橋イラスト

昨年は築城400年で話題をさらった大阪城。今年春の放映以来、高視聴率を続けているNHKの大河ドラマ「真田丸」では、この城を舞台にして秀吉の終焉とともに物語はいよいよ佳境に入る。極楽橋はそんな大阪城の山里丸と二の丸とを結んで天守閣へと通じる玄関口の橋だ。
現在の極楽橋は鉄筋コンクリート造で長さ約54m。欄干に伝統的な擬宝珠が付いている。
橋の袂の案内板によれば、「豊臣秀吉が天正11年(1583)に築造した際にこの付近に架けられたが大坂夏の陣で落城。徳川幕府が再築したときにも木橋が架け直された。 しかし、明治維新の大火によって焼け落ち、昭和40年(1965)に再架橋された」(要約)とある。

しかし、極楽橋とは阿弥陀如来の居られる御堂に至る特別な橋。初代の橋はどんな姿をしていたのだろう。その手掛かりとなる数少ない記録の一つに、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスがローマのイエズス会本部へ送った『1596年度日本年報補遺』がある。
それによると「橋には鍍金した屋根が設けられ、中央に二小さな櫓があって鳥や樹木のさまざまな彫刻が施され、太陽の光を浴びて黄金の輝きを放っている。欄干も黄金に輝き、舗道もまた非常に高価な諸々の装飾が施されている」(要約)など記録されている。

さらにこの極楽橋の姿を決定づけたのが、平成18年(2006)、オーストリアの世界遺産・エッゲンベルク城で発見された『豊臣期大坂図屏風』だ。江戸初期、オランダの商人によって海を渡ったこの屏風は、高さ182p、幅480p。八曲屏風の前面に当時の大坂城と周辺のまちが描かれ、極楽橋も含まれている。その絵がフロイスの描写した極楽橋の記録と一致する。島本貴子さんが描くこのかるたの左上の橋も、エッゲンベルク城の屏風にある極楽橋を模写したものだ。余談だが、フェスティバルホールに使われている緞帳はこの豊臣期大坂図屏風を写している。
ちなみに、かるた中央の淀君と秀頼は、大坂城落城をテーマに描いた劇作家、坪内逍遥(1859〜1935)の歌舞伎演目作品『沓手鳥孤城落月(ほととぎす こじょうのらくげつ)』の一シーン。

驚く話はまだある。大阪城天守閣の学芸員の論考によると、大坂夏の陣で城とともに消滅したはずの極楽橋の一部が、実は落城前の慶長5年(1600)、秀頼の命によって秀吉を祀る京都の豊国社(とよくにしゃ)に移築されて巨大な門となり、さらに2年後の慶長7年、徳川家康によって琵琶湖に浮かぶ竹生島にある宝厳寺(ほうごんじ)に再移築されて唐門になったというのだ。このことは醍醐寺座主、義演の日記や、豊国社の社僧の日記『梵舜日記』に書かれている。
確かに宝厳寺にある唐破風(からはふ)様式の唐門と、エッゲンベルグ城に残された豊臣期大坂図屏風に描かれた極楽橋の正面の姿は酷似している。大坂図屏風の発見は、極楽橋と宝厳寺の唐門を結びつけるさらに有力な手掛かりになった。

私も以前、西国三十三カ所巡礼で竹生島の宝厳寺を訪れたことがある。そのときはこの門が極楽橋の遺構とは知らずに何気なく通ったが、鳳凰や牡丹唐草などの重厚な彫刻のある見事な建築物だった。この下を太閤秀吉や真田幸村たちが頻繁に通り抜けたのだろうか。ならば感慨もひとしおだ。

なお、宝厳寺の唐門は現在、修復工事中で完成予定は平成31年(2019)夏という。その時には再び寺を訪れ、400年間いまなお生き続ける元祖・極楽橋に「おつかれさま」と労おう。

極楽橋(大阪城)
難波橋
写真撮影=池永美佐子

極楽橋の位置
地図_露天神社

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、昨秋、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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