橋イラスト

街中がクリスマスカラーに染まる師走。見慣れたこんな光景も戦後の、たかが70年ほどに過ぎない。しかし、それよりさらに遡ること80年、鎖国時代にピリオドを打った日本にいち早く西洋文化を持ち込みモダン大阪発祥の地となったのが、大阪市西区にある川口地区。
慶応4年(1868)、大阪港の開港と同時に多くの外国人が入ってきた大阪で、彼らに向けて明治新政府が売り出したのが「川口居留地」だった。もともと安治川流域のこの辺りは、幕府職制の水軍組織「大坂船手組」があり、船番所や船手組屋敷が置かれていた場所。幕末の元治元年(1864)、勝海舟の進言で船手組が廃止され、跡地を召し上げた新政府が外国人居留地に充てた。

木津川橋は、木津川をまたいでこの川口居留地と「天下の台所」の中心部、船場をつなぐルートとして架けられた新橋だ。架設は大阪港の開港と同じく慶応4年。東の対岸、江之子島には明治7年(1874)に大阪府庁が建設され、木津川橋はまさに西洋文明のゲートとなった。
当時の木津川橋は木橋。明治9年(1876)には鉄橋に架け替えられ、馬車道と歩道が区別された。その後、明治18年(1885)の洪水で流出。2度の架け替えを経て、現在の木津川橋は5代目だ。高潮対策事業の一つとして昭和41年(1966)に架け替えられた。

大阪市営地下鉄「阿波座駅」から本町通に沿って西へ徒歩5分、長さ75m余りの木津川橋を渡ってみると、倉庫やマンションの混在する街並みが続く。異国情緒とはほど遠い。
外国人居留地があったのは西区川口1〜2丁目辺り。本田(ほんでん)小学校の北側角に「川口居留地跡」の碑がある。

当時、居留地には瀟洒な洋館や教会、学校などが立ち並び、道路にはユーカリやゴムの木などの街路樹が植えられ馬車や自転車が走っていたという。宣教師や華商が暮らす雑居地には理髪店やクリーニング店、仕立屋、西洋料理店、中国料理店、カフェ、牛乳店、精肉店、パン店、ポン水の製造販売所などが軒を連ね、西洋の食べものやライフスタイルとともにテニスやサッカー、ビリヤードなどのスポーツも持ち込まれた。ところで、「ポン水」とはラムネ。栓を開けると「ポン!」という大きな音がしたことから、当時はこう呼ばれた。ちなみに、ラムネは「レモネード」がなまったもの。いずれも日本だけで通用する炭酸飲料の名称だ。

本田小学校の横にある「日本聖公会川口基督教会」は、当時の面影を伝える数少ない建物。ゴシック風の重厚な礼拝堂は大正9年(1920)に建設されたものだが、明治2年(1869)に長崎から大阪にやってきた米国聖公会宣教師ウィリアムスが英学講義所を開校して、英語による礼拝を始めたのが最初。他にも多くの宣教師が定住し、布教活動と並行して病院や学校を設立した。平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、大阪信愛女学院といったミッションスクールや聖バルナバ病院などは、実はこの地で創設されている。
大阪港の開港に伴い、居留地の西には税関事務と外交事務を行う「川口運上所」が置かれた。大阪税関の前進だ。昨年度のNHKの朝の連続ドラマ小説『あさが来た』で人気が沸騰したディーン・フジオカ扮する実業家の「五代友厚」が初代長官を務めた。
しかし、川口居留区は神戸や横浜、長崎など他の居留地と比べて狭かったうえに河港であった大阪港は水深が浅く、大型船舶が入港できなかったことから次第にすたれ、外国人貿易商たちは神戸外国人居留地へ転出した。

橋の袂に、説明版と人々でにぎわう初代の木津川橋を描いた顕彰碑が設置されている。

木津川橋
難波橋
写真提供=大阪市建設局


木津川橋の位置
地図_露天神社

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、昨秋、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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