FUJITSU ファミリ会 関西支部関西支部FUJITSUファミリ会  
関西支部トップ > WEB連載>第一話>第二話>第三話>第四話>第五話>第六話>第七話>第八話
  >第九話>第十話>第十一話>第十二話>第十三話>第十四話>第十五話>
第十六話>第十七話>第十八話>第十九話 >第二十話 >第二十一話 >第二十二話 >第二十三話
第二十四話 >第二十五話 >第二十六話 >第二十七話 >第二十八話 >第二十九話 >第三十話
第三十一話 >第三十二話>第三十三話>第三十四話>第三十五話
第三十六話
(最終話)
水運の父、角倉了以のベンチャースピリッツを追って桜の嵐山へ
 
 
文/写真:池永美佐子
京都の運河、高瀬川の開拓をした人物として知られる角倉了以(すみのくらりょうい)(第14話)。でも、功績のわりには、その人となりや生き様が語られることが少ないのはなぜだろう。写真家の田辺聖浩さんは「了以のルーツは、嵯峨・嵐山にあります」という。
田辺さんの案内で、桜爛漫の嵐山へ向かった。(取材および写真撮影は昨年4月に行ったものです)
●嵐電に乗って桜のトンネルを行く
「春の嵐山なら嵐電(らんでん)で行きましょう。待ち合わせは北野白梅町駅で」。
春の嵐山! 嵐電! 田辺さんの言葉に、遠足気分が高まる。
嵐電は京都市内と嵐山を結ぶ京福電気鉄道の路面電車。京都市北区の北野白梅町駅から出るこの北野線と、四条大宮から出る嵐山本線があり、両線は帷子ノ辻駅で合流している。
駅には、すでに茶色の車輌に金色の装飾帯が入ったレトロな電車が入線していた。
「運がいいですね。この電車は、モボ21形電車といって京福電気鉄道が1994年の平安京遷都1200周年記念行事の際に製造した車両です。この路線を走っています」。
1両ばかりのかわいい電車が、町なかをすり抜けるようにして走り出した。等持院、龍安寺、妙心寺、御室仁和寺・・・沿線には名刹が多く駅名にもなっている。
「前で立ったほうがいい」という田辺さんのアドバイスで、座席に腰掛けずに運転席の後ろに立っていたが、そのわけは5駅目の宇多野を過ぎたところで明らかに。

次の鳴滝駅までの線路の両側にそれは見事な桜・桜・桜・・・文字通り桜のトンネルだ。距離にすればわずか200mほどだけど、幻想的な風景が目の前に現れて、まるで昔話の絵本の中に入り込んだよう・・・。

嵐電「北野白梅町駅」
桜のトンネル
●「帷子ノ辻」に込められた人生哲学
嵐山に行くためには、終点の「帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅」で嵐山本線に乗り換え。 それしても、奇妙な駅名ですね。
「平安時代に嵯峨天皇の皇后で橘嘉智子(たちばなのかちこ=檀林皇后)という美しい女性がいたんです。仏教に帰依して自身もお寺を建立するほどでしたが、恋慕する若い男が後を立たない。それを憂いた皇后は、この世は無常ですべてのものは移り変わるということを伝えようと、自分が亡くなったら風葬にしてその姿をさらすように遺言したんです。帷子ノ辻は、その皇后の亡骸が置き去られた場所とか死装束に由来するといわれています」。
地名といえば、「宇多野」や「嵯峨野」は天皇の名前に由来するそうだ。
「天皇は崩御した後に名前がつきますが、多くは住んでいた地名がつくんです。嵯峨天皇は嵯峨野に、宇多天皇は宇多野に離宮を持っていたんです。今、宇多野は占師の細木数子さんが住んでいることで有名ですね (笑)」。
●桜と芸能の神様、車折神社
「寄り道しましょう」。
田辺さんのすすめで嵐山の3つ手前の「車折(くるまざき)神社駅」で下車する。
駅の前に広がる鎮守の森を通って神社へ。
「祭神の清原頼業は平安時代後期の儒学者で、もともとこの神社は桜が好きな頼業にちなんで「桜の宮」と呼ばれていたんです」。
境内には、約15種40本の桜が植えられている。早咲きの河津桜を皮切りに2月末ごろから桜が開花し、山桜や寒緋桜、ソメイヨシノ、枝垂桜・・・と続いて遅咲きの匂い桜まで、長い間桜の花が楽しめる。
中門の東からの参道にあるのは「溪仙桜(けいせんざくら)」。
「車折神社は富岡鉄斎が明治時代に宮司を務めていたことでも知られます。溪仙桜はその鉄斎と同人の画家、冨田溪仙(けいせん)が奉納したものと言われています」。
車折神社は芸能の神様としても有名だ。祭神の「天宇受売命」(あめのうずめのみこと)は、天照大神が閉じてしまった天の岩戸を開けようと、岩戸の前で踊ったとされる女神様。
境内を囲む朱塗りの玉垣には、芸能人の名前がずらりと並んでいる。西田敏行、米倉涼子、松平健・・・辺見マリ・辺見えみり母娘の名前も!
「芸能神社として有名になったのは、神社の近くに映画の撮影所ができてからです。東映松竹、今はないけど大映もありましたね。終戦後の一時期、太秦の一帯は日本のハリウッドといわれました。それで出入りする芸能関係者がこぞって参拝したんですね。このほかにも車折神社が栄えた理由として、三条通りにあることが大きいと見ています。この道は、丹波で伐採された材木や物資が保津川を通って嵐山で陸揚げされ、京都市内に運ばれる陸路になっていた。財力のある商人たちが神社を支えたんです」。
車折神社
●大堰川を開削して渡月橋を移動した角倉了以
表参道からバス道路の三条通りに出て西に進むと、「鹿王院」(ろくおういん)がある。
「鹿王院は足利義満が寿命を延ばすことを願って建てた禅寺です。当時、義満はまだ24歳でした。金閣寺が建立される22年前に建立され、舎利殿は金閣寺の原型と思われますが、大変質素です」。
鹿王院を出てさらに西へ進むと、いよいよ嵐山だ。
大堰川(おおいがわ)に架かる「渡月橋(とげつきょう)」は、桜で彩られた後ろの嵐山と調和して、まさに絵になる美しさ。
「渡月橋は、平安初期に亀山上皇が、くまなき月の渡るに似る、と詠んだことに由来します。当時の渡月橋は今よりもっと短くて橋桁も低く、少し上流にありました。角倉了以(すみのくらりょうい)が江戸時代初期にこの川を開削して今の場所に移したんです」。
現在の橋の長さは155m。2001年に付け替えられたものという。
ちなみに大堰川と桂川、上流の保津川は、同じ1本の川だ。丹波高原から発する淀川水系の桂川が場所によって異なる名称で呼ばれている。
「渡月橋より300メートルほど下流に、水をせき止める堰(せき)があるでしょう。桂川を開削してこの堰を作ったのが、角倉了以です。大きな堰のある川だから「大堰川」なんですね。保津川を通って運ばれた丹波の木材はここ嵐山で陸揚げされ、三条通を使って京のまちに運ばれました。川幅が広くて浅い大堰川は貯木場でもあったんです」。
 
鹿王院
 
渡月橋
●パソコンの神様を祭る電電宮
渡月橋を渡ると「十三まいり」で知られる法輪寺がある。十三まいりは、4月13日に13歳になった子どもがこのお寺にお参りして智恵を授かるという行事。ただし、帰りに渡月橋を渡り終えるまでは絶対に振り返ってはいけないといういわれがある。振り返るとせっかく授かった智恵を返してしまうとか。
「本尊の虚空蔵(こくうぞう)は、広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩さまです」。
「ちょっとおもしろい神社があるんです」。
田辺さんについていくと、法輪寺の境内に赤い鳥居のある「電電宮」なる小さな神社が。
「電気神社とも呼ばれています。祭神の電電明神は雷や稲妻の神様でエレクトロニクスの神様です。昭和31年に電気で発展する日本を祈念し、当時の郵政大臣や電力会社、テレビ局などが集まって建立されたんです」。
日本が今のようにIT王国になったのも電電明神のご利益か?! どうか富士通ファミリ会がますます発展しますように・・・と手を合わせた。
 
 
法輪寺
電電宮
●嵯峨・嵐山にいまなお生き続ける角倉了以
高瀬川の運河や大堰川を開拓した角倉了以。その足跡をさらにたどってみる。
嵐山では「角倉」を冠につけた文字が目に付く。嵐電の南側を走る三条通りのバス停の名前も「角倉町」となっている。
「了以はこの嵐山で生まれました。本姓は吉田氏、幕府お抱えの医者として勤めた家柄でした。信長や秀吉とも結びついて、安土桃山時代には御土居の建設や管理伐採の仕事を任されました。祖父の宗忠(そうちゅう)は、嵐山にある大覚寺境内で土倉(どそう)を始め、豪商として知られるようになりました。土倉とは一種の質屋とか高利貸業で、「角倉」は運営していた土倉の屋号ですね。父の宗桂(そうけい)は医者になりましたが、了以は算数や地理を勉強して海外貿易や国内の土木事業に進出したんです。貿易ではベトナムや東南アジアに朱印船を出し続けました。子の素庵(そあん)は貿易事業を受け継ぐ傍ら、本阿弥光悦と協同で嵯峨本(または角倉本)と呼ばれる木製活字本を出版したことでも知られています」。
了以が蓄えた財力で、大堰川の開削工事を始めたのは、江戸幕府が開かれて間もない慶長11年(1606)。
「亀岡から嵐山まで30数キロを結ぶ工事でした。火薬を使うことで起工してわずか半年で竣工したそうです。この水運によって丹波の国は水で京都につながるようになりました。さらに了以は幕府の命を受けて富士川、天竜川を開削し、続いて高瀬川を開削しました。了以はこれらの水運でさらに莫大な利益を得たんですね」。
 
角倉の名前が残る

●河川工事で亡くなった人たちを弔った了以
渡月橋の袂から河岸伝いに歩くと、約1.5kmほど上流に旅館がある。この旅館は、角倉家の邸宅跡だったとも伝えられる。明治時代に旅館として開業、長年「嵐山温泉・嵐峡館(らんきょうかん)」として親しまれたが、昨年12月、リゾート運営会社「星野リゾート」によって「星のや京都」として蘇った。
旅館を右手に眺めながら、さらにつづら折りの石段を20分ほど登ると、ひなびた禅寺がある。
「千光寺です。観世音菩薩像を安置した仏堂、大悲閣の名で呼ばれています。ここは了以が河川の開削工事で命を落とした人々を弔うために 嵯峨中院にあった千光寺を移して創建したものです。たくさんの河川開削を行なった了以ですけど、当時は命がけの工事だったのでしょう。了以は金貸し業もしていたので、おそらく借金を返せなくなった人に河川工事の仕事を斡旋したのだと推測されます。他生の縁を大切にした了以の性根と心の葛藤を垣間見るようです。了以は晩年、この大悲閣に隠棲して慶長19年(1614)、 61歳で亡くなりました。嵯峨小倉山の二尊院に了以の墓があります」。
山の中腹に了以の木像が置かれている。自らも石斧を担いで治水工事に当たったといわれる了以の姿を再現したものといわれるが、鋭い目から気迫が伝わってくるようだ。
大悲閣の客殿に立つと真下に保津川が流れ、トロッコ電車や京都市街が一望できる。晩年、了以はこの光景を毎日眺めたのだろう。目の前に広がる雄大な景色に先人のスケールが重なる。
大堰川対岸の亀山公園には、天空を仰ぐりりしい了以の銅像が人知れず立っている。
 
角倉了以像(亀山公園)
みやびな史跡が点在する観光地の嵐山。今までにも何度も訪れているけど、今まで一体何を観ていたんだろう・・・。角倉了以のことも知らなかった。
「観光とは、もともと王様が国の光を観るために行ったものです。つまり、豊かな自然や人々の暮らし、優れた文化を発見すること」と田辺さんから教わった。
まちにはそこに営んできた先人たちのご苦労や知恵が息づいている。そんな歴史に目をやれば、名もない建物や地名すらもイキイキと輝きだす。
 
※「ガイドブックに載っていない関西歴史散歩」は今回で最終回となりました。
長らくのご愛読、ありがとうございました。
4月からは、新連載がスタートします。お楽しみに・・・。
 
 
 
プロフィール
文/写真:フリーライター・池永美佐子
京都生まれ、大阪育ち。
関西大学社会学部卒業後、新聞社、編集プロダクション、広告プロダクションを経てフリー。
雑誌やスポーツ紙等に執筆。趣味は温泉めぐり。現在、恋愛小説 に初挑戦?!
 
案内人:田辺聖浩
京都は西陣の生まれ。写真家、入江泰吉氏に師事。
以降商業カメラマンとして活動する傍ら、文化財や仏像の写真撮影に力を入れている。趣味はクルマと星の観察。只今「神様がつくった絵」と題して空や雲を撮っている。
 
 
サソ