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第3話
「過激にして愛嬌のある」反骨のジャーナリスト、宮武外骨
 
 
文/写真:池永美佐子
 
大阪市営地下鉄四つ橋線の肥後橋駅から土佐堀通りを西に進むと、あみだ池筋との交差点の南東角に「宮武外骨ゆかりの地」の碑が立っている。
「みやたけ がいこつ」。このへんてこりんな名前の御仁は、明治・大正・昭和を走り抜けたジャーナリストであり新聞史研究家、風俗研究家でもある。ちなみに「外骨」は本名。親が付けた名は「亀四郎」だったが、「亀は外に骨がある」といって17歳のときに戸籍改名したという。
 
 
 
●大阪で発刊した「滑稽新聞」が大ヒット
宮武外骨
(「宮武外骨ゆかりの地」の
碑の説明版より)
東京で活動していた宮武外骨が大阪にやってきたのは、自由民権運動も下火になった明治34年(1901)、外骨34歳のときだった。
東京で出版業を立ち上げたものの、発禁や投獄を食らった外骨にとって、大阪は魅力的に映ったのだろう。商業経済の中心地だった大阪は、政治や行政よりは商売と直結する実学や上方芸能に関心を示す人が多く、どちらかといえば反権力的な色合いの濃い町だった。
また、大阪は「大阪朝日新聞」と「大阪毎日新聞」が創刊されるなど、三大紙といわれる新聞社のうちの二紙がここで生まれ、新聞界をリードする町でもあった。
しばらくフリーターをして生計を立てていたが、市内で屈指の印刷業を営む福田友吉と意気投合し、明治34年(1901)京町堀通り4丁目で「滑稽(こっけい)新聞」を発行した。
滑稽新聞の表紙にそのスローガンが書いてある。「威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタリもせず」、「天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たていと)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あり」。不正役人や権力に媚びて甘い汁を吸う悪徳商人、権力に迎合する御用新聞を滑稽に痛快に風刺する新聞は、ちょっと猥雑で妖しいイラストや言葉遊びとあいまって大人気になった。
最盛期の発行部数は8万部だったという。当節の人気文芸雑誌『文芸倶楽部』の発行部数4万部弱だったということからしてもその勢いがうかがえるだろう。また、大ヒットの後ろには販売戦略があった。大阪駅など鉄道駅で弁当や飲料水の販売を仕切っていた達磨屋を取次店にして、売り子が「呼び売り」を始めたのだ。列車に持ち込まれた滑稽新聞は日本全国に読者を広げた。
 
 
●不敬罪で禁錮3年8ヵ月の実刑判決を食らう
外骨は慶応3年(1867)讃岐国阿野郡小野村(現・香川県綾歌郡綾川町小野)に裕福な庄屋の四男として生まれた。幼い頃から野村文夫の「団団珍聞」(まるまるちんぶん)や「驥尾団子」(きびだんご)などの滑稽風刺新聞に夢中になったといわれる。
高松栄義塾で漢学を学び、15歳で上京して本郷にあった進文学舎に入塾した。進文学舎は夏目漱石なども通った名門の進学塾だ。塾生の多くが東京帝国大学に進学する中、外骨はさっさと自分は「操觚(そうこ)者」になると決意しアウトローの道を歩み始める。当時は自由民権運動の全盛期、操觚者とは文筆家でジャーナリストを指した。

明治19年(1886)、弱冠20歳の外骨は屁茶無苦(へちゃむく)新聞社を設立、「屁茶無苦新聞」を創刊した。しかし、ただちに風俗壊乱の罪で発行禁止を食らってしまう。さらに、翌年に発刊した「頓智(とんち)協會雑誌」では28号に大日本帝国憲法を風刺した「大日本頓智研法」の条文と明治天皇を置き換えた骸骨の挿絵を掲載し、不敬罪で禁錮3年8カ月の実刑判決を食らう。この入獄体験が反骨の筆人、外骨の骨を筋金入りに鍛えたようだ。

 
 
 
 
●批判精神と比類のないユーモアセンスで権力と対抗
「滑稽新聞」173号
(自殺号)の表紙
(模写・制作=池永美佐子)
大阪で大成功を収めた「滑稽新聞」だったが、やはりここでも、言論弾圧を受けている。
発刊の8年間のうちに官吏侮辱罪などで関係者を含めて重禁錮や罰金刑を受けた回数は、入獄5回、罰金刑16回、その他新聞紙条例違反で発売禁止、発行停止処分は14回に及ぶ。
人気絶好調の最中、明治41年(1908)10月、滑稽新聞は173号を「自殺号」と名づけて廃刊してしまう。165号に掲載した「法律廃止論」が当局の検閲にひっかかり、発行禁止命令を受けたことに対する自爆宣言だった。しかし翌月には「大阪滑稽新聞」を創刊して、事実上「滑稽新聞」を続けるというしたたかさ!
「大阪滑稽新聞」の傍ら、続々と新雑誌を創刊した。大正2年(1913)には、後の阪急電鉄で社長となる箕面有馬電気軌道の小林一三(いちぞう)の後押しで、真面目で穏健な日刊紙「不二」を創刊している。
 
 
●「時代のありのままの姿を伝える新聞・雑誌」を後世に残す
大正4年(1915)、外骨は憲政擁護や普通選挙要求運動に湧く東京に向かった。48歳になった外骨は憲政擁護運動に加わる傍ら、新たな出版に着手した。「滑稽新聞」と並ぶ外骨の代表雑誌となる「スコブル」をはじめ「面白半分」「つむじまがり」「早晩廃止雑誌」などの雑誌が続々と生まれている。
晩年は東京帝国大学法学部の嘱託となり、歴史的価値のある新聞や雑誌の資料収集や保存に貢献した。昭和2年(1927)には、広告代理店「博報堂」の創業者、瀬木博尚の寄付金で同学部に付設された「明治新聞雑誌文庫」の事務主任に就いている。

それにしても、あれほど権力に対抗した外骨がなぜ権力の知的中枢のような東京帝大の官吏になったのか? この疑問について、外骨の研究家で甥でもある吉野孝雄氏が著書「宮武外骨〜民権へのこだわり」の中で次のように解説している。

「時代のありのままの姿を伝える新聞・雑誌を可能な限り数多く残しておく、というのが外骨の目的であり、その結果見えてくる歴史的事実を後世に伝えようとしたのだ」と。

確かに東大ほど安全な保管場所はない。実際、東大は第二次大戦の戦禍の中も敵機の襲来を免れた。「東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター」と改名された資料室には、外骨が全国の旧家を回って収集した膨大な資料にまじって、外骨自身が発行した雑誌や新聞、著作など約千点が今も大切に保存されている。
「してやったり」と、あの世でほくそえんでいる外骨の姿が目に浮かぶようだ。
81歳まで20年間勤務した明治文庫を昭和24年(1949)に退職。昭和30年(1955年)7月30日、明治・大正・昭和の時代を生き抜いた反骨のジャーナリストは、文京区駒込の自宅で40歳年下の妻、稲田能子に看取られながら88年の生涯の幕を閉じた。
 
「宮武外骨ゆかりの地」の碑
(西区)
 
 
 
一説によると外骨には16人の妻がいたとされる。けど、彼女たちは「愛人」ではなく「恋人」だったようだ。ちなみに結婚は4回(内縁関係を含めても5回)。婚姻中は一夫一婦制を遵守したらしい。連れ合いとは最期を看取った能子を除くと死別で離婚は一度もない。
それにしても壮快な人生ではないか。まさに滑稽新聞のスローガン「肝癪(かんしゃく)と色気」「過激にして愛嬌」を実践する生涯だった。
滑稽新聞をはじめ外骨のつくった新聞や雑誌は、大阪府立中之島図書館で閲覧することができる。色褪せてはいるけど、100年以上前に作られたとは思えないエネルギッシュでみずみずしい感性を放っている。それと同時に外骨のお叱りの声がきこえてきそうだ。
「ジャーナリズムは本来反骨である。媚びるな! 骨抜きになるな!中立報道くそ食らえ!」と。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
第一話 第二話            
←2007年〜2009年度連載「関西歴史散歩」はこちらからご覧頂けます。
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