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第10話
大阪を「東洋のマンチェスター」に仕立てた経営者、山辺丈夫
 
 
文/写真:池永美佐子
 
かつて大阪が「東洋のマンチェスター」といわれたことをご存じだろうか。明治維新以降、大阪はとくに商社や銀行に支えられて紡績業をはじめとする綿業が急速に発展、日本一の工業都市になったが、その引き金となったのが、西成郡三軒家村(現・大正区三軒家)につくられた「大阪紡績」、今日の東洋紡だ。
そして、英国の紡績業を模範として渋沢栄一の肝煎りで作られたこの工場に支配人として迎えられたのが山辺丈夫(やまのべたけお)だった。JR大正駅近く、三軒家東小学校の横にある工場の跡地は、いま児童公園になり、かつてのにぎわいを記した石碑と説明板が建っている。
 

「近代紡績工業
発祥の地」の碑が建つ
三軒家公園

 
 
●ロンドンの下宿先に舞い込んだ一通の手紙
ロンドン時代の
山辺丈夫
(東洋紡提供)
明治12年(1879)春、留学先の英国ロンドン大学で経済学(保険)を学んでいた山辺丈夫は、渋沢栄一から一通の手紙を受け取った。渋沢栄一といえば第一国立銀行頭取で東京商法会議所会頭を務める実力者。会ったことはなかったが、手紙の内容は「日本で本格的に紡績産業を起こしたいから、英国で紡績のことを学んでほしい」という、ビッグな依頼だった。
当時、日本の紡績産業は大阪や三河を中心に綿製品はたくさん作られていたが、大規模な紡績工場がなかった。しかも品質面においても西欧の輸入品と比べるとずいぶん見劣するものだった。
「日本にも西欧並みの技術を持つ工場を作りたい」。そう考える渋沢は、 英語に堪能で西欧の工場事情に精通する日本人経営者の発掘に乗り出したが、そこで白羽の矢が当たったのが山辺だった。
2人を結びつけたのは、蘭学者で思想家の西周(にしあまね)だったといわれる。山辺と西は、ともに石見国津和野藩(現・島根県津和野市)の出身で、渋沢から相談受けた西や、その教え子で渋沢の部下でもあった津田束(つだつかね)が山辺を推薦した経緯があった。
 
 
●経済学から機械工学にコース変更
山辺丈夫は嘉永4年(1851)、津和野藩士、清水格亮の次男として生まれたが、藩主、亀井慈監の命で幼いうちに同僚の山辺善三の養子になっている。藩校の「養老館」で儒学を学び、17歳の時には、幕府軍として戊辰戦争に参加した。
ちなみに津和野藩から出た同時代の人物には、西周のほか森鴎外がいる。鴎外と西は親戚関係にあった。維新後、山辺は上京して西が開く私塾「育英舎」で英語を習得、西から強い影響を受けた。ちなみに英語の「philosophy」を翻訳する際「哲学」という日本語を生み出したのは西周だ。
ロンドン留学も西の紹介だ。旧藩主の子息、亀井慈明の「教育係兼通訳」という名目だった。当時、山辺は26歳。定子と結婚したばかりで新婚早々単身での海外赴任となった。
 
 
 
 
●マンチェスターの紡績工場で紡績工に
明治16年
創業当時の三軒家工場
(東洋紡提供)
 渋沢からの直々の懇願に、山辺は舞い上がったに違いない。1週間後にはOKの返事を返している。直ちにロンドン大学からキングスカレッジに転校、専攻を経済学から機械工学に変更した。カレッジで基礎を学ぶが、机上の学問だけでは役に立たないと思ったのだろう。当時世界の最先端の紡績工場地帯といわれたマンチェスターの工場で実際に紡績工として勤めることを決意する。
それにしても、なんとも素早い決断力と大胆な行動力! すでにこの頃から起業家としての片鱗がうかがえる。これに応えて渋沢は研究費として1500円を山辺に送金している。現代のお金に換算すると3000万円ぐらいだろうか、渋沢は「清水の舞台から飛び降りるつもりで送った」と述懐している。
しかし、マンチェスタ−に向かった山辺は、いろんな工場に掛け合うが、東洋の小国からやって来た若者を雇う事業主はだれもいなかった。市長に働き掛けたが、これも失敗。しかし、これぐらいであきらめる男ではない。「採用されたら謝礼金を払う」という前代未聞の「見習料付き入社希望」の新聞広告を出した。
マンチェスターから少し離れたブラックバーンで紡績工場を営むW・ブリッグスという工場主が、山辺の熱意に打たれて採用してくれることになった。見習工として入社した山辺は現地の労働者と共に働き、綿花の性質から、紡績技術、原料の購入、機械の操作などを精力的に勉強した。工場では当初、東洋人に対する人種的偏見もあったが、大志を抱いて孤軍奮闘する山辺の姿に心を打たれ、次第に協力する仲間が増えていった。
ここには1879年9月1日から翌年5月27日にロンドンを去るまで約9カ月在籍。山辺は研究費の大半をブリッグスに支払った。帰国後も研究開発のため、この工場に何度も足を運んでいる。
 
 
●斬新なアイデアで日本初の紡績に挑む
帰国した山辺は、渋沢らと精力的に紡績会社設立の準備を開始した。当初、動力を水力発電に求めたが、調査してみると水流が足りない。上流に工場を建設するとなれば費用も嵩み、輸送面でも不便だ。最終的に紡績工場では初の蒸気機関の導入に踏み切った。
工場用地には三軒家村の官有地が選ばれた。原料綿花の産地に近く、輸送も便利で労働力も豊富な立地というのが理由だった。
明治15年(1882)建設が始まった。32歳の山辺は月給50万円の工務総支配人だ。
レンガ造りの工場は1190坪(約4000u)。雲に突きさすような長い煙突に、町の人たちは驚いた。機械は英国プラット社製のミュール機紡績2万5000錘。プラット社から技師が来日して指導に当たる一方、山辺も自ら翻訳した技術書技術者4人に渡して講義した。
最新鋭工場が操業を開始したのは、明治16年(1883)7月。滑り出しは順調で製品の評判もよかったが、西欧の工場に比べるとまだまだ規模が小さい。深夜業を開始すれば、生産力は2倍になる。そう、思いついた山辺は2カ月後に二部交代の深夜業を開始した。
ところが、深夜業を始めてすぐ、照明に使っていた石油ランプが綿花に移ってボヤを出す騒ぎになった。山辺は渋沢ら経営首脳陣に掛け合い、白熱電灯を導入した。当時白熱電灯はエジソンが発明してから7年しかたっておらず「エレキテルライト」と呼ばれていた。
この電灯が使われているのは皇居ぐらいしかない。夜になるとこのハイカラな不夜城に、見物客が押し掛けた。その数は3日間で5万人に上ったという。設備も運営も時代の最先端を切っていた。
大阪紡績開業記念。
(明治16年7月)
前列右から2番目が山辺
(東洋紡提供) 
三軒家工場内部、
かせ機 (東洋紡提供)
 
 
●「久しく誠ならん」
4年後の明治20年(1887)には3号工場が完成。3万錘の機械が導入されると従業員も創業当初の290人から1300人に増えた。
大阪紡績がけん引して、日本中に大規模な紡績会社が生まれた。鐘ヶ淵紡績(後の鐘紡)、摂津紡績(後の大日本紡績)、東京紡績などその数20社に及んだ。国産綿糸は国内需要を満たすだけでなく、輸入綿糸をしのいで日本の紡績業は輸出産業となった。他者に先駆けて明治24年(1891)に中国に輸出したのも大阪紡績だった。
好調な業績を受けて株主への高配当が続いたが、工場乱立による過剰生産で価格が下落。加えて日清戦争のあおりで不況に見舞われた。山辺は時短を実施するなど対策を講じた。国家や公益の見地を重視する山辺の経営に、配当政策を巡って大株主の一部から攻撃されたこともあったが、そんな山辺の後ろ盾となって励ましたのも渋沢だった。
山辺は明治29年(1896)には専務取締役になり、31年(1898)には松本重太郎社長の後を継いで、大阪紡績の社長となった。日本の株式会社における初の技術畑サラリーマン出身の経営者だった。その後、山辺は大正3年(1914)まで大阪紡績の社長を勤め、三重紡績との合併により誕生した東洋紡の初代社長に就任した。大正5年(1916)には社長辞任し、相談役になっている。
また、山辺は多くの人が認める人格者でもあった。その誠実な人柄は、渋沢が山辺に贈った書にある「久而誠矣(久しく誠ならん)」という言葉からもうかがわれる。
私生活では、工場設立の年に誕生した一人息子の龍一を、皮肉にも工場内の機械に巻き込まれる事故で失っている。わが子の死を悼む山辺は、龍一が通っていた三軒家尋常小学校に校舎を寄付しているほか、郷里の津和野小学校や、戦没者家族などへも寄付を行い、関西商業学校(現・関西大倉学園)に奨学金制度を設けた。
大正9年(1920)年、70歳の生涯を閉じたが、生涯清貧に甘んじ、財産はほとんど残さなかった。「日本の繊維工業の父」と称されるにふさわしい人生だった。
大阪紡績
三軒家工場のレンガ
 (東洋紡提供)
阿倍野斎場に眠る
山辺丈夫の墓(左)
右は丈夫が建立した
長男龍一の墓
 
 
 
この記事を書くため、東洋紡広報室に協力をお願いして社史編集室を訪れた。ここは非公開だが、写真のほか山辺丈夫の残した日記手帳や、彼が翻訳した技術書の単語帳をはじめ、大阪紡績に使われていた煉瓦など貴重な資料が大切に保管されている。
手帳に記された力強い肉筆を目の当たりにすると、明治の時代に生きた経営者たちの壮大なビジョンや変革力、独立心がドクドクと脈打って伝わってくるようだ。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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←2007年〜2009年度連載「関西歴史散歩」はこちらからご覧頂けます。
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