橋イラスト

道頓堀川をまたいで戎橋筋商店街と心斎橋筋商店街の間に架かる戎橋(えびすばし)。グリコや かに道楽の巨大な看板とともに、大阪のランドマークとしていまや世界に知られる。橋の上に佇むと、飛び交う会話にインバウンド客を呼び込む外国語も加わって一瞬、ここが日本であることを忘れてしまいそうだ。

戎橋の名は「今宮戎神社の参詣道にあるから」という説が有力だ。江戸時代、十日戎に人々はこの橋を渡って難波の南にある「今宮のえべっさん」を詣でたといわれ、橋上は笹を持つ人々で大変なにぎわいだったようだ。
古来、日本で「えびす(夷、戎)」という言葉は、異邦人や辺境にある者、野蛮人などを意味した。その一方、彼らは望外の幸せをもたらしてくれるという信仰があり、それが商売繁盛の神様へと昇華していった。
明治維新の前の慶応3年(1867)には、徳川慶喜が大坂城で引見する外国使節に配慮して「戎」という文字の使用を禁止したため、一時的に戎橋を「永成橋」と変えた記録も残る。

橋の架設は、道頓堀川の開削とほぼ同時期というから400年も前のこと。
慶長17年(1612)、安井道頓(どうとん)が当時、小川のような梅津川(のちの道頓堀川)を拡幅して運河にしようと私財を投じて開削に着手した。道頓は豊臣秀吉に仕えて大坂城築城で功を上げ、城南の土地を拝領した河内国の豪族。しかし、大阪夏の陣で戦死し、開削事業は従弟の安井道ト(どうぼく)らに引き継がれた。元和元年(1615)、運河が完成すると江戸幕府は新たな都市計画として川沿いの町を整備。そこに道トが芝居小屋の誘致を進め町が発展した。
一方、人が集まると繁盛するのが食べ物屋。北側の宗右衛門町には茶屋や料理屋が集まり、道頓堀は芝居だけでなく「食い道楽」の街としても栄えた。

関西大学大阪都市遺産研究センターの資料によると最盛期には、道頓堀の南側に歌舞伎6座、人形浄瑠璃5座、からくり芝居1座の計12の芝居小屋が並んだとある。近松門左衛門や竹本義太夫が活躍したのもそのころだ。人形浄瑠璃は「操り芝居」ともいわれ、戎橋は「操橋(あやつりばし)」とも呼ばれたという。明治時代には弁天座・朝日座・角座・中座・竹本座(浪花座)が生き残り「浪花五座」と呼ばれた。
これらの劇場は時代の波とともに姿を消したが、人形浄瑠璃は「国立文楽劇場」、歌舞伎は「大阪松竹座」、演芸は「松竹芸能 DAIHATSU MOVE 道頓堀角座」など新たに誕生した劇場で上演され、いまも劇場演芸街、道頓堀の風情を伝えている。

木橋だった初代橋から数えて現在の戎橋は15代目。明治11年(1878)に鉄橋になり、大正14年(1925)の鉄筋コンクリート製アーチ橋を経て平成19年(2007)に完成した。事業費10億円をかけたこの橋は公募で選ばれたもの。橋の中央に劇場空間のように円形のバルコニーが広がり、川沿いの遊歩道へ続くスロープが設けられている。橋下の川辺にある御影石と青銅を用いた三連窓壁の高欄は先代橋の遺構。ぜひ見ておきたい。

橋の南北両サイドの橋の袂に大阪市が設置した銘板がある。
北側には「戎橋 白粉紙を 散らす恋」という岸本水府の川柳とともに洋画家の小出楢重が描く大正時代の戎橋も。そこには松竹座や浪花座の大屋根も見える。岸本水府は昭和初期の川柳作家で売れっ子のコピーライター。グリコの「一粒300メートル」の有名なキャッチコピーは彼の作品だ。南側の銘板にも「友だちはよいものと知る戎ばし」「大阪はよいところなり橋の雨」など、同じく水府の句が刻まれている。

島本さんのかるたにある「芝居好きにこにこ渡る戎橋」の句は、『川柳江戸歌舞伎』(西原柳雨・編、1925年刊行)に収められた川柳。なぜか戎橋には俳句よりも川柳がしっくりくる。
1月9日〜11日に行なわれる十日戎。今年は「今宮のえべっさん」を詣でたついでに、私も戎橋で天国の水府さんをニンマリさせるお茶目な川柳を吐いてみよう。

戎橋
難波橋
難波橋
橋下の遊歩道に先代橋の欄干が残る
写真撮影=池永美佐子


戎橋の位置
地図_露天神社

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、昨秋、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登頂。
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