若者でにぎわう心斎橋の北詰、安堂寺橋通と丼池筋が交差する道の南東角に「橋本宗吉絲漢堂跡」の碑が人知れず立っている。説明板もなく、足を止める人もなさそうだ・・・。
でも、この橋本宗吉は、江戸後期大坂の町人学者たちが育てた蘭学者で「大坂蘭学の始祖」と伝わる人物。ここに建っていた「絲漢堂(しかんどう)」は、宗吉が設立した大坂初の蘭学塾だったといわれる。
橋本宗吉絲漢堂跡碑 (中央区)
当時、江戸の私塾に集まる若者といえば、武士の子弟がほとんど。寺子屋も出ていない宗吉は自らのプライドと大坂町人衆たちの期待に応えるために死に物ぐるいで勉強した。そして記憶力抜群の宗吉は、短期間に4万語にのぼるオランダ語を習得して周囲を驚かせたといわれる。
猛スピードで目標を達成した宗吉は、4ヵ月後に帰坂。スポンサーの要望に応えて精力的に医学・天文・地理書などの翻訳を行った。その中には『オランダ新訳地球全図』(1796)、『蘭科内外三法方典』(1805)、『西洋医事集成宝函』(1819〜23)などがある。
天游は、闘病する恩師を看病し生活まで支えた。ところが、それから間もなく天保6年(1835)、宗吉よりも20歳も若い天游が、53歳の若さで急逝してしまう。
宗吉が亡くなったのは、天游が他界した翌年の天保7年(1836)5月1日。享年74歳。飢饉の最中、誰に看取られることなく一人で旅立っていった。