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第11話
"心の手"で自らの運命を切り開いた
「日本のヘレンケラー」大石順教尼
 
 
文/写真:池永美佐子
 
マンションが林立し、流行のファッションに身を包んだ若者たちが行き交う大阪市西区堀江。この辺りは、江戸時代以降、戦前まで、待合茶屋や人形浄瑠璃などの芝居小屋や寄席の小屋などが建ち並び、道頓堀に負けないにぎわいをみせた。
その一角で明治38年(1905)日本中を震撼させる殺人事件が起こった。逆上した茶屋の主人が日本刀を振り回し、同居人や芸妓など5人を惨殺するという、世に有名な「堀江六人斬事件」だ。 この事件で両腕を切断されながらも唯一、一命を取り留めたのが、17歳の舞妓「妻吉」(大石よね)だった。
苦難の道を辿った妻吉はやがて開眼して「順教尼」となり、障がい者のための自立や芸術振興に人生を捧げた。「障がい者の心の母」「日本のヘレンケラー」とも称される。
 

大石順教尼
(右は高野山で得度した45歳の頃)

 
 
●「堀江六人斬事件」で両腕を失う
舞妓として活躍した頃
「妻吉」こと、大石よねは、明治21年(1888)大阪の道頓堀で寿司屋の長女として生まれた。上に兄がいる。12歳で京舞の名取となり、その才能を見込まれて13歳の時に大坂堀江で「山梅楼」を営む中川万次郎の養女となった。万次郎は武士の出身で芸事に精通し、組合の技芸委員長を務めていた。才能のあるよねに大きな期待をかけ支援も惜しまなかった。しかし、妻が幼子を残して若い男と駆け落ちしたのを機に、酒浸りの生活に変わっていった。
芸妓として活躍するよねの身に悪夢が襲いかかったのは、明治38年(1905)6月20日の深夜。狂乱した万次郎が、同居していた妻の母親と弟と妹、それに養女である2人の芸妓の計5人を日本刀で殺害してしまう。
生首が転がる血の海地獄の中で、17歳のよねだけが唯一生き残る。しかし、その姿は、両腕を切り落とされ、頬から口にかけて切りつけられるという無残なものだった。
奇跡的に一命を取り止めたよねは、病院で警察の聞き取りに対して、こう答えている。
「私は重い傷だすよって、いつ死ぬかもしれまへん。けれど私、お義父さんを怨み憎んで死ぬのは嫌だす。お義父さんはお上のお裁きを受ける人だす。私への罪のつぐないはお上で取りはりますやろう。けれども、4年間のお義父さんの恩は、私返してありまへん、今恩返しをして私、死にとうおます。お義父さんの罪をかるうしてほしおます」(大石順教著「無手の法悦」より)。
願いもむなしく、ほどなく万次郎は死刑になる。よねは、事件の翌年、犠牲者の一周忌法要を千日前の法善寺で営み、さらにその翌年には天王寺に万次郎の墓を立てている。
 
 
●師は「小鳥」。両手がなくても、何でもできる!
芸妓としての人生を断たれたよねは、自分を世話してくれる両親のために桂文団治や金馬一座に加わり、地方巡業をして生計を立てる。長唄と小唄で高座に出たが、観客は「両腕のない、六人斬りの生き残りの女」を見るために押し寄せた。絶望と周囲の好奇の目に耐え、第二の人生を歩み始めたよねは、名人ぞろいの落語家の中で一躍人気を集めた。
3年の歳月が流れたある日、巡業中に滞在していた旅館で、よねは庭の松の木に吊るしてある鳥篭の中のカナリヤが雛に口で餌を運んでいる姿に目を奪われる。
鳥は手がなくても、一所懸命生きている!
よねは、自分も筆を口に加えてで書画を書こうと決意をする。字を知らなかったため、巡行先にある小学校に飛びこんで校長先生に教えを乞うた。滞在中の旅館の子どもに教わることもあったという。血のにじむような練習を重ねる中で、和歌にも目覚め、生玉にある持明寺院の住職、藤村叡運師に師事して国文学の勉強を始める。
 

作品「忍梅」

 
 
 
●二児の母となり、絵更紗で生計を立てる
作品「王三昧」
大津絵も多数描いている
やがて芸人生活にピリオドを打ち、道頓堀に戻ったよねは、一家で割烹店を開くが、しばらくするとその店を兄に任せ、自分は仏門に身を置こうと念願する。しかし、叡運師に「真の尼になりたいならば、その前に母になれ」と諭される。
そんな矢先、作家直木三十五と店に出入りしていた日本画科の山口草平と知り合い、意気投合して明治45年(1912)に結婚、よねは一男一女の母となる。手のない妻に代わってオムツ替えもしてくれる優しい夫に支えられ、貧しいながら仲睦まじい日々が続いた。結婚生活は15年間続いたが、協議離婚している。画家として売れ始めた草平の将来を考えたよねは、手伝いに来ていた気立てのいい女性に妻の座を譲る形で別れを告げた。
叔父でもある東京・渋谷の臨済寺住職、鈴木子順師を頼って上京したよねは、二児を抱えて寺の一室で生活を始める。幸い、若林松渓谷画伯の指導や草平の影響を受けて日本画の実力もついていた。帯地に更紗の絵を描き、呉服と一緒に背中に担いで行商で生計を立てた。その際、感謝の印に短冊や色紙に書いて渡した短歌や俳画が、お客さんの心を捉えた。
絵更紗は人気となり、三越百貨店で個展を開くまでになったが、その矢先、関東大震災に見舞われる。こつこつと描き溜めた商品も灰と化した。
またもや、すべてを失ったよね。しかし、あきらめなかった。大量の失業者があふれる街の中で、夕刊売りをして生計の足しにした。
「手はなくてもお客さんに新聞取っていただき、お金を置いていただければいい」。後によねは、こう述べている。(石川洋著「無いから出来る」より)
 
 
●出家し、障がい者の福祉活動に人生を捧げる
大阪に戻ったよねは、40代になっていた。画筆に専念し、昭和6年(1931)、河内の高安に草庵「自覚庵」を設けて尼僧を志すと同時に、ここで自分と同じ身体に障がいを持つ人の福祉相談を始めている。福祉制度も整わない時代の中で、よねの活動に共感して資金提供を申し出る支援者も現れた。
昭和8年(1933)、45歳の時に高野山天徳院で得度し、名を「順教」と改めた。3年後、活動の場を京都山科に移し、大本山勧修寺境内に身体障がい者福祉相談所「自在会」を開設。障がいを持つ人たちを住まわせて、書や画を教え自立教育を行った。
さらに、昭和22年(1947)には、自在会を改め「仏光院」を設立。また、書画では昭和30年(1955)「般若心経」の写経が日展に入選。昭和37年(1962)、東アジアで初めて世界身体障害者芸術家協会の会員に選ばれるなど、芸術家としても開花した。昭和41 年(1966)にはドイツのミュンヘン美術館で個展が開催され、作品は現地でも大きな反響を集めた。
「身体障がい者の心の母」、「慈母観音」と慕われた大石順教尼は、昭和43年(1968)4月21日、信心する弘法大師の入寂と同じ日に勧修寺境内「可笑庵」(身障者いこいの家)で亡くなった。80歳だった。
順境尼の元で育てられ、生きる術を学んで巣立っていった障がい者の数は、200人にも及ぶという。生前「死んだ後のことを心配するよりも、生きている間に徳を積むように」と語った順教尼は、亡くなる前日まで元気に活動し、蓄財を残さなかったといわれる。
高野山奥之院近くの中之橋には、終生心の支えとしてきた観音像菩薩と共に、「肉体の腕はなくても心の手をいただけるように」と、順教尼自らが生前中に切断された両腕を納めた『腕塚』が建立されている。
作品「観音座像」 
九度山町にある旧萱野家
(大石順教尼の記念館)
 
 
順教尼が高野山で得度した際、しばしば宿泊したという和歌山県九度山町にある旧萱野家(大石順教尼の記念館)を訪ねてみた。ここは、得度の際に菩提親となった、萱野正之助・タツ夫婦が住んでいた萱野家の私邸だったが、文化財の保存・保護のため九度山町に移管され、昨年1月に順教尼ゆかりの資料館として生まれ変わった。
寺院建築様式を残す建物は、江戸時代中期に高野山真蔵院の里坊(不動院)として建立された由緒あるもの。館内には不動院の寺宝と順教尼が滞在中に書き遺された直筆の書画や、愛用の生活用品などが展示されているほか、順教尼が使われた大正末期の数寄屋風書院が当時のままの状態で残され、江戸中期の土蔵では順教尼の人生をまとめた動画も上映されている。
「子どもの頃に何度か順教先生を九度山駅までお迎えに参りましたが、明るく洒脱なお方で、人を包み込むようなオーラを感じました。時代が変わっても人の悩みは変わりません。順教先生の生き方に触れて、力強く生きるヒントにしてもらえたら」と、7代目当主で館長の萱野正巳さん(75)が話す。正巳さんは、正之助・タツ夫妻の孫に当たる。
人生は何か起こるか分からない。そんな中で、どんな逆境にあっても失ったこと(もの)に執着せず、今あるもの、現在の自分自身の中に可能性を見出し、感謝の心を持って臨めば必ず扉は開かれる。順教尼の生き方は、世代や時代を超えて人々にそんなメッセージと大きな勇気を与えてくれる。
<※撮影および資料提供協力:旧萱野家(大石順教尼の記念館)>
旧萱野家別棟「順教尼の館」
「順境尼の館」の前から
高野山を望む
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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←2007年〜2009年度連載「関西歴史散歩」はこちらからご覧頂けます。
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