いろはかるたで語る「大阪の橋」

水運で栄え「八百八橋」といわれるくらい たくさんの橋がつくられた大阪。人の往来や物流を支えた橋は、商人の町・大阪の礎でもありました。新シリーズ、いろはかるたで語る『大阪の橋』は、風刺漫画や似顔絵の大好きな島本貴子さんが描く「いろはかるた・大阪の橋」シリーズ(各48枚)を一部お借りして大阪の町人たちが大切にしてきた橋にまつわる風物や文化を楽しく解説します。

天神橋イラスト

「日本三大祭」の一つで、生玉夏祭、住吉祭と共に「大阪三大夏祭」の一つでもある天神祭。7月25日の本宮には、大阪天満宮の主神、「天神さん」こと菅原道真公の御神霊をのせたお神輿が氏子たちによって担がれ氏地を巡り、天神橋北詰の大川のほとりから船に移されて大川上流を廻る。夕闇迫る大川を、鈴なりの提灯で飾った大小百艘あまりの船が行き交う船渡御(ふなとぎょ)は荘厳で幻想的だ。
船渡御のスタート地点ともなる「天神橋」は、豊臣秀吉の時代に初めて架けられ、天神さんを祀る天満宮が管理していたことからこの名がついた。1634年(寛永11年)には江戸幕府が管理する公儀橋となり、同じ大川に架かる「難波橋」、「天満橋」と並んで「浪華(なにわ)三大橋」と呼ばれたが、天神橋は大川ではもちろん大阪でも一番長い橋だった。
大阪にこんなわらべ歌が伝わる。
  ♪天神橋長いなあ、落ちたら怖いなあ♪
「橋博士」で知られる松村博氏の著『大阪の橋』(松籟社)によると、「1832年(天保3年)の天神祭で天満市場の地車を担ぎ出す際、天神橋の一部が落ち、13名もの溺死者を出すという大事故が起こった」と記されている。歌はこの事故がきっかけで生まれたようだ。
当時はご覧のような木橋で全長約250メートル。橋の下に今のような中洲(中之島)はなく、駄々広 い川が流れていた。現在架かっているコンクリートと3連の鋼製アーチ橋は昭和9年に架設されたものだが、こちらは約211メートル。江戸時代の天神橋のほうが長い。江戸時代の橋幅は6.8メートル。子どもたちの目には恐ろしく長い橋に映ったに違いない。

ちなみに「天神さん」と親しまれる菅原道真公は、「学問の神」として知られているが、この信仰は江戸時代から始まったものだ。道真が没した平安時代末期は天から降りてきた「雷神」として崇められた。
というのも、道真公は藤原時平の陰謀によって大臣の地位を追われ、大宰府へ左遷された後に失意のうちに没した。彼の死後、京の都では疫病が流行り、醍醐天皇の皇子も相次いで病死。その上、930年(延長8年)には平安京の清涼殿に落雷があり多くの死傷者を出したことから、人々は道真公の怨霊だと恐れ古来の火雷天神と結びつけた。「天神さん」の名もここから来ている。しかし、時代が移り災害の記憶が風化するにつれて怨霊のイメージは薄れ、優れた学者や歌人でもあった道真公の功績にあやかって学問の神へと変わっていったという。
天神橋にまつわるちょっとミステリアスなお話。
今年の天神祭は、こんな歴史秘話で夕涼みしてはいかがでしょうか?

天神橋
天神橋
写真提供=大阪市建設局

天神橋の位置
地図_天神橋

島本貴子
京都生まれ、大阪育ち。大谷女子専門学校卒業。14年間大阪で中学校家庭科教師として勤務。河村立司氏に師事し漫画を学ぶ。山藤章二氏「似顔絵塾」の特待生。「大阪の食べもの」「浪花のしゃれ言葉」などをテーマに「いろはかるた」を多数制作。このイラストも自作。

池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味はランニングと登山。山ガール(山熟女?!)が高じ、キリマンジャロ登頂を目指して修行中。
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