反橋イラスト

「すみよっさん」の愛称で親しまれる住吉大社。全国に約2300社ある住吉神社の総本社でもあり、正月の三が日には約300万人もの人が初詣に訪れる。
そのシンボルでもある反橋(そりはし)は長さ約20m、別名「太鼓橋」と呼ばれ半円状の急カーブが特徴だ。
 反橋に胸のつかえる蛙かな
反りくりかえる橋の姿に感嘆して江戸時代の俳人、貞佐はこんなユーモラスな句を詠んでいる。
私も小学生の頃は新年2日に父と姉と3人で住吉大社へ初詣に繰り出したものだ。
ものすごい人ごみの中、滑り落ちたり迷子になったりしないよう父の手をしっかり握ってこの橋を渡ったことを覚えている。

祭神は「住吉大神」と神功皇后。住吉大神は、表筒男命(うわつつのお)・中筒男命(なかつつのお)・底筒男命(そこつつのお)の三神を総称した「海の神様」だ。参道に並ぶ無数の石灯籠も、廻船問屋や海関連の業者の人たちによって寄進されたものが多い。現在も海の仕事に携わる人たちや渡航する人の参詣が絶えない。
でも、内陸にあるこの神社がなぜ海の神様?
実は、太古の昔は大阪湾が今よりも内陸に広がり、そこに上町台地が南に突き出ていた。仁徳天皇の時代にはここに「住吉津」が置かれ、後に遣唐使などが出発したという。新田開発で埋立てが進んだ江戸時代になっても橋の近くまで波が打ち寄せていたらしい。いま橋の前に広がる池は、その名残りともいわれる。

ここに、いつ橋が架けられたのかは不明だが、橋は本殿と海を結ぶのが目的だった。反橋は「御神橋」とも呼ばれ全国各地に残っている。本来、天皇や勅使が神域へ入るための架け橋とされ、聖と俗との境でもあった。
「この橋を渡るのは、神さまに近づくのに罪や穢(けが)れを祓(はら)い清めるためです。反っているのは、地上の人の国と天上の神の国とをつなぐ掛け橋として、虹にたとえられていました」と住吉大社のホームページに紹介されている。

いまある反橋は、慶長年間に豊臣秀頼が豊臣家再建の悲願をこめて造営したものとされる。秀頼が行ったのは南門、石舞台、楽所など本殿の修築で、反橋を寄進したのは淀君だとする説もある。もっとも当時のものは石造りの橋柱や梁のみ。木製の床板や橋桁はすぐに傷むため何度も架け替えが行われている。江戸時代には船大工たちが補修工事を担った。

かるたに描かれている反橋は、まだ海の面影を残す江戸時代の情景。左手にある高灯籠は鳥居の前の浜にあった燈台だ。高さが約16m。展望台としても眺望がすばらしく「名所中の名所」と謳われた。ちなみに、この高燈籠は昭和25年(1950)のジェーン台風で木造部分が破壊され石組だけになった。昭和47年(1972)には道路拡張のために撤去されたが、2年後に国道26号線沿いの現在地に復元された。

反橋は近代に入ってからも20年に1度の割合で定期的に架け替えが行われている。直近では平成21年(2009)。その前が昭和56年(1981)なので28年ぶりだ。欄干部分は鉄製、橋柱や梁は創建当時のままとされる。
渡ってみると昔よりカーブが緩やかになったように感じる。私が大人になったせいだろうか。
川端康成はこの橋を舞台にして「反橋」という短編小説を執筆した。
「反橋は上るよりもおりる方が こはいものです。私は母に抱かれておりました」
小説の一節を刻んだ文学碑が、橋の南東袂に設置されている。

近頃では21時まで境内がライトアップされている。昼間の賑わいとは一転、暗い夜空と水面にくっきりと浮かび上がる赤い欄干と青白く輝く橋柱の太鼓橋は幻想的で美しい。その風景は関西経済同友会発行の「KANSAI夜景100選」に選ばれている。
かつて「名所中の名所」と謳われた橋は、夜景スポットとしていま再び人々の心をつかんでいる。


住吉大社「反橋」
反橋
写真撮影=山口健太

反橋の位置
地図_反橋

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、昨秋、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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