橋イラスト

京都の祇園祭、東京の神田祭とともに日本三大祭の一つとされる大阪の天神祭。
「火と水の祭典」と呼ばれるだけあって、大川を行きかう百艇を超える荘厳な船渡御(ふなとぎょ)や豪華絢爛な花火は圧巻。でも、これが天神祭の姿だと思うのは間違いだ。重要なのは、大阪天満宮の主神、菅原道真公の御神霊を乗せたお神輿(みこし)が氏地を巡る祭事だということ。ここを押さえておきたい。ちなみに「渡御」とは神様がお出ましになるという意味。そのための船渡御であり、奉納花火だ。陸渡御というのもある。

天神橋より2本西、堂島橋に架かる「鉾流橋(ほこながしばし)」は、天神祭や渡御の起源と関わりの深い橋だ。
天神祭は大阪天満宮が創建された翌々年の天暦5年(951)、近くの社中の浜から神鉾(かみほこ)を流し、流れ着いた浜に御旅所 (おたびしょ=御神霊が休憩される場所)を設けて禊(みそぎ)を行なったことが始まりとされる。この行事が「鉾流神事(ほこながししんじ)」と呼ばれる。
神鉾の行く先は鉾任せ。鉾が流れ着いた浜がその年の御旅所となる。この時に氏子や崇敬者が船を仕立てて御神霊を迎えたのが船渡御の起源だ。
しかし、元和の頃には川の河床が上がったことで鉾流神事は中止に。寛永年間には鷲島の京町 (西区京町堀)に御旅所が常設され、船渡御はここに向かうことになった。
鉾流神事はその後、三百余年、途絶えていたが、昭和5年(1930)に復活した。御旅所は常設されているので、鉾を流して穢れ(けがれ)を払い氏地の安泰を願う。
一方、その御旅所も鷺島から後に戎島(西区本田)、さらには松島(西区千代崎)に移転したが、船渡御のルートは下流に向かって航行した。今のように上流の桜宮橋の方へ遡るようになったのは昭和28年(1953)。一帯の地盤沈下で大川の水位が上がったことで橋の下を船がくぐれなくなり、御旅所に行けなくなったのが原因だ。

以降、鉾流神事は現在に引き継がれ、本宮祭の前日7月24日の宵宮祭に行われる。
その舞台となるのが鉾流橋の北東詰、かつて神事が行われた社頭の浜だ。橋の袂には鳥居と石灯籠が鎮座する。朝8時50分、約300人の氏子らが見守る中、神職、「神童」役の少年、楽人を乗せた「斎船(いつきぶね)」が堂島川の中ほどに漕ぎ出され、神童の手によって桧の神鉾が流される。

古式ゆかしい鉾流神事だが、「鉾流橋」自体は比較的新しい。大正7年(1918)、中之島中央公会堂や旧大阪市庁舎などの開発整備が進む中で、神事とゆかりの深いこの場所に木鉄混用の橋が架設された。今の鋼鉄製の橋は2代目で完成は昭和4年(1929)。鉾流神事が復活したのはその翌年だ。灯篭(とうろう)風の親柱を始め、高欄、照明灯に和風の意匠が採用されたが、戦争中の金属供出で高欄、照明灯は消失。その後、昭和55年(1980)に改修され、中之島地区にマッチしたクラシック調の高欄や照明灯、レンガを御影石で囲んだ歩道などが整備された。高欄には公会堂の廊下や階段の手すりと同じデザインが採用されている。

天神祭千年の歴史を背負って堂島川に静かに佇む鉾流橋。天神橋や天満橋のように有名橋ではないけれど、天神祭を愛してやまない大阪人の想いが詰まっている。
鉾流橋
難波橋
中之島中央公会堂と調和する鉾流橋
難波橋
灯篭風の親柱は昭和4年当時のもの
写真撮影=池永美佐子


鉾流橋の位置
地図_露天神社

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、2015年、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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