FUJITSU ファミリ会 関西支部関西支部FUJITSUファミリ会  
関西支部トップ > WEB連載>第一話
   
第2話
緒方洪庵につながる「大坂蘭学の始祖」、橋本宗吉
 
 
文/写真:池永美佐子
 
江戸時代には30〜40万人だった大坂の人口。その中で武士は1万人もいなかったといわれる。2人に1人が武士という江戸と比べると、武士の数は断然少ない。そんな自由な空気の中で、大坂商人たちは、ものをつくり、情報を共有しながら力をつけていった。
背景には「淀屋の闕所」(→前号にリンク)事件があったと思われる。「公儀」に頼って商いをしていても、いざというときには何の力にもならない。そのことを実感した大坂商人たちは、自分たちの力で新しい情報を収集して時代を読み解く力をつけようと「懐徳堂」(かいとくどう)をはじめとする民間の町人学校を次々と誕生させた。

若者でにぎわう心斎橋の北詰、安堂寺橋通と丼池筋が交差する道の南東角に「橋本宗吉絲漢堂跡」の碑が人知れず立っている。説明板もなく、足を止める人もなさそうだ・・・。

でも、この橋本宗吉は、江戸後期大坂の町人学者たちが育てた蘭学者で「大坂蘭学の始祖」と伝わる人物。ここに建っていた「絲漢堂(しかんどう)」は、宗吉が設立した大坂初の蘭学塾だったといわれる。

 

橋本宗吉絲漢堂跡碑
(中央区)

 
 
●「傘職人」から「蘭学者」へ華麗なる転身
宗吉が生活した北堀江界隈
「筋違橋」の親柱が
今も残る(写真は現中央区)
橋本宗吉(本名・鄭=てい)は宝暦13年(1763)、阿波国粗田野に生まれた。祖父、丹治兵衛は郷士だったが、父、伊兵が借金をつくり、幼い宗吉を連れて夜逃げ同然で大坂に出てきたといわれる。
北堀江の長屋に住んだ父子は、傘作りで細々と生計を立て、幼い宗吉も手伝った。手先が器用で記憶力に優れた宗吉は、傘だけでなく傘に描く文字や紋もすぐに覚え、利発な傘の紋書き職人として評判になった。
そんな勤勉で頭脳明晰な若者に目をつけたのが、大名貸しの商家「十一屋」の七代目主人、間長涯(はざまちょうがい=間重富)だった。算学や天文学者として後世に名を残した間長涯は宗吉に、自身の師である天文学者の麻田剛立や蘭方医、小石元俊(げんしゅん)、町人文化人などを引き合わせ、学問をする楽しさを教えた。
ある日、宗吉は長涯と元俊から思いがけない相談を持ちかけられる。「宗吉はんの家族の生活は我々で見るさかい、江戸に出て蘭学を学んできてくれへんか」と。
鎖国体制の日本では、蘭学が世界の情報を知る唯一の手がかりだった。しかし、当時の大坂には本格的な蘭学者が一人もいない。そこで町人有志たちの間で優秀な若者を江戸へ留学させようという計画が浮上し、宗吉に白羽の矢が当たったのだ。
「実学」を重視する町人衆にとって、蘭学を学ぶことは単なる知的好奇心からではなかったはず。いち早く「世界マーケット」を視野に入れた彼らは、将来に備え、宗吉をオランダ語の翻訳家兼通訳者に育てようとしたのではないだろうか。
 
 
●町人の名誉をかけて数ヶ月でオランダ語をマスターする
有志の中には、懐徳堂の学主、中井履軒や、そこに学ぶ木村蒹葭堂 (けんかどう)、枡屋の番頭、山片蟠桃(やまがたばんとう)などもいた。懐徳堂は享保9年(1724)、富裕な大坂の町人たちによって設立された学問所で、後に幕府の認可を得て官許学問所になった。
寛政元年(1789)、町人衆たちの期待を背負った27歳の若者は、江戸に向かって出発した。目的地の「芝蘭(しらん)堂」は杉田玄白の後を引き継ぐ大槻玄沢(おおつきげんたく)が率いる蘭学塾だ。宗吉は、東海道を飛脚並みの速さで歩き10日後に到着した。

当時、江戸の私塾に集まる若者といえば、武士の子弟がほとんど。寺子屋も出ていない宗吉は自らのプライドと大坂町人衆たちの期待に応えるために死に物ぐるいで勉強した。そして記憶力抜群の宗吉は、短期間に4万語にのぼるオランダ語を習得して周囲を驚かせたといわれる。

猛スピードで目標を達成した宗吉は、4ヵ月後に帰坂。スポンサーの要望に応えて精力的に医学・天文・地理書などの翻訳を行った。その中には『オランダ新訳地球全図』(1796)、『蘭科内外三法方典』(1805)、『西洋医事集成宝函』(1819〜23)などがある。

 
懐徳堂碑
(中央区)
 
 
●大阪初の蘭学塾「絲漢堂」を開く
宗吉の顕彰墓がある
念仏寺の本堂
(天王寺区)
寛政9年(1798)2月、35歳になった宗吉は、元俊の勧めで医所の看板も掲げ、安堂寺町五丁目の自宅に蘭学塾「絲漢堂(しかんどう)」を開いた。塾は文政元年(1818)に車町に移転するが、現在、碑が建っている場所は移転したこちらだ。
大坂初となった蘭学塾には、西日本から塾生たちが続々と集まった。門下生には伏屋素狄(ふせやそてき)、各務文献(かがみぶんけん)、中天游(なかてんゆう)などがいる。天游は絲漢堂で学ぶ傍ら自身も、後に私塾「思々斎塾(ししさいじゅく)」を開いた。
家族や仲間、子弟たちに支えられ、絲漢堂も大盛況・・・。順風満帆に思えた宗吉の人生だったが、やがて時代の波にのまれていく。
当時、商人たちが世界と通じることに脅威を感じた幕府は、蘭学を取り込む一方、民間蘭学に対して規制を加え始めた。そんな中で文政10年(1827)、弟子の藤田顕蔵(けんぞう)がキリシタン教徒の取締りで逮捕されたのを機に、師である宗吉にも捜査の手が回る。
平賀源内が紹介したエレキテルに強い興味を抱いていた宗吉は、絲漢堂の開設と前後してエレキテルの本格的な研究に着手し、日本初の学術的な電気実験を行って『阿蘭陀始制エレキテル究理原』を発表した。そんなこともあって、大坂町奉行所の与力、大塩平八郎から「キリシタンバテレンの妖術(ようじゅつ)使い」だと睨まれたのだ。
大坂蘭学の灯が消されることを恐れた宗吉は、ひとまず絲漢堂をたたみ、娘夫婦の住む芸州竹原(広島県竹原市)に逃れた。
 
 
●師なき後も、燃え続けた蘭学の灯火
しかし、宗吉はあきらめなかった。冬のように見えても見えないところで春の準備は進んでいる。「火種」さえ残しておけば・・・。「時代の変革」を察知した宗吉は、大坂に戻り再び絲漢堂の看板を掲げる。そんな宗吉の元に弟子の天游が駆けつけた。
低温と洪水の天候異常で全国的な凶作が続き、天保4年(1833)には、天保の飢饉が始まった。米価が高騰し、日本中に飢餓による死者があふれる中で幕藩の政策に対する不満が爆発して百姓一揆や打ちこわしが続出した。宗吉は、その様子を客観的に観察し後世のために記録しようと決意した矢先、脳卒中で倒れる。

天游は、闘病する恩師を看病し生活まで支えた。ところが、それから間もなく天保6年(1835)、宗吉よりも20歳も若い天游が、53歳の若さで急逝してしまう。

宗吉が亡くなったのは、天游が他界した翌年の天保7年(1836)5月1日。享年74歳。飢饉の最中、誰に看取られることなく一人で旅立っていった。

葬儀は両親が眠る念仏寺でひっそり執り行われたが、少ない参列者の中に、与力職を辞めた大塩平八郎の姿があった。かつて宗吉を追い込んだ平八郎も、宗吉に接するうち、民衆のために純粋に学問を追求する清冽な生き様に共感するようになっていた。
その大塩平八郎が「救民」の旗印を掲げて決起したのは、天保8年(1837)の2月19日。宗吉の葬儀から9ヵ月後のことだった。
そして、翌々年の天保9年(1838)、天游の弟子である緒方洪庵によって蘭学塾「適々斎塾」(適塾)が誕生した。適塾の塾生は3000人にものぼり、ここを巣立った数多くの逸材たちが明治維新という新しい時代を作り上げていった。
宗吉が残した蘭学の火種が、やがて大きな炎となって日本を大きく動かしていったのだ。
 
大正15年に建立された
念仏寺にある宗吉の顕彰墓(中)右は両親の墓
 
 
適塾(北区)
橋本宗吉が亡くなって今年で174年になる。5月1日はその命日だという。
どんな状況にあってもあきらめないで大坂蘭学の灯を燃やし続けた橋本宗吉の心意気。
そして、お上に頼らず自助自立の精神で最新情報を入手し、ビジネスチャンスをつくっていった大坂商人のパワー。
先人たちの生き方に習えば、いま降りかかる「100年に1度の不況」も怖くない。
※参考文献 柳田昭著「負けてたまるか」(関西書院)ほか
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
第一話              
←2007年〜2009年度連載「関西歴史散歩」はこちらからご覧頂けます。
お便りはこちらへ関西支部
<< 関西支部トップへ
 
サソ