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第6話
近江八幡で「ユートピア」をめざした社会起業家、ヴォーリズ
 
 
文/写真:池永美佐子
 
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。帰化して「一柳米来留(ひとつやなぎめれる)」という日本名も持つが、当の日本ではこのフルネームよりも「ヴォーリズ建築」で知られる。
大正期の代表的な赤レンガ建築の日本基督教団大阪教会をはじめとして、関西学院大学、同志社大学の図書館や学生寮、大丸心斎橋店など、彼が手がけた西洋建築は日本中に点在し、いまも残っているものが多い。その数は、国内外含め1600棟以上というから驚きだ。
ところで、ヴォーリズはもともと建築家ではなかったことをご存知だろうか? 家庭薬で知られるメンソレータム(現・メンターム)の輸入販売を行った実業家であり、病院や学校を設立した社会事業家でもある。

ヴォーリズが半世紀以上を過ごし、活動の拠点とした近江八幡を訪ねた。

 

ヴォーリズと満喜子夫妻
(ハイド記念館
展示パネルより)

 
 
●キリスト教徒伝道者として来日したヴォーリズ
初来日した際に持ってきた
ヴォーリズのトランク
(ハイド記念館で展示)
米国人のヴォーリズが近江八幡にやって来たのは、今から105年前の明治38年(1905)年2月2日、彼が24歳のときだった。目的は、キリスト教青年会館(YMCA)から派遣された英語教師として滋賀県立商業学校(現・滋賀県立八幡商業高等学校)に勤務するためである。この学校は滋賀県立として初めてできた商業学校で、実業界入りをめざす若者たちが全国から集まってきていた。
明るくて人懐っこくユーモアセンスたっぷりのヴォーリズは、たちまち生徒達の人気者になった。放課後には自宅を開放して聖書を学ぶバイブルクラスを開き、そこに参加する生徒は全校生徒の3分の2にも及び、洗礼を希望する生徒が続出した。
しかし、仏教徒が大半を占める町では、ヴォーリズの人気が高まれば高まるほど反発を感じる人たちがいた。2年目に入って着任した新しい校長は、宣教活動を理由にヴォーリズを解雇してしまう。
 
 
●建築家志望から、海外宣教の道に
彼の生い立ちにも触れておこう。
ヴォーリズは1880年、米国、カンザス州レブンワースという町に生まれた。
敬虔なクリスチャン家庭に育ち、高校卒業後は建築家を志してコロラド大学に進学。いつか自分が建築家として成功したら社会事業に多額の寄付をしようと夢見ていたが、在学中にカナダのトロントで行われた海外伝道学生奉仕団の大会に参加したことがきっかけで進路変更を決意する。

寄付するではなく、自らが海外宣教をすることが大切だと思うようになったのだ。大学卒業後、働きながら海外宣教をと望む彼に対して、ニューヨークの国際YMCA本部から下りてきた就職先が、近江八幡にあるこの高校だった。

「近江八幡は自分が選んだのではなく、神が決めた地」。そう考えるヴォーリズは、近江八幡を「世界の中心」と語り、着任当事からこの地に骨をうずめる覚悟をしていた。

 
 
 
 
●資金調達のため副業として始めた建築
アンドリュース記念館
(八幡基督教青年会館)
<国登録有形文化財>
 ヴォーリズはくじけなかった。八幡に留まって伝道を続ける彼を「免職の異人」と嘲笑する人もいたが、慕う卒業生も多かった。吉田悦蔵や村田幸一郎もその一人だ。彼らは生涯を通してヴォーリズの宣教活動やビジネスを支えた。
そんな中、ヴォーリズが生活の糧を得るために始めたのが、大学時代に少し勉強した建築だった。家を出てヴォーリズと吉田が住みこんだ八幡YMCA会館も、信者からの土地の提供を受けて彼が初めて建築設計した建物だ。
京都三条YMCA建築の現場監督の仕事を受けたヴォーリズは、その一室を借りて建築設計監督事務所を開業し、本格的に設計の仕事を開始した。後のヴォーリズ建築設計事務所(現・一粒社ヴォーリズ建築事務所)である。
住む人や使う人への心遣いに満ちたヴォーリズの洋館は、評判を呼び学校や教会、ビル、住宅や別荘へと広がっていった。明治43年(1910)には米国から建築家のレスター・チェーピンを招き入れ、その設計はさらに磨きがかかっていった。
彼らは夢を共有しながら「近江ミッション」と呼ばれる近江基督教伝道団を設立した。
 
 
●メンソレータムで資金調達
建築と並んでヴォーリズが財源として起こした事業に「メンソレータム」(現メンターム)の製造販売がある。この薬の発明者であった米国人A.A.ハイド博士は、極東の地でキリスト教の伝道に奮闘するヴォーリズの支援者でもあった。ヴォーリズたちが湖西方面の伝道のため琵琶湖を就航する発動機船を欲しがっていることを知ると、その船を寄付すると同時にメンソレータムの日本での販売権を無償で譲ってくれた。
最初はなかなか売れなかったこの薬も、信者の口コミなどから次第に売れるようになり、爆発的なヒット商品となった。大正9年(1920)年には、メンソレータムを始め建築材料やハモンドオルガン、ピアノ、天体望遠鏡などをアメリカから輸入販売する会社「近江セールズ」を興し、これが後の近江兄弟社となる。メンソレータムはその後、台湾や朝鮮、満州、樺太でも売られるようになった。

また、大正7年(1918)年には、八幡の北之庄に「近江療養院」を開院している。現在、ヴォーリズ記念病院という総合病院になっているが、開院当初は当時不治の病であった結核療養所(サナトリウム)だった。彼自身が幼少から腸結核で闘病したことに加え、設計事務所で働いていた遠藤観隆が肺結核で他界したことが病院開設に駆り立てた。この世の不安や悲惨と闘うヒューマニズムこそ、近江ミッションの考える使命でもあった。

 
1931年築の
ヴォーリズ記念館
(旧ヴォーリズ私邸)
<滋賀県指定有形文化財)>
 
 
●華族の令嬢、一柳満喜子と結婚
ハイド記念館
(国登録有形文化財)と
満喜子像
多くの人々との出会いの中でも、ヴォーリズにとって一番の支えとなったのは、夫人の一柳(ひとつやなぎ)満喜子だろう。父、一柳末徳は元小野藩の大名だった子爵、そして母、栄子はクリスチャン。そんな家庭に育った満喜子は、長くアメリカに留学していたことから英語も堪能だった。満喜子の兄、広岡恵三が自宅の設計をヴォーリズに依頼したことが縁で出会った二人は恋に落ちた。
広岡家は江戸時代から「加島屋」の屋号をもつ商家で、大同生命保険や加島銀行を経営していた。ヴォーリズ建築の代表作といわれた大同生命ビルも、そのつながりで建てられたようだ。
大正8年(1919)、二人はヴォーリズが設計した東京の明治学院大学内のチャペルで結婚。ヴォーリズ38歳、満喜子34歳だった。
幼児教育を勉強していた満喜子は、ヴォーリズのすすめで保育事業をはじめた。結婚の翌年に開設した「プレイグラウンド」というその保育事業は、2年後「清友園幼稚園」として認可された。この事業はさらに発展して、現在の近江兄弟社学園となった。
A.A.ハイド氏夫人の寄附によって、現在の近江兄弟社学園の地に建てられたヴォーリズ設計の園舎(現・ハイド記念館)には、ヘレン・ケラーも来校している。
 
 
●日本人になったヴォーリズ。日本名は「一柳米来留」
ヴォーリズ・満喜子夫妻の人脈と人柄で事業は、どんどんふくらんでいった。
しかし、昭和12年7月、中国の盧溝橋で日本と中国軍が衝突したのをきっかけに戦争が勃発、2年後には第二次世界対戦が始まった。
周囲が帰国を勧める中、ヴォーリズは昭和16年(1941)に日本国籍を取得。満喜子の旧姓である一柳家の籍に入って「米来留(めれる)」と改名した。ヴォーリズのミドルネームであるメレルに「米国より来て留まる」という漢字を当てた。
しかし、青い目の元米国人はスパイ容疑をかけられるなど不自由な生活を強いられたようだ。二人は戦争が終わるまで軽井沢に疎開した。
終戦後、近江八幡に戻ったヴォーリズは、昭和天皇を守るべく、マッカーサー元帥と近衛文麿元首相の会談の仲介を依頼されたとも伝わる。
晩年、ヴォーリズはクモ膜下出血に倒れ、以降、自宅で7年間闘病生活を送った。闘病生活と前後して、近江八幡市名誉市民第1号になったほか、国から社会公共事業に対する功績で「藍綬褒章」と、建築業界における功績で「黄綬褒章」を受けている。
満喜子夫人に見守られる中、昭和39年(1964)5月7日に83年の生涯に幕を閉じた。
葬儀は近江八幡市民葬と近江兄弟社葬との合同で行われた。遺骨は、その後に亡くなった夫人や近江兄弟社の他界した社員たちと一緒に、北之庄にある「恒春園」に眠っている。
「ここが世界の中心」を
現すヴォーリズの石碑
(近江兄弟学園内)
 
 
 
事業家としても数多くの偉業を成し得たヴォーリズ。その功績は、個人の利益や欲望のためではなく、キリスト教伝道に基づく隣人愛という「理念」が貫かれたものであり、まさに時代を先取りした「社会起業家」だった。彼の立ち上げた事業は、近江兄弟社グループの事業として、その精神とともに継承されている。
ヴォーリズが暮らした八幡商業高校のある界わいを歩いてみた。
昔ながらの静かな佇まいを残す街角には、ヴォーリズが設計した学校や教会、郵便局、夫妻が住んだ家を始めとして瀟洒な西洋住宅が溶け込んで点在している。
足を止めて写真を撮ったり、地図を眺めたりしていると「シャッターを押しましょうか?」「その建物なら、次の角を曲がったところですよ」と親切に声をかけてくれる町の人たちに何人も出会った。
ヴォーリズの蒔いた種は町中に芽吹き、世代交代しながらいまも新しい花を咲かせている。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
 
 
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←2007年〜2009年度連載「関西歴史散歩」はこちらからご覧頂けます。
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