだ楽団のメンバーの写真がステンレス板に刻まれている。

そして、こうした捕虜の中にいたのがドイツ人の「ヘルマン・ハンゼン」。後にここから移動した徳島県の板東俘虜収容所で大正7年(1918)6月1日、日本で初めて第九を演奏した指揮者として知られる。もっとも、彼が大阪俘虜収容所にいた期間はたった1カ月。その間に第九を演奏したという記録は残っていないが可能性はゼロではないだろう。

大正区ではこの歴史を知った地域の人たちが中心となって平成20年(2008年)に「第九合唱団」が結成され、民合唱団「大正フロイデ」として活動している。
余談だが、大阪俘虜収容所には洋菓子メーカー「ユーハイム」の創始者でバウムクーヘンを日本で初めて焼いた「カール・ユーハイム」がいたそうだ。

大正橋の東詰めの広場(浪速区側)には「大地震両川口津浪記」という石碑が建っている。
江戸末期の安政2年(1855)7月に建立されたこの石碑は、その前年に発生し、大阪に甚大な被害を及ぼした「安政南海地震」とその直後に発生した津波の被害と教訓を記している。過去にも南海地震が100年〜150年ごとに発生していることに気付いた先人たちが、未来に生きる私たちに残してくれた貴重なメッセージでもある。
石碑には「願わくば心あらん人、年々文字よみ安きよう墨を入れ給ふべし」=どうかこの石碑の文字がいつまでも人々が読みやすいように毎年墨を入れてほしい、という碑文が刻まれており、地域の人たちによって毎年石碑の文字に墨入れが行われている。

「私が橋の『いろはかるた』を創った平成23年は、奇しくも東日本大震災の起こった年。その1枚に大正橋を選んだのは、この石碑があることと欄干に『喜びの歌』がデザインされていたことです。復興への祈りをこめて描きました」。
かるたの作者、島本貴子さんはそう話す。

今年の年末は第九を歌ったり聴いたりするだけでなく、大正橋を渡って先達たちの想いに触れてみてはいかがでしょう?


大正橋
大正橋全体図
写真提供=大阪市建設局
大正橋
写真撮影=池永美佐子

大正橋の位置
地図_大正橋

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、今秋、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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