橋イラスト

中之島をまたぎ土佐堀川と堂島川の2つの川を渡って堺筋に架かる長さ約190mの「難波橋」。中にはミナミの「なんば」と勘違いして「北浜にあるのになぜ難波橋?」と思う方があるかもしれないが、こちらは「なにわ」橋と読む。親柱に鎮座する4体の巨大なライオン像から「ライオン橋」という愛称しか知らない大阪人も多い。
シンボリックなライオン像は、花崗石製で高さ3.5m。明治・大正時代に活躍した彫刻家、天岡均一(あまおかきんいち)氏の作。ライオンの口は神社にある狛犬のように阿吽形になっている。ただし左側が口を開く阿形像、右側が口を閉じる吽形像と通常の神社の狛犬とは逆だ。
橋は昭和50年(1975)に大阪市により一度改修されたが、ライオン像は大正4年(1915)5月22日に渡り初めが行われた先代の橋からのもので、現在101歳。

難波橋の歴史をさかのぼると、奈良時代に行基によって架けられたといわれているが、詳しくは分かっていない。江戸時代には大川(旧淀川)に架かる天神橋、天満橋と共に「浪華(なには)三大橋」と称され、幕府管理の公儀橋になった。当時は長さ108間(約207m)の大型の反り橋で、堺筋にある今の難波橋より一筋西の難波橋筋に架かっていた。
高い反り橋の上からは絶景が見渡せたという。夏には花火見物や夕涼みを楽しむ人々が押し寄せた。ちなみに、大川の中洲である中之島は、剣先(鼻)のようなその形と、ここに建っていた備中成羽藩主、山崎主税の蔵屋敷から「山崎ノ鼻」と呼ばれていた。現在、中之島の東の端は天神橋の先まで伸びているが、江戸時代は難波橋の手前(下流)までしかなく、
川のほか東側に遮る地面がない難波橋は眺望スポットとしても人気を博した。
難波橋からの眺望を江戸時代中期の狂歌師、蔭山梅好(かげやまばいこう)は自ら編纂した『狂歌絵本浪花の梅』に次のような歌を残している。

 西ひがし みな見にきたれ 浪華橋 すみずみかけて 四四の十六
「難波橋からは、“西ひがし(西東)みな見(南)きたれ(北)”というように、東西南北の四方に四つずつ4×4=16の橋が見渡せる」と。
橋を「架ける」と「掛ける」をもじってところが粋でおもしろい。

木橋の難波橋はその後、大川の洪水で幾度もの架け替えを経て明治9年(1876)鉄橋になり、中之島が東へ延長されると難波橋も中之島をまたいで南北に分けられた。
山崎ノ鼻を含む中之島の東端は明治24年(1891)、中之島公園になっている。
難波橋が現在の堺筋に移ったのは大正4年(1915)。発端はその3年前に上がった大阪市電の敷設計画。市電が天神橋筋六丁目まで延伸されるのに伴い、敷設が計画された難波橋筋の地域住民から敷設反対運動が起こった。その結果、市電敷設は堺筋に決まり、新しい難波橋が架設されることになった。
新橋の架設に当たって大阪市は中之島の水上公園の空間に恥じない西洋式のモダンなデザインを導入した。石造りの外観や階段、親柱や欄干に施された市章である「みおつくし」のおしゃれな意匠…これらはパリのセーヌ川に架かるヌフ橋やアレクサンドル三世橋をお手本にしている。

それにしても、彫刻家の天岡均一氏はなぜ、橋にライオンを乗せたのだろう?
ポピュラーなのは、橋のできた大正4年に天王寺動物園が開設されたためシンボルであるライオンをもってきたという説。あるいは、お手本となったアレクサンドル三世橋にもライオン像があるため、それを模したという説も有力だが、ここで注目したいのが前で紹介した蔭山梅好の狂歌だ。
大阪の郷土史家、牧村史陽氏は、この歌にある「四々の十六」の四四を「獅子=ライオン」に見立てたのではないかと推測した。

 シャレのセンスではパリ人には負けない大阪人。私も断然この説を押したい。
難波橋
難波橋
写真撮影=池永美佐子

難波橋の位置
地図_露天神社

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、昨秋、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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