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第7話
明治期に世界を駆け抜け、エコロジー思想を提唱した「知の巨人」南方熊楠
 
 
文/写真:池永美佐子
 
南方熊楠(みなかたくまぐす)。名は体を表すというが、熊楠ほど名前のイメージにマッチする人はいないだろう。両親から授かったこのユニークな名は、熊野信仰のクマと、熊野古道の入り口にあって「楠神さま」と崇められる藤代神社のクスノキに由来するという。
また、奇行の多いことで知られる熊楠だが、没後半世紀を経て関心が高まる地球環境の中で、その自然保護運動があらためて注目されている。
今月は、和歌山出身の科学者で明治期に世界を駆け抜けた「知の巨人」南方熊楠の生きざまを追ってみた。
 
 
 
●退屈な東大を中退、「天下の男」めざしてアメリカへ
米国時代に撮影した
24歳の熊楠
(写真提供=南方熊楠記念館)
若き日の熊楠の1枚の写真がある。日本人離れした大きな目と高い鼻。意思の強さをうかがわせるきりっと結んだ口。ふるさと和歌山で過ごした熊楠は中学時代には、この面相に加え、学校の授業そっちのけで山に入って植物採取をしたことから「てんぎゃん(天狗さん)」というあだ名で呼ばれていたという。
生まれたのは慶応3年(1867)だから明治の年号が、そのまま年齢になる。父親の与兵衛は和歌山の橋丁という城下町で金物屋や米穀店を営んでいた。6人兄妹の次男。抜群の記憶力を持つ神童といわれ、小学生のころから日本で最初の絵入り百科事典といわれる「訓蒙図彙(きんもうずい)」を写した。
中学時代には友達の家で見せてもらった漢文の百科事典「和漢三才図会」を記憶し、家に帰ってせっせと筆写した。15歳頃には105巻ある和漢三才図会を全て写し終えていたそうだ。
明治17年(1884)、大学予備門(現・東京大学)に入学。同期生には夏目漱石、正岡子規らがいる。ところが、知識欲旺盛な熊楠は既成の授業には飽き足らず、学校をさぼっては上野の図書館に通って和漢洋の書物を読み漁ったり、郊外に出かけて植物や化石を集めたり。落語も好きだったようだ。そんな調子だから2年生で落第し、自主退学してしまう。
和歌山の実家に戻ったが、勉学への意欲はさらにふくらみ、今度は渡米をもくろんだ。裕福な商家といえども当時、海外留学ともなればその費用は半端ではない。当初は大反対していた父だったが、熊楠のあまりの熱意に根負けして渡米を許した。
熊楠を乗せた船が横浜から米国に向けて出航したのは明治19年(1886)12月22日。19歳のときだ。「僕も是れから勉強をつんで、洋行すました其後は、降るあめりかを跡に見て、晴るる日本へ立ち帰り、一大事業をなした後、天下の男といわれたい」。
知人に当てた手紙の中で、熊楠は当時の心境をこう記している。
 
 
●珍しい植物を求めて北米から中南米へ
渡米後、サンフランシスコの商業大学に入学したが、まもなく、ミシガン州立農学校(現ミシガン州立大学)に転入している。しかしこの翌年、寄宿舎で酒を飲んで酔い潰れ、自主退学してしまう。そこからアナーバーに移り住むが、学校には入学せず山野で植物採集をしながら独習を始めた。シカゴの地衣類学者カルキンスに標本作製を学んだのもこのころだ。以降、熊楠は生涯を通じてアカデミックな学校や学会とは無縁の研究生活を送っている。
さらに熊楠は、希少植物や菌類を求めてフロリダ州ジャクソンビルや、キーウエストを回って、キューバ島のハバナに向かった。ハバナでは、サーカス団員の日本人と出会い、熊楠の話によれば「自分も象使いの助手をし ながら」 ハイチ、ベネズエラ、ジャマイカなど3ヶ月ほど中南米を巡業した。その間植物採集を続け、新種の地衣類(コケ類)「ギャレクタ・クバーナ」を発見している。熊楠はどこの言葉もすぐに覚え、なんと18ヶ国語を操ったと言われる。

アメリカで採取した植物の整理を終えた熊楠は、植物学の盛んな英国で勉強しようと、ニューヨークから船でロンドンに渡った。

 
洋行時代に愛用した
標本専用トランク
(写真提供=南方熊楠記念館)
 
 
●大英博物館で活躍
白浜にある南方熊野記念館
1891年(明治24)、ロンドンに入った熊楠は、送金先の銀行に届いていた弟の常楠の手紙から父の死去を知らされる。
下宿で標本整理を続けていたが、1892年(明治25)、英国第一の科学雑誌『ネイチャー』に天文学に関する論文「極東の星座」を寄稿した。これをきっかけに、熊楠の名はロンドンの学者たちの間で知られるようになり、大英博物館に出入りして研究するようになった。
博物館では古今東西の書物読みふけり、ノートに筆写した。「ロンドン抜書帳」と題するこのノートは英・スペイン・ギリシャ・ラテン・仏・独・伊・ポルトガルなど8種の言語で書かれ、52冊にも及んだ。
熊楠の関心は植物のみならず、人類学、民俗学、宗教学などに広がり、「ミツバチとジガバチに関する東洋の見解」「拇印考」など、熊楠が寄稿した論文は50回以上もネイチャー誌に掲載された。安アパートに住み「馬小屋博士」と呼ばれることもあったが、大英博物館の嘱託職員となり東洋関係の図書目録の整理を任された。
また、ロンドン時代には中国革命の父、孫文(そんぶん)や、後に高野山管長となった土宜法竜と出会い、親密に交流している。
一方で、熊楠は酒癖の悪さで失敗することも多く、東洋人への蔑視を繰り返す職員に反吐を吐くなどのトラブルを重ねて大英博物館を追われることになる。
日本からの送金も途絶えたため浮世絵の販売をして生活費を稼いだが、1900年(明治33)9月、困窮した熊楠は8年間過ごしたイギリスに別れを告げ帰国の途についた。
ちなみにこの同じころ、夏目漱石が国費留学生第一号としてロンドンに留学している。
 
 
●和歌山と那智山で本格的な隠花植物研究を開始
神戸港で兄の帰りを待っていた常楠の前に降り立ったのは、無一文で蚊帳のような服をまとい書物と標本だけを入れたボロボロのトランクを持った男だった。「これが意気揚々と出発した、あの兄さんなのか! 」。常楠はショックを受ける。
しかし、父亡き後、長兄に代わって外国で研究を続ける熊楠に送金し続けたのも、この常楠だった。酒屋を営む常楠は、商売上手で店も繁盛し、帰国後も熊楠になにかと資金援助していたが、晩年になって研究所設立の資金調達の問題などでもめ仲違いしている。
熊楠は、しばらく大阪にある寺で過ごした後、和歌山に戻って本格的に日本の隠花植物(菌類・藻類・地衣類)の研究を開始した。汗かきの熊楠は、夏になると山の中でも褌1丁で植物を採集していたため、ここでも天狗に間違われた。
明治34年(1901)にはロンドンで意気投合した孫文の訪問を受けている。和歌山から那智山に移った熊楠は、3年にわたって熊野植物調査を行い、顕微鏡標品や彩色図譜を作った。また、膨大な数の書物を読み、英国時代に世話になったロンドン大総長のディキンスとの共訳で英語版『方丈記』を完成させたり、土宜法竜との間で宗教論争の火花を散らしたりした。
弟子を引き連れて
植物採取する熊楠
(写真提供=南方熊楠記念館)
 
 
●森を守れ! 自然保護運動に情熱を燃やす
田辺にある南方熊楠邸の書斎
キャラメルの標本箱
(写真提供=南方熊楠記念館)
明治37年(1904)に田辺市に転居している。明治39年(1906)、闘鶏神社宮司の四女・松枝と結婚。猫好きの熊楠は、結婚前、松枝に会う口実に、たびたび汚れた飼い猫を連れてきては「猫を洗ってください」と頼んだというエピソードがある。翌年、長男熊弥(くまや)が、4年後には長女文枝が誕生した。熊楠は育児日記を付け、子どもに昔話を聞かせるなど子煩悩な父親でもあった。
田辺市中屋敷町の一角に、今も熊楠の旧邸が保存されている。ここは熊楠が1916年(大正5)から亡くなるまで25年間を過ごした場所で、住まいであると同時に植物研究所でもあった。南方の名が冠された新種の粘菌「ミナカテラ・ロンギフィラ」を発見したのもこの敷地内にある柿の木だった。
現在、この旧邸に隣接して「南方熊楠顕彰館」が建てられ、南方邸の土蔵に遺された膨大な書物や日記、書簡、論文、標本、資料などが収蔵されている。顕彰館では熊楠について学ぶことができ、南方邸では、熊楠の生活と研究の拠点であった場所、空間を実感することができる。
 
後半の人生は『神社合祀(ごうし)反対運動』を起こし、民俗学者の柳田国男や地域の人たちを巻き込んで自然保護運動に情熱を燃やした。明治39年(1906)に布告された「神社合祀令」は、明治政府が国家神道体制の確立を図るために行った神社の統合整理令で、一町村一社に整理するため由緒ある社だけを残したが、結果的に和歌山県と三重県とで1万近くあった神社が6分の1に激減してしまった。
神社が失われると、鎮守の森がなくなる。熊楠が合祀に反対したのは、森が隠花植物の棲み家というだけでなく、急激な古木の伐採が生態系のバランスを破壊するということだった。
熊楠は、とりわけ田辺湾に浮かぶ「神島」の保護運動に力を注いだ。その甲斐あって、神島は神島は昭和10年(1935)には国の史跡名勝天然記念物に指定された。
また、昭和4年(1929)、この神島は昭和天皇が行幸する地になり、熊楠が粘菌について天皇に進講するということになった。無位無官の者の進講は前例がなく大騒ぎになったが、63歳の熊楠は神島の林中を案内した後、お召し艦の上で約25分間にわたったって粘菌や海中生物について進講し、110点余りの粘菌の標本を献上した。その際に標本を、桐箱ではなくキャラメルの箱に入れて献上したことが、熊楠の人柄を表す実話として後々まで伝えられる。
晩年も研究に勤しんだが、太平洋戦争に突入した昭和16年(1941)の12月29日、「天井いっぱいに紫の花が咲いている、医者が来ると消えてしまうから呼ばんといてくれ」という言葉を最後に、妻と娘に看取られながら75年の生涯を終えた。遺骨は神島を望む田辺高山寺に安らかに眠っている。
 
 
 
田辺湾に浮かぶ神島が望める白浜に、遺族や熊楠の功績をしのぶ人たちによって築かれた「南方熊楠記念館」がある。
植物の生い茂る番所山の頂に建つこの白亜の資料館には、熊楠の生涯をたどる遺品が展示されている。熊楠が筆写した本、粘菌のスケッチ、愛用の顕微鏡、標本を入れた大きなキャラメル箱…熊楠が愛用した遺品や直筆に触れると、人や自然を愛し学歴やブランドに頼らずのびやかに学問し、自由に生きた熊楠の息吹が伝わってくるようだ。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
第一話 第二話 第三話 第四話 第五話 第六話    
←2007年〜2009年度連載「関西歴史散歩」はこちらからご覧頂けます。
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