天神橋イラスト

大阪市中央区のビジネス街で地名にもなっている高麗橋。
東横堀川に架かるこの橋は、欄干の擬宝珠(ぎぼし)のある親柱の横にお屋敷のような装飾が付いているので記憶に留めている方も多いのではないだろうか。(参考=右写真)
江戸時代には江戸日本橋、京都三条大橋と並んで「天下の三名橋」と謳われ、全国にその名を轟かせた。

高麗橋の始まりについては定かではないが、東横堀川が天正13年(1585)、豊臣秀吉の命により大坂城の築城と同時に西側の外堀として開削された堀川であることや、橋の延長線上にある「高麗橋通」の真東に天守閣を望めることから、大坂城築城の頃か、その直後に城と城下町を結ぶ役割を持って何らかの木橋が架けられたと考えられる。

「高麗橋」という名の由来についても諸説ある。 代表的なのは、大坂城築城により豊臣時代に朝鮮(高麗)との貿易が盛んになり、この橋の周辺でビジネス交流が行われたからという説。一方、古代、朝鮮からの使節を迎える迎賓館「高麗館(こまのむろつみ)」がこの辺りにあったという説もあり、決着していない。この他「河原橋」から転化したという説もある。

慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、高麗橋の上でも激しい攻防戦が繰り広げられた。その結果、大坂城は落城。徳川家の武将、安藤右京進重長が戦利品として高麗橋の親柱の擬宝珠を持ち帰ったと伝えられる。
後に安藤家で発見されたその擬宝珠には「慶長九年 庚申八月吉日 御大工奉行吉久」との銘が刻まれていたことから、慶長9年(1604)には、すでに立派な鋳鉄製の擬宝珠をもつ高麗橋が架けられていたようだ。
夏の陣から今年はちょうど400年。この擬宝珠は、大阪城天守閣に所蔵されており、10月10日から始まる「秋の展示」で公開される。

江戸時代以降も高麗橋は徳川幕府が管理する12の「公儀橋」の一つに数えられ、交通の要衝としてますます賑わった。
元禄の頃には橋の前の高麗橋通りに三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ、糸屋や塗り道具屋などさまざまな業種の店が建ち並び、西詰には櫓(やぐら)屋敷がつくられた。櫓屋敷は橋を渡る人を監視したり、大坂城の眺めを楽しんだりする役割を担った。
現在、架かっている鉄筋コンクリート製のアーチ橋は、昭和4年(1929)に架設されたものだが、親柱のシンボリックなデザインは江戸時代のこの櫓屋敷から来ている。

かるたの絵は、当時の高麗橋の風景。また、西詰には幕府の高札(こうさつ)が立てられた。
高札とは法令を公示する「お触書き」だ。関所や人々の往来の激しい地点を選んで高札が立てられ「高札場」と呼ばれた。

明治3年(1870)にはイギリスから輸入した鉄製の橋に架け替えられ、大阪初の鉄橋となった。また、明治9年(1876)には高麗橋の東詰に「大阪府里程元標(りていげんひょう)」が置かれ、西日本の主要道路の距離計算はここを起点として決められた。里程元標とは道路の路線の起点や終点や 経過地を表示するための標識だ。
今、その跡地に「里程元標碑」がひっそりと立っている。

いっぷう変わった橋の親柱に秘められた歴史ドラマ。立ち止まって瞼を閉じると、橋を忙しく行き交う古の人たちの姿が見えてくるようだ。

高麗橋
高麗橋
写真提供=大阪市建設局

高麗橋の位置
地図_高麗橋

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、キリマンジャロ登頂を目指して修行中。
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