橋イラスト

橋こそ消えたが、大阪の大動脈として基幹道路や地下鉄線に名を残す「四つ橋」。ルーツを辿ると江戸時代、大坂のまちを南北に流れる「西横堀川」と、東西に流れる「長堀川」の二つの堀川が交わる所に架かっていた橋につながる。現在、この川筋は埋め立てられて「西横堀筋」と「長堀通」に変わり、西横堀筋のすぐ西側の「四つ橋筋」と交差する地点が「四ツ橋交差点」になっている。(注・交差点や駅は「四ツ橋」だが、筋や地下鉄線は「四つ橋」)
しかし、昔の地図を見ても「四つ橋」という名前の橋は、どこにも見当たらない。
なぜだろう? その答えを説くヒントは川の形状にある。
想像してほしい。縦横に流れる川が十文字に交差している。それぞれの川の対岸へ橋を架けるとすれば1本では済まない。そこで、交差点の横断歩道のごとく十文字の川を囲んでロの字型に計4本の橋を架けたことから「四つ橋」と呼ばれたという。それぞれの橋にはれっきとした名前があった。西横堀川の北側に架かる「上繋(かみつなぎ)橋」と南側の「下繋(しもつなぎ)橋」。そして長堀川の東側に架かる「炭屋(すみや)橋」と西側の「吉野屋(よしのや)橋」。「四つ橋」は、いわば四つの橋の愛称かユニット名だった。

ところで西横堀川も長堀川も、大坂の夏の陣の後に人の手で開削された堀川だ。西横堀川は、土佐堀川と道頓堀川を結んで1600(慶長5)年に材木商の永瀬七郎右衛門によって開削されたといわれる。一方、東横堀川と木津川を結ぶ長堀川が完成したのは1622(元和8)年。もともと「ふしみ川」といわれていた小さな川を拡張してつくられたとされる。
四つの橋がいつ架けられたのか。正確な記録が残っていないが、二つの川が開削されてまもなく架橋されたのではないかといわれている。西区の資料『埋もれた西区の川と橋』によれば、上繋橋と下繋橋は元禄初頭、共に「繋橋」と記されていたが、元禄末年には上と下の冠称が付けられたとある。
いずれも木橋で幅約3m。長さは上繋橋と下繋橋が約33〜39m。これに対して炭屋橋と吉野屋橋が約40〜42mとやや長かったようだ。西横堀川に架かる「上繋(かみつなぎ)橋」と「下繋(しもつなぎ)橋」は「つなぎ」という言葉の通り、西横堀川の開削によって分断された土地を「つなぐ」ことを意味したと考えられる。一方、長堀川に架かる「炭屋橋」と「吉野屋橋」は地名に由来する。川の東側一帯には炭屋が、また西側には材木問屋が多かったようだ。川辺には宇和島藩や土佐藩の蔵屋敷が並び、西日本各地から材木が集まってきた。
橋のたもとには船着場があって、大坂唯一の四つの橋は観光名所としても大勢の人が訪れた。また、橋の上からの眺めもよく、納涼や観月スポットとして人気を集めた。その賑わいは「摂津名所図会大成」など江戸期の観光案内書にも登場している。当節切っての風流人たちがここで名句を詠んだ。

涼しさに 四つ橋を四つ 渡りけり (小西来山? 盤水?)
四つ橋に 一本ありき 柳かな (梅宝)
後の月 入りて貌(かお)よし 星の空 (上島鬼貫)

このかるた絵にある『涼しさに四つ橋を四つ渡りけり』の句は、長年、「小西来山(らいざん)(1654〜1716)」の作と言われてきたが、近年は「盤水(ばんすい)(生没年不詳)」の作であるとの説が有力だ。三善貞司氏の『大阪人物辞典』によると、盤水も大坂の俳人。来山とも親交があったという。来山が存命中の元禄15年(1702)に発刊された『俳諧花見事』という文献に、この句は盤水作と記述されていたと紹介している。

明治時代になると市電の施設工事で長堀川の北岸が拡幅され、上繋橋は他の橋に先駆けて幅16.5mの鋼桁の橋になった。さらに昭和の初めには大阪市の第一次都市計画事業で四つの橋はすべて架け替えら橋れ、橋脚のない鋼製アーチになった。昭和3年(1928)11月6日には昭和天皇の即位式への東京出発と合わせて新四つ橋の渡り初め式が盛大に行われ、大阪における昭和御大典の奉祝の先駆けとなった。
しかし、浪花の名所として賑わってきた四つ橋も、阪神高速の1号環状線を建設するために埋め立てられる運命に。西横堀川は昭和46年(1971)に、その2年後には長堀川も長堀通の拡幅のために完全に埋め立てられ、四つの橋は姿を消した。

今、長堀通と四つ橋筋が交差する「四ツ橋交差点」の中央分離帯に「四ツ橋跡の碑」が建っている。木々に囲まれた小さな緑地には、木橋の欄干とともに長さ10分の1、幅6分の1に縮小した江戸時代の四つの橋を配置し、かつての姿を伝えている。川面は砂利を埋めた床で、照明柱の台座には旧橋の親柱に埋め込まれていた橋名板を残している。さらに、ここから一つ東の信号がある阪神高速道路の高架下の中央分離帯に、「涼しさに…」と「後の月…」の二つの句碑が建っている。二つの句碑は、昭和時代に架け替えられた下繋橋のたもとに設置されていたもの。句碑のある道筋こそ、旧西横堀川の川筋でかつて四つの橋があった場所だ。
大阪を代表する基幹道路のど真ん中にこんな風流な史跡が潜んでいることを知る人は少ない。信号が変わる度におびただしい数の人と車が、お宝には目もくれずサーサーっと通過していく。

四ツ橋
四ツ橋
「四ツ橋跡の碑」後ろにモニュメントが
四ツ橋
四つ橋を再現したモニュメント
四ツ橋
四ツ橋交差点。碑は中央分離帯の茂みに
四ツ橋
西横堀筋に面して建つ句碑。四つの橋はこの辺りにあった
(写真撮影=池永美佐子 )


四ツ橋の位置
地図_四ツ橋

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、2015年、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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