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◆新連載開始にあたり
2010年4月からWEB連載「大好き関西! わが町の偉人たち」〜関西ゆかりの歴史人物を訪ねて〜 を開始します。
日本の近代化やまちづくりに寄与した関西ゆかりの歴史上の偉人を取り上げ、人物ゆかりの地を、ライターの池永美佐子氏が実際に歩いて、写真撮影などの取材を致します。
偉人達の斬新なアイデア、不屈の精神など、彼らの生き様や偉業を通して関西経済の力強さに触れ、地元の雑学ネタなどもご紹介して楽しくお読み頂ける連載をめざします。
更新は毎月月初めに行い、2011年3月までの1年間に12話を掲載する予定です。
関西の歴史を散策気分で、気の向くままにご案内します。
いつ、だれをご紹介するかは、毎回のお楽しみです。 乞ご期待下さい。
ファミリ会関西支部

 
第1話
大坂を「天下の台所」に導いた元祖ベンチャー、淀屋
 
 
文/写真:池永美佐子
 
安土桃山から江戸時代の初めにかけては、経済や社会の仕組みが激変し才覚があれば一代で巨万の富が築ける「ベンチャーの時代」だった。
その先鞭を切った一族が淀屋。戦国の世を掻い潜り、大坂を「天下の台所」に導いた元祖豪商だ。土佐堀川に架かる「淀屋橋」は、淀屋が架けたといわれる。
でも、淀屋がどうやって富を築き上げたのか、なぜここに橋を架けたのか、となると、イマイチよく分からない・・・ナゾに包まれた淀屋を追ってみた。

まずは、手かがりを求めて淀屋橋の南詰へ。御堂筋の西側にあるスポーツ店ミズノの道路向かいに、「淀屋の屋敷跡」の碑と「淀屋の碑」が忘れられたように建っている。

淀屋の屋敷は心斎橋筋から西肥後橋の間にあって、この場所もその一角だったらしい。

宅地内の小路は「淀屋小路」と呼ばれ、「いろは」の順に48もの蔵が立ち並んでいたとされる。楕円形の青銅製の碑には、にぎわう店の様子が描かれている。
 

当時のにぎわいが描かれている「淀屋の碑」

 
 
●「秀吉好み」のアイデアでビジネスチャンスをつかむ
淀屋の本姓は岡本。1代目は「淀屋常安」(ジョーアン・通称=三郎右衛門)。現在の京都府南部にあたる山城国 (やましろのくに)岡本荘の出身。武士だったが、織田信長に討たれて木材商になったという。大坂に出て十三人町(現在の大川町)に住み、「淀屋」を開いた。
常安という名前は、隠居して仏門に入ってからの号だ。
常安が頭角を現したのは、文禄3年(1594)豊臣秀吉の伏見城築城だといわれる。現場で巨石の処理に困っていることを聞きつけた常安は、大手門の工事を申し出て、大穴を掘ってその石を埋めるという「秀吉好み」のアイデアで解決。その功績で大坂城築城でも土木工事を勝ちとる。元武士の常安は、どうも築城や土木技術を持っていたようだ。
また慶長19年(1614)、大坂冬の陣では、徳川家康側に付き、陣所や兵糧を提供して利益を得た。この働きによって常安は、家康から名字帯刀を許され、山城国八幡(現在の八幡市)の山林300石を拝領する。
さらに夏の陣では、戦の後始末を願い出て、亡くなった兵を弔うと同時に大量の武具を処分して利益を得たといわれる。人脈づくりに長けた常安は、ビジネスチャンスをつかむと同時に人材を確保する術も磨いていったのだろう。
 
 
●米市を開き、中之島を開墾して橋をかける
現在の淀屋橋。
後ろは大阪市庁舎。
明けて徳川幕府となった元和元年(1615)。常安は、京橋1丁目にある淀屋屋敷に青物市を開き、続いて幕府に願い出て米相場の基準となる「米市」を設立した。
米が経済の基盤になった江戸時代。諸藩は年貢で集めた米を換金して藩経済を運営していたが、米の価格は仲介人によってばらばら。常安はそこに目をつけたのだ。常安は、さらに先物取引のシステムも導入した。
当初、淀屋の庭で開かれていた米市は手狭になり、湿地帯の中之島を開墾して行われた。中之島には米を貯蔵する諸藩の蔵屋敷が135棟も建ち並んでいたといわれる。淀屋は、米市に集まる商人のために土佐堀川に木の橋を架けた。この橋が「淀屋橋」の始まりだ。
事業は2代目の「言當(ゲント)」(別名=个庵(こあん))へと引き継がれ、淀屋の財力はますます磐石になっていった。
また、个庵は、茶人で男山石清水八幡宮の社僧「松花堂昭乗」と親しく交流していたといわれる。朝廷とも縁がつながる松花堂昭乗を後ろ盾につけ、徳川幕府に対抗したことが、その後よくも悪くも淀屋の運命を変えることになる。
 
 
●淀屋を潰した5代目、辰五郎
「長者」の名をほしいままにした淀屋も、4代目の「重當(ジュート)」あたりから、雲行きが変わり始める。屋敷は金張り、天井の上にはガラスの水槽を作って金魚が泳いでいた、という話しも伝わるほど贅沢三昧の暮らしになっていった。
極め付けは5代目「廣當 (コート)」(通称、辰五郎)だった。わずか15歳(17歳という説も)で当主となった辰五郎は、遊里通いをして1年半で2千5百両を使いきったという。

それでも足りず、奉行に変装させた仲間を自家の蔵に侵入させて2千両を引き出したところ、それが奉行所にばれて幕府から闕所(けっしょ)処分を受けることになる。

闕所とは財産没収の刑。淀屋は家財もろとも全財産を没収された上、米商の免許も取り消され、辰五郎は大坂から追放されてしまう。
 
淀屋橋の南詰にある
「淀屋の屋敷跡」の碑(右)と
「淀屋の碑」
 
 
●闕所の本当の理由
闕所の直接の理由は「町人の分限でいながら贅沢な生活が目に余る」というものだった。
しかし、それは口実。本当の理由は、諸大名に対する莫大な金額の貸し付けだとされている。つまり、当時、淀屋から借金をしていない者はないと言われ、その総額は利息も含めて20億両。今のお金に換算すると100〜120兆円ぐらいもいわれる。
借金で首がまわらなくなった大名があまりにも多かったため、淀屋つぶしにかかったというのが真相のようだ。
 
 
●再興した「淀屋」。番頭が敵討ち
半端じゃないスケールの持ち主の辰五郎は、闕所、所払いとなった後も記録を残している。宝永6年(1709年)、江戸へ逃れた辰五郎だったが、6年後の正徳5年(1715)、日光東照宮100年祭の恩赦で、かつて初代が家康から拝領した八幡の山林300石を返還されることになったのだ。
享保元年(1716)、八幡に戻った辰五郎は、男山の裾野に近い八幡柴座の地に住まいを構えた。が、なんとその翌年に亡くなってしまう。享年30歳だった(35歳という説も)。

まさにジェットコースターに乗ったような人生!

八幡の市街地には、いまも辰五郎の住まいの跡地に碑が立っており、男山の山裾に建つ神応寺に辰五郎の眠る墓がある。
 
八幡市内にある「淀屋辰五郎邸跡」。当時の門だけが残る。
 
 
ところで、淀屋の歴史はこれで終わらない。実は4代目当主、重當の時代に番頭をしていた「牧田仁右衛門」が、闕所に先立ち、密かにノレン分けして出身地である伯耆国久米郡倉吉に店を開いていたのだ。
その「牧田淀屋」、2代目は「多田屋」として大坂で木綿業を営んでいたが、牧田家5代目の4男、孝四郎成康は「淀屋清兵衛」と名乗り、闕所から半世紀後に淀屋橋の元の場所に「淀屋」のノレンを揚げて再興したという。
しかし、その淀屋も幕末には倒幕派を支援して全財産を投じ、幕を引く。「商人版、忠臣蔵」といったところか。
 
 
やけに小さい辰五郎の墓(左端)と淀屋一族の墓碑。神応寺にて。
桂川、宇治川、木津川の三大河川が一望できる神応寺の辰五郎の墓所を訪ねてみた。
2代目の个庵、3代目の箇斎、3代目の父にあたる五郎右衛門の大きな墓碑(辰五郎以外の一族の墓は大坂の大仙寺にある)の横で、申し訳なさそうに建っている小さな辰五郎の墓。戒名は「潜龍軒咄哉个庵居士」。「軒に潜む龍」とは辰五郎のことだろうか・・・。
上方商法には、古くから3つの特色が挙げられてきた。「始末」「算用」「才覚」だ。
色と欲に溺れて店をつぶした辰五郎を含めて淀屋のヒストリーには、ビジネスの教訓が込められている。と同時に、先見性を持って時代の変化に対応して果敢にチャレンジする精神や権力に屈しない反骨精神は、激動のいまを生きるビジネスパーソンに大きなエールを送ってくれる。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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←2007年〜2009年度連載「関西歴史散歩」はこちらからご覧頂けます。
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